ねざす談議(24) 「状 況」
                                        小 山 文 雄

 教育研究所独自と銘うった教員の意識調査を読んで、 そこに示されたいくつかの思いに惹かれた。
 まず、 教員になろうと思った理由のうち、 自分が教わった先生の影響をあげた人が、 とてもとまあまあをあわせれば53.7%−ここには、 先生という仕事がまともなものとして代々受けとめられていること、 言うならば師資相承がそこに見えて嬉しかった。 それと共に生徒とのふれあいを望んで、 が併せて76.5%−これもきわめて真っ当な願い、 それはまた、 教員という仕事に対する評価中の、 生徒と接する喜びのある仕事66.5%と、 また、 ふだん感じることのうちの、 生徒と接する時間が足りないという嘆きの85.7%と重なってくる。
 こうした情誼の正当性は教育現場の根幹ともなるべきものであるが、 それに対してともすれば立ちはだかろうとするのは管理的発想である。 管理が強まって仕事がやりにくくなっているといつも感じるが75.7%、 ときどきを合わせれば97%、 まさに恐るべき数値と言わざるを得ない。 その由来は管理という名の支配への嗜好と、 成果主義、 効率主義といった目前の功に踊らされた 「破」 教育行政にあり、 それを強いる秕政 (ひせい) にある。
 大昔、 中国の老子はこう言った。
  「其の政悶悶たれば、 其の民淳淳たり。 其の政察察たれば、 其の民は欠欠たり」
 この解釈を 『老子の哲学』 (講談社学術文庫) によって示せば、 「国が簡素で寛大に治められるとき、 人々は誠実で正直である。 国が無情に猛烈な取り調べによって治められるとき、 人々は誤りやすく、 不正直になる」
 政治が口やかましく介入し、 教育行政が主体性を放棄すると、 教員は 「教育」 から遠ざけられ、 遂には世の荒廃をみる。 二千三百年の時を距てていようと事は変わらない。
 それでも、 『老子』 ではあまりに昔すぎるというなら、 近代日本で教育制度創始の、 百数十年前の状況にペンを移そう。
 明治25年、 陸羯南は新聞 「日本」 に 「教育行政論」 を連載するが、 それは次のように書きおこされていた。
  「教育行政は即ち国俗行政の中軸たり。 国俗行政にして挙らざれば他百般の行政皆な充分の効果を見はす能はず。 国俗行政の目的は国民の知見及品行を進路に誘掖するに在り。 知見品行にして上進するの機運に向はざるよりは、 陸海軍何に因りてか進むべき。 外交の道何に因りてか進むべき」 (注。 国俗はその国らしい教化の方向と習わし、 つまり風俗の本義。 誘掖は導き助けること)
 ところが現状はどうか。
  「而して 『教育行政』 は実際に於いて世の所謂る俊傑の士に軽視せられ、 文部省は常に伴食宰相の椅子と為り、 文部官は常に俗士の衣食する所と為る。 是れ其の故何ぞや。 嗚呼亦た以て明治政界の軽薄腐敗を証するに足れり」 (注。 伴食宰相は、 お相伴するだけの大臣。 内閣のうちにあって実権実力が伴わないことへの揶揄。 伴食大臣)
 これ、 事は明治に止まるか。
 羯南はさらに言う。
  「政府は教育行政の機関を以て毎ねに政略の爪牙と為し、 国俗改良の目的をば政権保持の犠牲に供すること一朝一夕の故にあらず。 永遠不朽の基礎を保つべきものは権変無極の政略に隷したり」
 今、 政治は行政を隷せんとし、 行政は教育委員会を隷せんとし、 教育委員会もし教員を隷せんとするなら、 教員ついに生徒を隷せんとするの危うきあることを知るか否か。
 羯南は断言する。
  「今の 『教育行政』 は一定の主義を有するものにあらず、 唯だ他の行政と共に政界の風波を受けて漂泊するに過ぎざるのみ」
 現代、 この 「漂泊」 は止んだか、 と問われて 「応」 と答える元気はない。 むしろ、 審議会、 協議会、 委員会etcを隠れ蓑とする卑陋がちらつくばかりである。 四十年ほど前になるが、 「期待される人間像」 が鳴り物入りで審議会から打ち出され、 つまりは流行の軽口に終わって以来、 やれグローバリゼーション、 やれ個性化、 やれゆとりと、 どれも万能薬のように言いたてられ、 今はゆとりは止めで学力と、 まさに死屍累累の趣きである。 政府や行政がいじればいじるほど国俗は後退し、 教育は基本法の精神から遠ざけられてしまう。
 こうした状況として現代をとらえる時、 放擲の誘いにふと甘美が漂う。 だがそれは敗北への道、 教職を退廃させてはならない。
 道はある。 大状況に向かっての思いを志として胸にあたためつつ、 あえて小状況に深々と身を浸していく道である。
  「ほんとうに出会った者に別れはこない」 〜これは谷川俊太郎の愛の詩の一節だが、 その思いを生徒と交わす眼差しに育みたい。
 自身に改めて自由な発想を促し、 目の前の生徒一人と、 そしてまた一人と、 向かい直し、 共に真実を希求しつづけることも貴重な営みなのである。

   
(こやま ふみお  教育研究所共同研究員)