第12回 教育研究所シンポジウム 2003
「教育改革」 のゆくえを問う
■日 時:2003年11月23日(土) 

■会 場:横浜情報文化センター
14:00〜16:30

6F 情文ホール
◇シ ン ポ ジ ス ト 
         永 田 裕 之 (県立長後高等学校教員)
         石 川 美 邦 (神奈川新聞記者)
         広 田 照 幸 (東京大学助教授)
◇コーディネーター
         三 橋 正 俊 (教育研究所員)
 
 
はじめに

三 橋 (コーディネーター):皆様、 本日はどうもご苦労さまです。 私は教育研究所にも勤務していますが、 横浜西部学区中沢高校の三橋正俊と申します。 コーディネーターを務めますのでよろしくお願いします。
 中沢高校も再編校の1つとして、 来年度より近くの都岡高校と一緒になりまして、 単位制高校に再編されるということで、 今、 準備と後始末に追われています。 そういう中で、 今回、 「『教育改革』 のゆくえを問う」 というテーマ設定がされましたが、 教育改革というと、 いろいろな課題が矢継ぎ早に出てきまして、 現場は混乱の極みという状態になっています。 学校5日制が始まったり、 新学習指導要領に基づく新しい教育課程がスタートしたり、 高校再編で新しい学校が誕生するとか、 再編該当校にならずにそのままの学校として存続するところでも 「特色」 を盛り込め、 というようなことで、 神奈川ではいろいろな形で特色づくりが進められています。
 その上、 いろんな不祥事が新聞報道される中で、 教員に対する綱紀粛正のさまざまな通知が出されたり、 今までの慣行の見直しということも行われています。 こうしたさまざまなことが教育改革という名の下で、 現場に津波のように押し寄せてきています。 が、 今回は、 あまり問題を広く広げてもまとまりがつかないことが危惧されますので、 神奈川県が今進めている高校再編計画を中心にしながら、 話を進めていこうと考えております。
 今日の会の進め方ですが、 この本県の高校再編計画について、 最初にそれぞれのシンポジストの方々から、 現状分析ということで、 それぞれの視点から現状についてお話をいただきます。
 次に、 その上に立って、 会場の方から質
問を受けながら、 今後どうなっていくのかという展望を含めて、 再度シンポジストの方にご意見をいただきます。 その後、 会場の方からご意見をいただいて、 なるべく論点を絞りながら、 少しは議論らしい議論をしてみたいと思っています。 これまでの研究所のシンポジウムでは、 それぞれのシンポジストの方がそれぞれの視点で語って、 まとまりがつかない形で終わるということがありましたが、 少しは焦点を絞った話ができればと思っております。 その点で、 会場の方にもご協力いただくことになるかと思います。

「教育改革」 を教員はどう受けとめているか

三 橋:シンポジストの方からお話しいただく前に、 研究所を代表しまして、 今回研究所が行った独自調査の報告をさせていただきます。 お手元に配布されている 「『教育改革期における教員の意識』 調査」 というパンフレットをご覧ください。
 調査は、 研究所が独自にアンケート用紙を作成し、 配布して実施したもので、 過去から積み上げてきていますが、 今回は今年4月から5月にかけて教員対象に実施しました。 教育改革の波が現場に来ている中で、 現場の教員は一体どう思っているのかを探るために実施しました。 いろいろなテーマについて調査したのですが、 ここで紹介するのは、 高校再編計画に絡んで教員がどう思っているのかについてです。
 まず5ページをご覧ください。 県立高校の全日制・定時制・通信制の教員800名ほどの協力を得て集計したものですが、“教職の喜びは生徒と接すること”という箇所があります。 今回の調査では、 教員になるときの動機を聞いていますが、 その中で“生徒とのふれあいを望んで教員を志望した”という点について聞きました。 「とてもそう思った」 「まあそう思った」 という方が予想どおりたくさんおられたのですが、 それだけでなく、 そうして教員になって現在、 教職をどう評価しているか、 という点についても聞きました。“生徒と接する喜びのある仕事だ”と思っている方とをクロス集計しました。
 生徒とのふれあいを望んで教員を志望した”方で、 現在も 「喜びのある仕事だ」 と思っている方は71.1%という高い数値が出ています。 教職に就くときにはあまりそういうことを意識しなかった方も、 実際に教師になってみて、 生徒とのふれあいで、 その喜びがあると答えた方もいまして、 8割を超える方々がそれなりの生き甲斐を感じているということがわかかります。
 今度は8ページをご覧ください。 ここを見ますと、“教材研究をする時間が足りない”と感じる方が、 「ときどき感じる」 という方を含めて9割を超えています。“生徒と接する時間が足りない”という方も合計で85.7%です。 さらに“生徒の基礎学力を保障する取り組みが不足している”という感じを持っている方が 「いつも感じる」 「ときどき感じる」 を合わせて86.6%、 8 割を超えています。“生徒の興味・関心に応じた授業の工夫が不足している”と感じている方が79.1%で、 8割近い方が“もっと工夫が必要だ”と感じていることがわかります。 この部分を取っても、 なかなか思うように生徒と接したり、 教材準備ができていないという不満を懐いている教員がかなりの数に上っています。
 さらに11ページをご覧ください。 今度は、 現在進められている高校再編を含めた高校改革についてどう感じているかをお聞きしました。“学区制の撤廃”全県1学区にすることを教育長がすでに表明していますが、 このことに関しては、 「とても反対」 「やや反対」 の反対が62.3%、 賛成の方もおられまして14.7%ですが、 半数を超える方が学区制撤廃には否定的であるということです。“推薦入学の拡大、 これも実施されることになっていますが、 「反対」 が54.1%、 「どちらともいえない」 がちょっと多くなって約3割、 「賛成」 は16.0%と少なくなっています。 現在進められている高校再編。 これは単独再編で1校がそのまま総合学科高校になるという形の学校もありますが、 2 校が統合されて1つの学校になるという再編に関しては、 圧倒的に反対が多いという結果になっています。 該当校で 「とても反対」 が52.5%、 「やや反対」 が19.6%です。 非該当校でも数としては5割を超えて、 2校統合方式については 「反対」 の意向を示しています。 再編の中で“単位制高校”が誕生してきます。 どんな単位制か、 ということについては説明項目にありませんで、 ただ単位制高校ということで聞いたのですが、 その設置拡大については意見が分かれました。 「反対」 が33.6%、 「賛成」 が27.5%、 「どちらともいえない」 が38.9%で、 積極的に単位制高校を進めろということにはなっていないし、 また反対もそういうことにはなっていないということです。“中高一貫教育”は後期再編計画で登場してくるのではないかと考えられていますが、 「どちらともいえない」 が44.4%で、 半数近い数字を示しています。
 こうしてみますと、“高校再編 や 入試制度改革”に関しては、 積極的に進めていこうという形での結果にはなかなかなっておりません。 この結果を踏まえて、 最後のまとめに書いたのですが、 生徒とのふれあいを望みながら教職に就いたり、 また、 生徒とのふれあいが仕事の中で楽しいことだと答ながらも、 実は、 教材研究や基礎学力の保障、 生徒の興味関心に応じた工夫というようなことがかなり不足していると不満に感じている方が非常に多い。 しかし、 その気持ちが、 現在の高校再編を中心とする高校教育改革にはそのままつながってはいないのではないか。 最後の13ページに書いてありますけれども、 今回の高校再編は入試制度も含めて単位制高校やその他、 「制度の改革」 ではあるけれど、 それに対する現場教員の感覚は、“もう少し生徒と接する中で、 授業や日常の関わりの中で、 こうあってほしい”ということが改革に結びついていないのではないか、 という感じがします。 そうした意味では、 現場の感覚をもう少し汲み取った形での高校教育改革はどうあらねばならないか、 ということがこのアンケート結果で示されているのではないか、 と私たちは考えました。
 これは話の1つの素材として受け止めていただきまして、 これからそれぞれシンポジストの方に教育改革に関するご意見をいただきながら、 話し合いを進めていきたいと考えます。
 詳しい紹介は省略させていただきますが、 こちらから順に紹介いたします。 県立高校教員とありますが、 現在は鎌倉藤沢学区にある長後高校の社会科教員です、 来年度からは藤沢総合高校として総合学科高校の開校を間近にして、 その準備委員としても積極的に活動されています永田裕之さんです。
 続きまして、 神奈川新聞記者という紹介がありますが、 編集局報道部教育担当記者として長らく活躍されてきました。 われわれとしては、 記者の目から見た、 特に、 生徒あるいは保護者、 そうした県民サイドではこの改革をどう受け止めているのか、 というようなことをできれば話題にしていただきたいと期待して石川美邦さんをご紹介します。
 最後に、 研究者として、 この教育改革をどう考えていったらいいか、 についてお話ししていただきます。 東京大学大学院教育学研究科助教授でいらっしゃいます広田照幸さんです。 すでに受付のところに著書が並んでいたかと思いますが、 『教育には何ができないか』 等、 たくさんの本を出されておりまして、 ご活躍されております。 研究者として教育改革をどう見るか、 という視点でお話しいただきたいと思います。
 それでは、 こちらから順に、 予定時間は10分と短いのですが、 それぞれの立場からの発言をよろしくお願いいたします。

シンポジストからの発言・・・
 
「理想的な総合学科」 へのとりくみ

永 田:永田です。 紹介にありましたように、 長後高校に12年間おります。 藤沢総合高校は11月1日から発足しておりますので、 私は中学校などでは“藤沢総合高校の永田です”と言っております。
 いくつかお話ししたいと思うんですけれど、 今、 三橋さんのほうからこの意識調査の報告がありました。 最初からこんなことを言うのもどうかと思いますけれども、 この調査の内容には若干異議があるという感じがいたします。 私は鎌倉に住んでおりますが、 鎌倉に教育問題に大変強い関心を持っている市会議員がおりまして、 その方の選挙ビラが入っていたのです。 議会でこういう活動をしていますという報告です。
 その中で、 教育問題についていろいろ議会で質問しているわけなんですけれど、 「総合的な学習の時間」 がある、 と言いまして、 あれは組合が始めたことなので私は気に入らないというようなことを言っています。 本当に、 「総合的な学習の時間」 が組合の始めたことなのかどうかは、 いろいろ意見もあるだろうし、 検証が必要だと思いますけれど、 ラフに言えば、 「総合的な学習の時間」 のようなものは組合がずっと言ってきたものだと私は思います。
 しかし、 この教員の意識調査によれば、 「総合的な学習の時間」 の実施については 「とても反対」 というのが37.1%もいて、 「とても賛成」 というのが3%しかいないんです。 仮に組合が言ってきたものだとしても、 実施に当たってこれでは、 うまく行きっこないですね。
 話は急に変わりますけれど、 私はこの 『ねざす』 に書いたことなんですが、 再編の中におりまして、 再編の考え方が大変混乱しているように思います。 夏に 「 LET'S ACSESS 総合学科」 という催しがありまして、 総合学科のことが知られていないので、 是非、 中学生や保護者あるいは先生に総合学科のことを知らせたいという催しです。 総合学科が集まって県民センターでやりました。 会場のステージに、 総合学科5校が1人ずつ並びまして、 私も並んで、 いろいろ説明した、 PRしたわけです。 私はそこでたまたま最後の番だったんですが、 大変違和感を持ったのは、 前の4人は口を揃えて、 いかに自分の学校は進学に有利かということを言ったということです。 高大連携ということもほとんどのところで強調されていました。
 質問がいろいろありまして、 その中に 「それぞれの学校に特色があるということを仰ったけれど、 専門家はいるのか。 専門教育というが、 専門教育についての専門家はいるのか」 という質問がありました。 誰も答えないんです。 私は我が意を得たりという感じで答えましたけれども、 誰も答えない。 お一人は、 スペイン語はこういうふうに配置しているということを言われましたけれど、 専門教育についてはあまり関心がないとそのとき感じました。
 あるいは、 準備委員会で県の高校教育課の方が私と議論しているときに、 「私は理想的な総合学科を創りたいんだ」 と力説されたんです。 理想的な総合学科とは何か、 と聞くと、 その方が言っているのは単位制なんです。 私は、 理想的な総合学科は専門教育がキチッと保障された学校だと思います。 単位制というのは、 総合学科は原則として単位制でやってくださいと指導要領で言っていますけれど、 基本的に総合学科の一番の本質は専門学科を含めた選択制があるということです。 そこのところがほかと違うわけです。 しかし、 理想的な総合学科は単位制だという認識を持っているわけです。 そういうことを一つひとつ取っても、 非常に混迷していると思います。
 私が属している長後高校はすでに1994年からいろいろな改革を進めてきました。 この 『ねざす』 にも書きましたけれど、 その改革の途中で総合学科になりたいんだと手を挙げた学校です。 手を挙げたんだというと、 大体シラっとした反応が返ってくる、 組合をやっているのに、 総合学科に手を挙げたのか、 という感じになるんですけれども、 手を挙げた学校なんです。
 総合学科の本質はこういうものだ、 総合学科というものはこういうもののはずだ、 というのは、 今、 創られている総合学科の中でどれほど試みられようとしているか、 という点で、 大変覚束ないと思います。 私は思うんですけれど、 鎌倉市会議員の方が言ったように、 組合が 「総合的な時間」 を始めたのならば、 もっと組合員の方が再編を改革にして行くべく、 大いに参加していただきたいんですが、 あまりいないんです。 周りを見ていると組合で熱心に活動している方が、 中学校へのPRとか、 そういったところへ出てくるのを私はあまり見たことがありません。 組合の今までの教研の積み重ねを踏まえて、 総合学科はともかくとして、 総合という、 つまりCOMPREHENSIVEということを組合はずっと言ってきたわけですが、“総合制”ということを総合学科の中にどう生かしていくのか、 ということを聞いた験しもあまりありません。 そういう問題意識もあまり感じられないと思います。
 1994年からですからもう大分時間が経つわけですけれど、 長後高校ではとても 「やり甲斐」 があります。 何が 「やり甲斐」 があるかというと、 世間を敵に回しているようなものだからです。 最初の頃、 校長が私に愚痴をこぼしまして、 「いろいろな試みをしているけれど、 中学校側はまったく理解してくれない。 世間が冷たい」 というようなことを言ったことがあります。 最近でも中学校に説明に行くと、 例えば、 「学力の高い子が藤沢総合を希望しているんだけれど、 不安である。 実力にふさわしい学校に送り込みたくなる」 というわけです。“実力にふさわしい学校”というものがあるということですね。 だから、 「藤沢総合が、 例えば、 習熟度別学級をやってくれるとか、 そういうことをいろいろやってくれるならば、 送り込んでもいいけれど」 とか、 「高大連携はどうなっているのか、 進学はどの程度できるのか」 そういうことを聞きたいというわけです。  
 あるいは、 長後高校は地域で取り組みをしていますけれど、 地域の方は 「長後高校は昔はひどかった。 最近はいろいろやったお陰で随分よくなってきた。 苦情も減った。 ひどいこともなくなった。 この上さらに藤沢総合高校になれば、 ああいう、 昔いたようなひどい子たちは1人もいない学校になるんでしょうね」 と仰るわけです。
 1人もいなくなったら、 地域から入ってこれない子がいっぱい増えるんじゃないかと思うんですけれども、 隣で中学の校長先生がちょっと慌てたような、 びっくりなさったような顔をなさって、 その後発言されておりましたけれども、 そういうようなことすべてを引っくるめて、 相手にしていかなければいけないんです。 それが学校改革なんです。
 それをどう考えるのか、 というのは、 そう簡単には行きません。 組合の集会で、 そんなのくだらないと言ったって、 全然説得力はありません。 今報告の中で生徒とどう接していくか、 どんな授業をやるか、 それをやりたがっているという話がありましたが、 学力差のある子をどうやって授業するか、 どういう生活指導をするか、 単位制的運用の中で、 今まで学年制に依拠してきた生活指導はどう切り替えていくべきか、 山ほど課題があります。 こういったものはすべて生徒と直結している課題ばかりです。 そういうことを1つひとつやるときに、 そう簡単に、 校長が言った“世間”の壁を打ち破ることはできません。 大変です。
 是非、 後期再編に向けて、 そういう取り組みに、 組合だったらたたかいにと言いたいところですが、 是非参加していただきたい。 これまでの組合の教研を踏まえて、 是非参加していただきたいと私は思います。
 今日はそれだけは言いたいと思って来ましたので、 最後にもう1回言いますけれども、 とりあえず、 そういうことをお話ししたいということです。

教育は何が間違っているか

石 川 (シンポジスト):神奈川新聞の石川と申します。 1999年に今の再編整備計画案が出たその3ヶ月ぐらい前から担当するようになりまして、 今年の8月までやっておりました。 現在はちょっと担当が変わりまして、 特別プロジェクトティームが編集局にできているんですが、 そこのヘッドをやっております。
 およそ5年見てきたわけです。 私がやった仕事では、 皆さんご記憶にあると思うんですが、 昨年は横浜市教育委員会の不祥事の問題を手掛けました。 最終的には、 公金を詐取した校長とか、 責任を取らない教育長、 教育委員長代理などが市長から更迭される事態にまで行きました。 取材を通じ何を感じたかというと、 やはり、 聖域とされて来た教育界がその中で腐敗が進んでいたということです。 長年自分たちはわからなかったけれど、 今、 永田先生もちょっと触れましたが、 制度改革・システム改革だけではなくて、 教員の長年培ってきた文化のようなものが長い間に腐敗した部分を持つに至ったのではないか、 一般の教員の方ではなくて管理職と言われるところにそれが集約的に出てきていたなというのを感じました。
 もちろん、 たくさんの読者の方から、 「新聞を毎朝かじりついて読んでいます」 「次の展開はどうなるのだろうと一字一句貪るように読みました」 というお葉書、 電話等が編集局にそれこそ山のように舞い込みました。 そういう雰囲気、 やはり、 教育界に対する不信とか疑いというものは、 教員の世界の中にいるとわからないかもしれませんが、 非常に根強いものがあります。
 これは単に不信を持っているというだけではなくて、 また、 教育界だけではなくて、 日本の国が大きく変わろうとしている、 そういう一環として非常に表層的ですけれども教育に対するさまざまな不信があるのではないかと、 取材を通じて感じたわけです。
 もう少し詳しくお話ししてみたいと思います。 先生たちは、 現在やはり疲れているんですね。 何故疲れているんだろうかということを考えますと、 先ほど三橋さんからご紹介があった調査の中にもいくつか出ているわけですけれども、 「教員はもう辞めたい」 という問いかけに対して55.8%の方が辞めたいと考えたことがある、 ということです。 また別のところでは、 「管理強化が進んでいる」 と感じている回答について、 97%がそうだと答えていらっしゃいます。
 どうしてそう感じているか。 私は教師の本業率という考え方を提案したいんです。 教師が本来生徒と関わっていく、 教科であり、 生活であり、 また教員自身の教材研究とか授業方法の研究などが本業です。 教員本来の仕事に携わる時間を勤務時間全体の分母で割ってみますと、 いわゆる本業率というものが出ると思うんですが、 その割合がある学校で調査したところ、 およそ50%でした。 ということは、 残りの50%は教員の本来やるべきこと以外の雑務ということに費やされているということで、 実は、 そこのところに皆さんが 「辞めたい」 とか 「管理が厳しくなっている」 ということを感じる原因があるわけです。
 どんなことかということは、 ここにいらっしゃる永田さんをはじめ、 ご来場の先生方がおわかりのように、 教育委員会の報告とか、 校長への報告など、 さまざまな校務分掌に伴う文書の作成、 レポート、 などそういうこと。 夏休みには研修に出てこいとか、 いろいろなことがあるわけです。 そういう本業率を引き下げているような要素について、 疲れる、 管理が強まっている、 というストレスにつながっているんだと思っております。
 教員がそういうふうに感じていると同時に、 実は子どもたちも、 そんなところで勉強なんかしたくないよという、“学びからの逃走”という言葉がちょっと入りましたけれども、 ますますそういう状態になっております。 今日お隣にいらっしゃる広田先生のレジュメの中にもありますが、 日本の高校生・大学生が勉強する時間帯を見ても、 非常に少ないことがわかります。
 藤沢市の継続的な調査で小中学生を調査したものがありますけれど、 学校へ行く目的という同じ質問を継続して取っているんです。 それを見ますと、 例えば、 学校に行く目的は、 「友だちと過ごす」 が34%。 「将来のためになるから」 が28%。 「義務教育だから行く」 が26%。 「本当に勉強したいために行く」、 これは何と2.7%しかないんです。
 ですから、 学校は勉強するところ、 という本来の目的は、 子どもの中ではもはや現実感がないわけです。 今、 子どもが本当にやりたいこと、 これは私も 『ねざす』 に書きましたけれど、 例えば、 メールをやりたい、 ネットでいろいろなサイトを見ていきたい、 ゲームをやりたい、 テレビを見たい、 ファッションに気を遣いたい、 あるいはもっと行ってしまって風俗や薬物に手を出す、 そういう子どもたちがどんどん増えています。
 私を含めて、 どうなっているんだろう―。 つまり、 学校という器から子どもはもう溢れ出ちゃっているんですね。 学校の先生たちは非常に戸惑っている、 そんな状況だと思います。
 それからもう一つ。 たまたまここにウチの朝刊があるんですけれども、 投稿欄のところに、“川崎のホームレス襲撃事件”について、 港北区の37歳の主婦の方がこんなふうに書いています。 「襲撃した本人たちの罪の意識がないことに大変衝撃を受けた」。 問題は次です。 「一体教育の何が間違っているのだろう」。 こういう問いかけをしているわけです。“教育にどんな問題があるか”という問いかけではなくて、“何が間違いか”とこの主婦は問いかけます。 つまり、 そういうところに、 多分、 お子さんを持っている普通のお母さんも、“教育は何が間違っているか”という問いかけをします。 この辺のところに、 すでに、 冒頭申し上げた不信感とか、 どうなっているのかな、 という気持ちが表れているんだと思います。 この主婦は最後にこう言っています。 「10数年しか生きていない子どもたちに、 大人さえ理解できない世の中のことを詰め込もうとするのは愚かな試みではないだろうか」。
 こんなような一般の人が思っていることをやはり教育に携わる人間はよく受け止めて、 それで今回の改革にどんな意味があるのか、 ということを考えてほしいと思います。 とりあえず以上です。

「教育改革」 を考える2つの視点

広 田(シンポジスト):広田です。 今日はレジュメと資料を用意しました。 レジュメの (1) 「はじめに・・・何を目指して 『教育改革』 を考えるか」 と (2) 「問題の焦点」 を前半でお話して、 (3) 「いくつかの戦略」・(4) 「結語・・・学校で教えることが、 長期的に役立つものであってほしい」 の辺りを後半の10分でお話しすると思います。
  「改革」 をどう考えるか、 というとき、 考え方としては、 中味を充実させる・プロセスを充実させるような改革を目指すか、 それとも結果をどうするのかということを考えて改革するというのでは、 やり方が全然違ってくると思うんです。 何のための改革かということをきちんと考えなければいけないわけです。
 より多くの生徒がより主体的にコミットするような学校を創りたいと考えるか、 それとも、 学校を出た後に高校で勉強して本当によかったと思うか、 どちらにウェイトを掛けて考えるかで、 改革の方向は大分違うものになると思います。 いくつか考えるポイントがあるんですけれども、 ここではとりあえず、 前提になるお話をしたいと思います。
 問題の焦点は、 神奈川県の場合など典型的ですが、 増えすぎた普通科高校があって、 子どもたちの勉強離れが進行しているということです。 昔は、 学校の勉強と企業に就職してからのことは関わりがなくてよかったんです。 日本の企業は、 企業内教育の体系を作ってきていて、 長期雇用の仕組みの中で、 長い間雇って働かせながら、 だんだんにスキルを身に着けていくというやり方を採っていたから、 学校を出るまでに具体的なものを身に着けろということは、 ある意味でいらなかったわけです。
 高校を卒業して事務職とか、 技能職に入って、 そこで勤めているうちに必要なことが身に着く。 あるいは、 大学の卒業生も一緒ですから、 大学で中世の回文とかを研究していても、 別にそれは構わないわけです。 企業に入って、 そこで身に着ければいい。 だから、 高校生は受験のために勉強し、 大学生は最早職業的なことは求められていないので勉強しないという、 そういう構造が長らく続いてきたわけです。
 ところが今、 企業内教育をどんどんスリム化しよう、 長期雇用は止めよう、 という方向に動いていますから、 そうすると今までとは違うものが教育システムに求められるようになってくる。 TRAINABILITYというんですが、 一般的な“訓練可能性”みたいなものが高まっていればいい、 というかつての状況から、 もっと具体的なものを身に着けさせろ、 あるいは子どもたちの側も身に着けたいという状況に変わってきたわけです。
 そうすると、 今までの学校と職業のつながり方というものが変わらざるを得ないという、 そこに改革のベースがあるような気がするんです。 それは子どもたちに関して言うと、 昔のような、 どこかの企業に入って勤め上げていくという、 人生のキャリアの展望が持てない時代になっているということです。 どうなっていくのかわからないという時代になっている。 同時に、 今までの勉強が何のためかわからない、 という学校離れ、 勉強離れが進むという、 かなり難しい時代になっているんです。
 勉強の意義がわからないところで、 人生の方向がわからないというわけですから、 ダブルで難しい時代になっているわけです。 それはエリート高校ではなくて、 むしろ中層以下のところで典型的に問題化していると思うんです。
 資料の図表を見ていただきたいのですが、 図表は高校生の求人件数の推移です。 1992年に167万件あった求人が、 今2002年には 24万件まで下がっています。 高卒労働市場がどんどん悪化しています。 2002年の推計では、 フリーターが193万人です。 今までのように、 それなりの就職ができて、 それなりの人生を送っていけるというような展望が段々持てなくなっているという部分があるわけです。
 新聞記事のほうは朝日新聞ですが、 その一方で子どもたちの勉強離れが進んでいるということです。 私の知り合いが調査したものですけれども、 日本の学校ランクの高いところでは一生懸命勉強しているわけです。 学校ランクの低いところでは、 全然勉強しないという状況になっています。
 そうすると、 学校が子どもたちをつなぎ止めるという点でも、 中以下の学校はどうするんだということが問題だし、 あるいは子どもたちの将来を考えたとき、 恵まれていない労働市場にしか行けないという状況の中、 以下のレベルの学校の進路保障をどうするかといった問題が出てきます。
 ただし今、 石川さんが言われたような、 ホームレスを襲撃するような高校生がボコボコ増えているとは私は思いません。 図表の残りの2 つを見ていただきたいのですが、 上のほうは窃盗犯の人口の推移です。 これを見ていただいて、 重要だと思うのは、 10代の動きと成人とは全然関係していないということです。 つまり、 10代のうちにいろいろ問題が起きている、 中学と高校に問題が集中しているわけですけれども、 そういう子どもたちがその後とんでもない状況になるかというと、 そうではないということです。
 10代の窃盗犯が非常に多かった世代で成人の窃盗犯が増えるかというと、 増えていないわけです。 増えていかない。 10代の18,9才ぐらいになると、 大体減っていく。 それから、 凶悪犯についても最近ちょっと強盗がらみで16,7才から18,9才の辺が増えていますけれど、 だからといって、 どんどん増えていくわけではなくて、 大人になっていくと減るんです。
 だから、 今の学校教育が子どもたちを上手く大人に成長させていないわけではない。 むしろ私は、 学校的な価値から学校離れが進んで、 子どもたちは学校にコミットしなくなっていますが、 情報空間とか消費空間にうまくつなぎ止まって、 それなりにみんな秩序の中に入っているんじゃないかという気がしています。 それほど心配することはないんじゃないかと思います。
 問題は先ほど言いましたように、 勉強の意欲が持てなくなっている子どもたちを学校としてどうやっていけばいいのか、 学校がどうすればそういう子どもたちにとっていいものになるのか、 ということが 1 つです。
 それから、 もう1つは進路保障の問題で、 将来のキャリアを保障するような教育内容をどう考えるか、 ということです。 要するに、 プロセスをどう考えればいいのかというのと、 結果をどういうものとして考えればいいのか、 それぞれについて考えた上で、 これからの学校教育を考える必要があるのではないか、 一応そういうところです。

フロアーから

三 橋:
最初は一渡り問題提起の形でご発言いただいて、 それぞれのお話が出ました。 ここで会場のほうから、 ご質問、 ご意見を含めてご発言いただければと思います。 なるべく論点を明らかにしていきたいという進行にご協力いただきながら、 ご発言をお願いします。 ございましたら挙手を。 発言の際は所属とお名前をお願いします。
★ 質問意見1(県立A高校教員):私の勤務する高校でも、 勉強したいと言う生徒、 家で勉強していると言う生徒がほとんどいない。 三者面談などで聞いても、 試験中は少々で2時間ほど勉強するという生徒もいるが、 試験中でも出かけてしまって勉強しない生徒も多々いる状況だ。 問題を起こす生徒と話していても、“もう勉強がわからない。 アルファベットも書けない。 教科書も全然わからない”と言う。 そういう状態の生徒を抱えているのが実情だ。 何をやりたいかを問うと、“勉強はしたくない。 学校には友達に会いに来るだけだ。 やりたいことは穴掘りだ。 穴掘りは好きなんだ”と言う生徒がいる。 それでは穴掘りをやればいいじゃないか、 と言うと、“高校ぐらいは出ていなくてはダメだと言われるし、 そこがうまく行かなかったときに後の仕事がなくなるから仕方がない。 だから高校に来ているんだ”と答える。
 そういう生徒を相手に、 授業で脱線すると賑やかになるが、 すると“折角勉強しようと思って来ているのにうるさくて勉強できない”と言う生徒も一部にいる。 また、 中には 「国立大学進学を目指すので個人で勉強させてほしい。 学校はそのための便宜を図ってもらえないか」 と要求する生徒がいて、 校長宛に手紙を書いたりしている。
 そういう狭間の中にいると、 どこに焦点を合わせるかが大変難しい。 生徒個々に対応すればいいのかと思うが、 学校ではそれも難しい。 学校は勉強するところだ、 という原点に返って対処するほかないと思うが、 現実の対応は困難を極めている。 高校段階で生徒個々に対して教科を教えることは難しいのではないかという感じを持つ。
 勉強を拒否する生徒には、 社会が寛容になって一旦別の道を用意し必要があれば戻れるという柔軟性が必要なのではないか。 複線的というか複眼的というか、 もう少し幅の広い柔軟な発想が社会に必要なのではないかと感じている。
★ 質問意見2(県立B工業高校教員):永田さんから、 組合がもっと関わったらという提起があったが、 現実にできるか懐疑的だ。 私のいる高校でも2005年に工業高校から総合学科に改編される予定。 全日制は総合産業、 定時制は総合学科。 改編委員として県下の各説明会に出向くが、 改編該当校の説明に違和感を懐くことが多い。
 10月の相模原の説明会には永田さんも来ていたが、 11校の中学の保護者に対する説明会だった。 立派なパンフレットを作ったりして、 全日制の高校はどうして遠くから生徒を刈り取っていくような宣伝をするのかずっと疑問だったが、 永田さんの話を聞いて“砂漠の中のオアシス”を見出したような感じがした。
 総合学科といい単位制といっても、 まず 「受験に向いているからウチの学校へ」 という宣伝に口を極める。 パンフレットと制服。 マネキンに制服を着せて宣伝するなど、 県立高校がいつからか宣伝合戦に明け暮れるようになったという感じが強い。 次年度からは学区が撤廃され、 前期後期の 2 期に分けた選抜システムとなることで、 学校の人気が高いか低いか如実に判明すると考えられる。
 そういう中では、 再編該当校以外の学校もこの宣伝合戦に巻き込まれていくのではないか。 これを冷ややかに見ていた学校や教員に対しては、 今度は 「人事考課制度」 があるので、 イヤでも組み込まれることになるのではないか。 再編計画が県立高校に競争原理を持ち込み、 競争を激化させている感がある。 永田さんが言う総合学科の功罪の功の部分は消えていくのではないか。
 それでは後期計画にわれわれはどう関わっていけばいいか。 県教委が一方的に学校に総合学科を指定する中で、 その学校において新校準備に一生懸命携わると教頭に昇格させられる懼れが出ることもある。
 どういう視点で関わっていけばいいのか、 もう少し具体的に示していただけないか。 視点を今日のこの場で共有することができれば幸いだと思う。
★ 質問意見3(県立C高校教員):高校の教育改革というとき私学がどう関わるのか。 役割分担において私学と公教育との違いを整理しないと、 改革が進めば進むほど形が崩れてまとまりがなくなる懼れがある。
 学区の撤廃というが、 私学には元々学区がないからその後追いと考えることもできる。 中高一貫の公立高校を創る動きが始まっていることも考えると、 公立だけでなく私学を巻き込んだ高校改革にする必要があるのではないか。 これまで公立は私学のことをあまりに考えてこなかったのではないか。 その辺についてお考えをいただければと思う。

シンポジストから・・・ 「進学」 ではなく 「特色」 を競い合う改革を

三 橋:シンポジストに話を戻します。 会場から様々な問題提起がされていますので、 その辺りを組み込みながら、 またこれからの展望にも触れながら、 ご発言いただきたいと思います。
永 田:最初のご意見ですけれども、 長後高校でいろいろ議論になった中にその話が含まれていました。 教科をちゃんと教えるということですけれど、 その教科というのはどの教科のことなのかということです。
 指導要領でいうと、 例えば改革を始めたときに英語は必修ではありませんでした。 現在は必修です。 英語は必修じゃないのに教えるのか。 きちんと教えるべき教科なのかという問題があります。 でも高校というところはそういう問題を議論してこなかったんじゃないかと思います。 普通教科が当たり前のように全部教えるべきだと考えられてきたんじゃないでしょうか。
 私、 『ねざす』 の文章の中に書いたんですけれど、 長いこと普通科というのは改革しなければいけないと言われてきたわけです。 何故改革しなければいけないかというと、 高等学校の目的に合っていないからです。 高等学校の目的とはなにかというと、 「高等普通教育と専門教育をやるんだ」 と学校教育法には書いてある。 しかし、 普通科というのは専門教育をやっていない、 合わせ施すということになっているのに専門教育をやっていないじゃないか、 おかしいおかしいとずっと言われてきたわけです。
 ずっと言われてきたんですけれど、 それはなかなか改革できなかったんです。 ここに来て普通科を改革するチャンスが生まれてくるんだと思います。 その一つは例えば以前の指導要領だったら 「英語T」 「数学T」 「国語T」 についてはみんなやるんだ、 「国語U」 「英語U」 「数学U」 これもみんなやるんだ、 これが普通科ですね、 今までの。
 でも、 それ本当に全部やるんだろうかという問題が投げかけられたわけです。 ウチの職員室でいまだに 「数学Uをやっていない学校なんて普通じゃないよ」 という話が出ています。“やっていない”というのは選択だという意味です。 みんなにやらせていないという意味です。 ですが、 それは 1 つの検討すべき課題だと思います。 広田先生が仰っている“キャリア教育”というほうがむしろ今までの普通科に明らかに欠けていたんじゃないか、 それをやるべきだと思います。
 それは三橋さんがちょっと仰ったように、 昔だったらすべての高校生に職業技術教育をというそういう言い方で言ってきた内容とイコールではないけれど、 重なっている部分があると思います。
 私は2年ぐらい前にちょっとショックを受けたことがあるんですけれど、 藤沢地区のハローワークで担当者の方が進路担当者に向かって話をされたんです。 そのとき中学校の教員も高校の教員もいたんですが、 「中学校の先生に申し上げたいことがある」 とハローワークの職員が言ったんです。 「先生方、 安易に生徒を就職させないでいただきたい。 安易に就職した子どもが一体どうなっているか、 ご存知でしょ。 まず進学させてください」 そう言ったんです。
 これはわれわれが言っている職員室の雰囲気と違うな、 すごいな、 そういうところまで来ているのか、 と思ったんですけれど、 確かに大分前は (何年前とは言えませんが) 企業は中卒者に対して企業内訓練をやっていました。 これを放棄したわけです。 できないわけです、 大変すぎて。
 高等学校はうまく行っているとは、 石川さんが話されたような問題点がたくさんありますから、 当事者としてはとても言えませんけれど、 広田先生が仰ったグラフを見ると居場所としてはとにかく機能しているわけです、 居場所としては。 社会秩序の安定のために。 これは、 私も職員室でよく言うんです。 大変なときはそういうふうに考えないとわれわれのやり甲斐が見つかりません。 われわれがここで頑張っているお陰でいかに社会全体が安定的に機能しているか、 これはとても大きな作用だと思います。 本当にそう思います。 家庭訪問をしたりいろんな事例に出くわすと、 何か問題が起こったときに、 普通に静かにきちんと話せる大人に接するということは彼らにとってとても大事なことだと思います。 これ1つだけ取っても、 学校の役割は果たせていると思います。 もちろん、 カッとなったりして私を含めてそうでない教員もいますけれど、 ちゃんと話せればそれだけでいい作用を及ぼすと思います。
 これは残念ながら教科の知識とは直接関係がないけれど、 学校の重要な役割だと思います。
 そういう中で総合学科のカリキュラムを実施していくのは仰るとおり大変です。 前に 『ねざす』 の中で、 大師高校の方が 「総合学科に適応できない生徒がたくさん来ている。 何の意欲もない生徒が来ている。 どうしたらいいんだという問題があるんだ」 ということを1期生について書いていらっしゃいますけれど、 そういう問題はあります。
 ただ総合学科の学習内容の中でカリキュラムの一部は今までの教科の学習とはまるで違います。 これは冒険ですけれど、 私はやってみる価値はあると思っています。 それでダメかもしれないんですが、 それでダメだったらというときに、 私は定年になっているでしょうからもういないんですが、 また考え直さなければいけないと思いますけれど、 今までのやり方とは違うやり方ができることは確かです。 それでどうなんだろうか。 一部はもうすでにやっています。 希望はあります。 希望が持てる状況はあります。 逆な例もありますけれど、 とにかく希望が持てる状況はあります。
 それを多くの方が一緒にやってほしい。 1人でやるのはとても寂しいというか、 心許ないものです。 是非やってほしいというのが先ほどの話です。
 話が長くなるので先を急ぎますけれど、 ある説明会で私も先ほど発言された方に会って、 定時制というのはまったく違うな、 という感じを強くもちました。 ご自分の勤務する工業高校の定時制についてこういうふうにキャッチフレーズを言ったんですね。 「伊勢丹に買い物に行って帰りに寄れる学校」。 これに対しては爆笑がありましたけれど、 毎回言っていらっしゃるという話です。 これはなかなか言えないです。 定時制というのは抜きん出たところがあると思いました。 けれども宣伝をするということになると、 どうしても行き着くところは“進学だ”ということになるんです。
 しかし先ほどの方のご意見に対して私が思うのは、 文部科学省なんかが言っていることを見れば、 進学を目的として総合学科を創れなどとは一言も言っていません。 むしろ逆です。 今まで“普通科は進学、 専門学科は就職”と固定化して、 あまりに別々になっていたからそれを止めるんだと言っているわけです。 だから、 すべて建前どおりに言ったらどうでしょうか。 文部科学省が言っているとおり、 県教委が言っているとおり。
 前期選抜は学力によらない選抜なんです。 違う物差しでやるんだ、 だからゴチャゴチャになります。 ゴチャゴチャになっていいじゃないですか。 絶対評価は当てにならないと言いますね?中学校の絶対評価は信用できない  。 県教委は何と言っていますか。 「絶対評価は新しい評価方法としてすばらしい。 意欲を評価しているんだ。 だから尊重すべきだ」。 説明会でいろんな学校が“進学のための工業高校”進学のための専門学科”などと言っているんです。 県教委の言うとおり主張すれば、 そういうことにはならないと思います。
 私は管理職になるのはまったく構わないと思うんです。 管理職として、 県教委や文部科学省の言うことを少なくとも教育改革に関するその部分だけは忠実に言うだけで、 それこそ鎌倉市会議員が言っているように組合が言っていることとあなたが言っていることは同じじゃないか、 というようなことになるんじゃないでしょうか。 文部科学省の文書を見ると、 少なくとも、 そういうことが言えると思います。
 それは結構強みです。 私は藤沢北高校との準備会議の中で、 立場のある方が 「新しい学校では理系進学コース、 文系進学コースを是非創りたい」 と言ったとき、 こう言ったんです。 「私は個人的な意見を言わせてもらえるならば、 いろいろ意見はあります。 でも指導要領に基づいて発言しているんです。 それでダメですか?」 そう言ったんです。 私は文部科学省バリバリで言っているわけですよ。 そういうのは結構通用すると思います。 県教委だって通用すると思います、 その限りでは。
 私学と公立についてはなかなか難しいと思います。 取り留めのない話になってしまいますけれど、 この間、 ある中学校で卒業生を呼んで自分の学校を紹介するという催しがありました。 ずっと見ていましたが、 とても面白かった。 湘南地区の某高校の生徒はその中学の卒業生ですが、 「この学校は何でもありだ。 何をやってもいいんだ。 勉強をしなくてもいいしいなくてもいい」 と言ったんです。 いわゆる上位校です。 それが本当かどうかは別としてそういうことを言いました。
 わが長後高校の3年生は、 「君たち、 長後高校を怖いと思っている人」 と言ったんです。 2、 3人手を挙げました。 「僕も思っていたけれど、 全然怖くないよ」 これは説得力がありました。 思わず握手をしたいと思いました。
 ところが私学の生徒は言うことが全然違います。 まずキチッとしています。 お行儀がいい。 それから 「何でもありだ」 とか 「ビーチサンダルだってありなんだ」 とか、 そういうふざけたことは言いません。 内容を聞いていても、 公立とは全然違うなという感じがあります。 私学は私学であるというだけで経済的なハンディを負っているわけです。 公立は、 逆に言えば、 経済的なことだけで有利なわけです。 だから私学は 「特進コース」 などのさまざまな工夫をしています。
 あの私学の生徒の話を聞いていて 「公立はだらしがない。 フリー、 自由。 何でもあり。 伸び伸びできるよ。 だけど流されちゃうかもしれない」。 それで 「私学はキチッとしていて、 ちょっとうるさい。 お化粧を落とすのにメーク落としを持って追いかけてくる先生がいる」 というようなことです。 それを聞いていて 「あれはイヤだな」 と思う生徒も当然いるでしょう。
 そういった中で“特色、 特色”というけれど、 特色って何だろうなと思いました。 ただ、 選んでいくということはもう押し戻せないので、 「特色」 を出していくという形で、 進学というような一律のことではなくて、 (県教委と同じことを言っているんです) 違う物差しの特色を出していくことで、 お互いのことを批判し合うというか、 学び合うというか、 そういう関係になればいいんじゃないと、 そのとき思いました。

学びの機能を支援する学校へ

石 川:いろんな論点がありますけれど、 予備校、 進学塾、 補習塾などを取材しました。 そうしたところが教育改革をどういうように見ているかというと、 ビジネスチャンスというふうに見ています。
 ここにいらっしゃるのは高校の先生が多いと思うんですが、 実は“15の春”という20年前の時代ではありません。“12の春”です。 つまり、 高校に来るまでにすでに、 セレクトが行われています。 小学校6年生の時に中高一貫校を受験して合格するか、 落ちるか、 受けないか、 3つぐらいの層に分かれています。
 受験するために、 小学校3年生から4年間勉強します。 年間およそ60万円から、 高いところでは100万近いお金を掛けるところもあります。 4年間でおよそ200万円から300万円ぐらいは投資します。 それで 12の春”のたたかいを迎えるわけです。
 何を意味しているかと言うと、 広田先生のお話にもつながると思うんですけれども、“双瘤論”という問題が出てきて、 親の経済力が子どもの学習保障にリンクしている、 社会階層の移動はなかなか難しいという状況がますます強くなるだろう、 教育改革の実態はそういうふうになっていくだろうという展望を、 私は持っています。 それがいいか悪いか、 私個人の意見はありますが、 そういうふうに進んでいくだろうと思っています。
 言ってみれば“家庭の教育総戦力戦”というような状況がある種のお母さん方お父さん方の間で始まって、 もうかなり経っているわけです。 ですから公立私立の役割の話が3番目の方のご質問にありましたが、 そういう問題を抜きにしては考えられない。 その問題を踏まえた上で、 これは後の結論で言おうと思っていますが、 やはりもう一度公立の学校が負うべき役割は何だろうかということを考えなければいけない事態に来ているんじゃないかと思っております。
 それで、 広田先生の問題提起では中堅層から底辺層にどういうふうにキャリアを保障し学習目標を持たせるか、 というお話があったわけですけれど、 私はもう一つ、 学習観・学校観の転換が問われているんじゃないかというように思います。
 1番目の先生のお話にもありましたけれども、 もうすでに“学ぶ”という土俵に乗っていない子どもが学校にはたくさんきていて、 居場所というキーワードが最近ありますが、 情報交換し消費情報を交換するような、 そういう役割しか果たしていない。 知識を伝達したり、 教えたりするような機能の学校は成立しないところがかなり出ています。 そうした中で、 やはり近代主義というんでしょうか、 そういう役割を担ってきた学校の体系としての知識を教え込んでいく価値観から、 今よく言われますけれども、 一人ひとりが生涯にわたって学んでいけるそのための基礎的な素養とか、 こうしたときにどう調べたらいいのか学んだらいいのか、 そういう学びの機能を支援していく、 そういう学校の役割に転換すべきではないか。 そういう試みをやっているところも多々あります。
 そういうことが高校でも問われてきて、 いろんな試みがなされなければいけないんではないか。 教育改革、 特に県の改革ではいろんなことが言われていますけれども、 実はそういう問題意識も入っていると思っております。
 取材をしておりまして、 2000年度から2004年度までの前期計画では、 永田先生も当事者でいらっしゃいますように、 普通科の改革です。 ご存知のように70年代半ばから100校計画というのをやったときに、 藤沢工業以外は全部普通科でした。 そういう当時の願いがあったわけですけれども、 それが制度疲労を起こした中でやはり多様化し中堅から底辺層への生きられる居場所のようなところにいる生徒にどう対応するか、 そういう学校を創ってほしい、 一応よく言えばそのような目的でした。
 後期は学区の撤廃がメインになります。 この意味は、 はっきり言って公立・私立の役割などを踏まえて、 旧ナンバースクールの復権です。 よい人材をよい学校に集めて、 公立高校の役割、 鎌倉の某市議が仰るような、 税金を納める学校として公立のそういう役割を担え、 そんなようなことに応える学区撤廃ということになっていくと思います。
 先ほど言った予備校などは非常にシビアに見ておりまして、 各学区のトップスクールと言われているところも多分落ちていくでしょう。 それで残るところは、 ごくわずかです。 実はそこも12の春でセレクトされております。 この状況を予備校や塾はビジネスチャンスと捉えているようです。
 取り留めありませんが、 学習観というものを転換するチャンスだと捉えていくべきでしょう。 体系の中に収斂していくようなそういう知識のあり方ではなくて、 一人ひとりが学びを深める中で一人ひとりの関心の中で拡散していく、 そういうものを支援できるような教員のあり方学校のあり方というものが問われているんじゃないかと思います。

進学を保障する基礎学力を

広 田:お2人とは少し立場の違う話になるかもしれません。 レジュメで言うと、 3のいくつかの戦略のところに3つ、 これからの方向について挙げました。
 1つは、 これまでと違ってアカデミックでない日常生活に根ざした題材とか、 すぐに仕事に役立ちそうな実用的なものを教えるということ、 これが1つ戦略としてあります。 総合制とかいうのはそういうものだし、 一人ひとりの関心に沿ったものという石川さんの今の話もこういう方向だと思います。
 2番目に、 今までのものをどうやって面白く教えていけばいいのか、 内容をある程度限定しなければいけないし詰め込みでない形をやらないといけないけれども、 基本的には今までの算数・国語・英語といった普通科的な科目の重要性をきちんと維持していこうという考え方があります。
 3番目は、 もっと徹底して、 面白くないけれどそれは大事だといって教え込んでしまうという、 そういう考え方があるわけです。
 私は、 どちらかと言うと2や3で悪くないんじゃないかと考えています。 というのはいくつか理由があるんですけれども、 1つは先ほどそちらの先生が言われたように“穴掘りがいい”という生徒に“じゃあ、 やれ”と言ってそれでいいのかということを考えるわけです。 何時までも穴掘りとか缶つなぎをして何十年も生活できるわけではないわけです。 どこかの時点で何か考えないといけない。 工事現場にそういう不安定な形で就労しても、 どこかで、 例えば何とか管理士とか安全管理の資格とか、 そういうものを取って次のキャリアにつなげていかないと、 何十年も同じ仕事を続けることはできないわけです。
 そうするとそのとき改めて勉強し直さなければいけない。 必要なのは基礎的な学力で、 そういうときに問われるんです。 エスピン・アンデルセンという福祉国家論の研究者が言っていますけれど、 生涯学習が役に立つのは基礎的な認知能力のある人なんだということです。 学校に入り直してABCから改めてやろうなんて言っているのでは、 なかなか人生のやり直しは効かないんですね。 すると、 当面本人が望むようなキャリアでやっていくのがいいのか、 それとも将来何かやり直そうと思ったときに“自分にとってこれだけのものが財産になっている”というふうなそういう学校がいいのかということが問われているんじゃないかと思うんです。
 それから2番目に、 今の話と連動しますけれど、 さきほど言いましたが、 高卒就職がどんどん減って大学の卒業生に取って代わられるとか、 今は専門学校の卒業生がやっているとか、 このことを雇用代替といいますが、 それが進んでいるんです。 そうすると仕事のために役立つことを勉強したいというカリキュラムでやっていって、 いざ卒業すると、 自分がやりたいことはすでに専門学校の卒業生に取られているとか、 大卒が入ってきて自分の割り込む余地がないとか、 そういうことが現に起きているしこれからももっと起きるんじゃないかということです。
 そうすると専門学校や大学へ進んで勉強するというそのための基礎みたいなものを学校で教えるという部分がやっぱり必要なんじゃないかということになりますが、 進学校化する懸念とか言われましたけれど、 私は進学を保障すべきだと思うんです。 そのためには基礎的な学力。
 それから、 これからの将来で人生をやり直そうと思ったときに改めて勉強することができるための足場として、 英語とか国語とか (数学がどこまで役立つかわかりませんけれど) 社会や理科も恐らく役に立つんじゃないかと思います。 硫酸が何かがわからなくてボイラーの資格なんか取れないですよ。 そういうものだと思うんです。
 そういうことで考えると、 今までのAやBの方向で、 子どもたちの将来のために、 今はあんまり面白くないけれど、 これはやっておきなさい、 と言って教える学校があってもいいのではないかと思います。 つまり、 最初に言いましたように、 プロセスを充実させるか、 プロセスを充実させて今本人が望むもの、 本人が関心を持つものを教えていけば、 子どもたちがどんどん学んで変わっていくという学校を描くか、 退屈であまり面白味もないけれど学校を卒業してしばらくしたらあそこで学んだことを使っているなという学校を考えるか、 プロセスを考えるかアウトプットを考えるかで改革は違うという、 そんなお話で、 私はそういう意味でアウトプットに責任を持とうとすると少しアカデミックなカリキュラムをきちんと再評価していく必要があるんじゃないかと思います。
 何か、 すぐに役に立たないと本人が言えばそのとおりだと言ってみんなが世論に食いついて、 もっと役に立つことを学校は教えるべきだという世論に浮き足立っている学校というのが今の状況ではないか、 と私は思います。

シンポジスト間の討論・・・キャリア教育と基礎学力のバランスを


三 橋:ここでシンポジスト相互にお話をしていただきたいと思うんですが、 いかがでしょうか。
永 田:広田先生にちょっとお伺いしたいんですけれど、 企業が今までは普遍的な学力を求めていた、 つまり、 将来訓練可能な人材を求めていたが、 それがそうではない時代になったということは、 今まで型のアカデミックな学力を必ずしも求めていないということではないんですか?
広 田:つまり、 企業は優しくなくなったということです。 自分たちのところで長期の技能形成と長期雇用とをきちんと保障していきましょうということがなくなった中で、 では個人がどういう形で人生を組み立てるかということを自分で考えなければいけない時代になったということです。   そのときに、 ではすぐ役立つことを選べばそれでいいかというと、 私としてはそれは決していい選択ではないと思うんです。 誰も援助してくれないでその中で人生を組み立てていくとすると、 いくらでもリスクというものが待っているわけで、 そのときに再挑戦ができる、 新しくチャンスを歩き出せる、 ということを考えたときに、 役に立つことを学校がやるべきではないかと思うんです。
 充実した学校よりは後から気がついたら役に立っていた学校というのが、 後のほうの話で言いたかったことです。
永 田:今までの特に普通科に代表される学校というのは、 各教科の勉強をしていくと自然に人間性も陶冶されるし、 人生に対する見通しもつくだろうというそういう予定調和的な感じがあったと思うんです。 ボクは我田引水で広田さんのお話を伺っているんですが、 要するにそういう時代は終わったということだと思うんです。
 すぐに役立つ、 例えばある技能を身に着けて就職したから1年は役に立つ、 しかし2年以降は役に立たないというような、 そういう意味での職業準備教育ではなくて、 例えば 「職業とは何か」 とか構えを創ることも含めた職業準備教育をやる必要があるということを仰っているんじゃないかと私は思います。 それはまさに総合学科なんですね。 総合学科というのはキャリア教育なんです。 こういう時代になったら、 企業は昔みたいに優しくないから、 キャリア形成というのは自然にできていくものではないし、 自分で見通しを立てて創っていかなければならない。 自分で主体的に早い時期から、 無理でもそういうものを考えていってやっていかないとダメだ、 というのはキャリア教育の趣旨だと思うんです。 今盛んに言われている趣旨だと思うんです。
 総合学科はそういうことを前面に出してやっていて、 『ねざす』 のニュースレターにも書きましたけれど、 「産業社会と人間」 というのはそういうことをやる科目なんです。 「産業社会と人間」 というのは総合学科でしかできないものではないので、 内容もまったく自由にできるので、 是非やったらどうですかということをニュースレターに書いたんですけれど、 そういうことをそれこそ普通科の中でも中層や底辺層に位置するであろうような学校は、 つまりほとんどの県立高校ということですが、 3分の2ぐらいの県立高校は考えるべきではないかと私は思います。
 なおかつ問題は、 従来の大学の勉強の基礎になるようなアカデミックなものと、 そうではないものと、 ただ専門教育というのは誤解があるといけないので念のために申し上げますけれど、 専門教育というのは相当アカデミックなんです。 特に座学、 特に工業や農業の座学はアカデミックなんですけれど、 そういった専門教育も含めてカリキュラムはバランスを考えていくべきだと思います。 課題解決学習のようなものと系統学習のようなものはバランスを考えていかないといけないわけで、 どっちかというのは無理だと思います。
 一切基礎学力なんかどうでもいいと言うつもりもないし、 これは別にPR用に言うわけではなくて、 総合学科はもちろん進学もできます。 進学ができないといったら進路保障ができないということですから、 それは当たり前のことなんですけれど、 当然そういうことも含めて考えられる。 ただし選択制だということです。 そこのところは今までととても違うところです。 自分で考えて決めなくてはいけないということです。 流される場合もあるし流されない場合もあるということですから、 そういうことを考えていくという意味で言えば、 先ほどフロアーから発言された方が仰いましたけれど、 「何で多くの高校の先生がソッポを向くのか」 私にはよくわかりません。
 私はよく言うんですけれど、 斜に構えて見ているんじゃなくて、 積極的に取り組んでいくべきとても大きな課題じゃないと思います。
 問題はたくさんあるんです。 バランスと言うけれど、 どんなふうにバランスを取るのかとか、 そういうこともやりながらこういうこともやる、 両方やるというのは可能なのかとか、 非常に実践的な課題だと思います。
三 橋:私のほうから石川さんにお聞きしたいのですが、 後半のほうのお話で、 「生涯にわたって学んでいけることを支援していくような学校のあり方へ」 ということがあったと思います。 今の広田さんと永田さんのやりとりを聞いていて、 先ほど言われたことのイメージはどこに位置付くお話でしょうか?
石 川:原理的なことと実際的なことの2つの側面があると思うんですけれど、 広田さんのレジュメのいくつかの戦略の1から3を、 総合的な学習の方向か基礎学力の保障の方向か、 またその中間的なものか、 というような捉え方もできると思うんです。 二者択一方式で議論すれば簡単なんですけれども、 私は実際はまったくそうではないと思っています。
 それは広田先生が3つ挙げたところに現れていると思います。 やはりベクトルのようなものだと思うんです。 しかも、 発達の段階というか、 学校が上になるに従ってその割合も変わっていくものだと私は思います。 特に小中ぐらいまでは、 広田先生の仰るように、 「今はつまらなくてもきちんと覚えておけよ」 と。 これが将来生涯の中で、“ああ、 あのときは”ということが思い浮かぶことがあるんじゃないか、 やはりこれは自分のキャリアをどこかで一度考え直すようなときの非常に基礎的な能力の獲得というんでしょうか、 そういうものは絶対必要だと思っています。
 それが今論点のフィールドである高校ぐらいになると、 そういう割合がちょっと変わってくるんじゃないか、 もう少し画一的なものでない自分なりの生き方とか、 キャリアの形成に少しでも近づくような、 あるいは興味が持てるような、 そういうものができる勉強のスタイルというようなものが少し割合として増えてきて、 実はそれが80年といわれる人生を生き抜く中で、 自分の課題を見つけてチャレンジしていく、 それを自分なりに解決していく、 つまりやり直しが効くような道筋を経験して学んでいく、 そういうことがあってほしいと現実的には思います。
 言ってみれば、 大学などもその割合がかなり逆転して、 自分の論文を書くとか卒論を書くとか、 研究テーマを深めるというふうになるわけですので、 発達段階的、 継時的に問題を考えたいと思います。
 それから、 もう少し具体的な話で言いますと、 高校はある種、 地域の中の知識の拠点になってもらいたいなという気持ちを持っています。 開かれた学校ということが今盛んに言われていますけれど、 単にお題目だけではなくて、 例えば土曜日の午後ですとか、 日曜日とか、 あるいはウィークデイの夜間に、 何か市民に、 先生方の持ってきた経験なり知識なりが還元できて、 また、 地域の方々が学びたいというお年寄りの方、 リタイアした方、 中堅どころの人などいろいろな方がいると思います。
 そういう人が集って来て、 情報交換し、 また何か勉強したい、 そういうセンターの機能を学校というものが果たしてもいいんではないか、 というようなことを考えます。 生涯学習ということをいいますけれど、 1つの可能性として公立学校がその役割を果たせるのではないでしょうか。 学ぶ一人ひとりを支援する教員というのもいいのではないか、 と思ったりしています。
広 田:ちょっと議論を面白くするためにわざと対立的に話してしまいましたが、 石川さんが仰いましたように二者択一ではないので、 カリキュラムというのは限られた時間に何をどこまでやるかというようなもので、 いわば限定があるわけです。 どういうふうに優先順位をつけるかとか、 どういうウェイトにするかという話の問題で、 別に10でこちらがよくてこちらがダメというものではないと思うんです。 ただし強調したかったのは、 生徒たち当人の興味に応えるとか当人の当面の進路に応えるとかいう形でやっていくと、 長期的には、 いいことばかりではないのではないかと思います。
 2つ言いますが、 技能はすぐに陳腐化する、 興味関心はすぐに劣化する、 ということがあります。 だから即時的なニーズを満たすような学校でハッピーにやれば、 必ずしも最善の結果ではないということを少し挑発的に問題提起したということです。

再びフロアーから

三 橋:ここまでシンポジストの意見を聞いていただいたところで、 会場のほうからご意見をいただければと思います。
★ 質問意見4(県立D高校教員):ゆとり教育とか学力重視とかいうとき、 子どもの発達段階を考えた議論になっていないことを常々疑問に思ってきた。 発達段階と違うところで一律にゆとりとか学力重視ということが問題なのではないか。
 また今の教育改革の流れは市場原理万能主義が浸透してきている中にあると思う。 80年代に緊縮財政や新保守主義が登場したが、 今の小泉路線はそれを踏襲している。 職場の問題もその流れから来ているように思われる。 公教育の問い直しということが言われたが、 公共性としての公教育をどう築くかが重要ではないか。 地域に根ざした公教育を現場から主体的に創っていくことが肝要ではないか。
★ 質問意見5(市民 (女性)):教育改革でできることはすべてやったほうがいい。 穴を掘ることから始めてやっているうちに多くの可能性が生まれるのだから、 焦ることはないと思う。 ただ、 読み書き算数の基礎がわからない子供が増えていることは問題で、 高校まで来てそういう現実だということが大変だ。
 そうした子どもたちはどこにこれから再び学ぶところがあるのか。 定時制にあるのか。 教育改革においては今の子どもたちが置かれている貧しい現実を直視することが問われているのではないか。
★ 質問意見6(県立E高校教員):私の勤務する学校でも2005年度からフレキシブル高校になる予定とされている。 教育改革ではやっていいこととやっていけないことがあると思うが、 私がいる通信制は教育改革完成状態と言っていい。
 2003年4月に4学年合わせて257名の転編入生を受け入れた。 県内の通信制3校を合わせれば800か900となるのではないか。 さまざまな経歴の生徒が入ってくるが、 基礎力が自学自習の中でできてくる例もある。 通信制にはいろいろな生徒が学ぶが、 理解がいって喜びを露わにする生徒、 勉強と仕事を両立させている生徒など多様だ。
 教育改革が私学においてビジネスチャンスだというが、 通信制ではサポート校というのが増えている。 県立通信制高校生の勉強の補習をするところだが、 全日制に通うふうで見栄も満足させているように思われる。 年間の授業料は3,40万円の由。
★ 質問意見7(県立F高校教員):再編以前からのことだが、 カリキュラム改訂で選択幅が増えている中で、 生徒の“学校は勉強するところ”という意識が薄れてきた。 代わりに学校はキャリア獲得の手段だという意識が強くなった。
 進学校では受験科目だけがニーズとして求められているが、 私の勤務しているような商業高校では直接就職に役立つ技能を重視する意識が強い。 この2つは同根だが、 われわれが生徒のこのニーズに応えるだけでは公共性を満たしたことにはならないのではないか。 生徒の利害以外のことに彼らが興味や関心を持つような機会を与え、 仕向けていくことが肝要ではないか。
高校レベルになってはじめて自分の興味関心が持てるものに出会うということもあるし、 職業以外のものに目を向ける機会がはじめて理解できる時期でもあると思われる。 職業や金儲けには縁はないが、 読書から他人の人生を間接体験して、 思いやりの大切さに思い至ることもあれば、 普通なら目を向けることのない憲法についての授業を受けることで、 社会意識のきっかけが掴めることもある。
 選挙にも行かない若者が増えているが、 彼らの利害関係だけに応じてきたわれわれの迎合姿勢に問題があったのではないか。 学校のあり方の上で、 われわれが最後まで筋論を堅持することが人間として必要なことではないか。 現在、 高校の生き残り競争の中で、 単なる経営競争に堕して、 中学生に迎合する形で筋論を置き去りにしているのではないか。
 教育を守る組合の視点に立ち、 筋論を通すべきではないか。

まとめ
  ・・・基礎学力の問い直しが必要


三 橋:会場からの意見も踏まえて、 最後に各シンポジストのまとめを3分から5分程度でお願いしたい。
永 田:こちらは最後に言うことになるので、 また、 それに対してご意見があると思いますけれど、 そう遠慮していると言いたいことも言えなくなるので申し上げます。
 まず、 キャリアというのに誤解があるようなんですけれど、 キャリアプランニングというのは人生設計のことです。 仰ったようなことはまさにキャリア教育なんですね。 だけど、 高校でキャリア教育をどうやるかということは、 どこでも具体化されていないんです。 県は考えています、 例えば、 教育センターなどで。 一生懸命考えているんです。
 各学校現場では、 考えているんですけれど、 あまり具体的になっていないんです。 非常に実践的な課題なんです。 キャリアプランニングの中では基礎学力も重要なんです。 そういうことを社会が変わって、 先ほど広田先生がご指摘になったような新しい状況の中で、 また、 若年層にフリーター志望が多い中で、 どうキャリア教育をやっていくかというのはとても重要な課題だと私は思います。 これは県教委が言っていることですから、 やりたいと言ったところで、 誰にも反対されません。
 公共性という言葉が出ましたけれども、 例えば、 よき市民として、 民主主義の実現に努力していくというのは、 もう、 公共性の中でも最たるものです。 それをどう保障していくか、 ということも課題になっているわけです。 ちょっとしつこいですが、 これも、 誰も反対できないテーマなんです。
 基礎学力の問題については、 そもそも基礎学力を一生懸命つけようとしてなかなかつかないのは何故か、 というところから改革が出発していると、 私は思います。 ずっと前にこのシンポジウムで平安高校の方が、 課題集中校としては普通科は手に余ってきているということを仰っておりますけれど、 そういう感じがあるんです。 手に余るとはどういうことかというと、 いくらやってもその基礎学力が身につかないわけです。
 1970年代に基礎学力保障というのをやったことがあるんですが、 私は工業高校にいましたけれど、 放課後全職員で中学校レベルの数学の補習をしたりしました。 これがどうだったかという問題なんですが、 その場ではわかるんです。 テストをやるとできるんです。 ですけれど、 しばらくすると元に戻るんです。 それは何故か、 という問題があったと私は思います。 興味のないものをやってもしょうがないじゃないか、 ということですね。 じゃあ、 興味はどうやってつくっていくか、 もちろん、 先ほど広田先生がご指摘になったような移り変わりがありますから、 そういう問題を抱えながら、 どうやって基礎学力を身に着けていくかというところから発想していかなかったら、 教育活動など意味がないと思います。
 ただ、 何が基礎学力か、 という問題があるんじゃないでしょうか。 昔の普通科のように、 英語・数学で、 ここまでは基礎学力だといっているうちに、 3年間全部必修だったんです、 基本的には、 30年ぐらい前は。 それが基礎学力だといわれたんです。 そういうことから、 そもそも基礎学力とは何か、 という議論は必要じゃないか、 ということです。 それを考えていって積み上げていったら、 また、 3年間必修になったんじゃあ元の木阿弥で、 そんなことは耐えられないんじゃないかという話です。
 私はほかにも言いたいことはたくさんあるんですけれど、 5分経っていますから、 終わりにしなければいけないんですが、 近くに比較的ランクの高い高校があって、 その高校ですら宣伝が必要な時代になったという話が雑談で出たんです。 そうじゃないととんでもない生徒が入って来ちゃうからだ、 というんです。 宣伝する暇と時間があるんなら、 とんでもない生徒が来ても大丈夫なように、 研修するほうがいいんじゃないですか、 と私は言ったんですけれど、 宣伝というものを何のためにやっているのか、 該当校なら該当校で議論したら、 その議論の中に、 例えば、 ここで出ているような議論が一本入れば、 大分違うと思います。
  「宣伝が必要だよね」 「是非とも必要だ」 「宣伝のポイントとして何が必要か」 「どれほど大学に行けるかだ」 ワーッとそれで行って、 説明会に行くから、 ご指摘になったようなことがあるんじゃないでしょうか。 そうじゃないでしょ、 という話がそこに加われば  。
 長後高校の昔担任をやったある生徒に、 「先生、 長後高校って頭がよくなっちゃうんだって?私みたいな子は入れなくなるの?」 と言われたことがありますけれど、 まさにそういう子たちが現実にいるわけで、 高校にも来るわけで、 そういうことにどう対応していくか、 ということがなかったら、 高校全体の改革にならないですね。
 ですから、 今日のここまでの議論が準備室や準備委員会やワーキングの議論の中に、 1本でも2本でも入っていけば違った議論になると思います。 それを是非後期再編ではしていただきたいし、 私も可能性があればしたいと思います。
石 川:私は学校の役割、 教師の役割ということに関して言ってきたつもりですけれども、 ポストモダンと言われる、 情報を核にするような社会のあり方に変わってきている中で、 学校も教師も子どもたちも変わっていくんだ、 そのためにどういう対応をするのか、 という道筋とプロセス、 さらに実際にどうやるのか、 そういうことが問われているんだと思っております。
 ちょっと抽象的ですけれども、 私は新聞記者ですので、 政治的なスケジュールから言いますと、 2005年度には自民党が憲法改正を発議します。 2007年度にはもう1度総選挙が行われると思っております。 多分そこが、 いわゆる戦後のあり方の大きな節目になるでしょう。 2010年には現在とはかなり形の変わった憲法を持つ国になる可能性が非常に高いという見通しを持っています。
 その憲法が変わる中で、 教育改革、 教育基本法というのも連動させて動いていくんだという認識を私は持っていますし、 是非、 教育委員会の方々なども、 そういうことも念頭に置きながら、 具体的な教育改革の中味を考えてもらいたいなと思っております。
 まとめとしては、 やはり、 基礎的な能力、 一生涯いろいろな場面で自分をやり直せる、 キャリアの変更ができる、 そういう学力というか能力をティーンエイジャーの間にきちんと身に着ける、 そういうことが必要だと思います。
 もう一つは、 総合学習といわれるような経験主義的な学習のあり方、 これは日本の義務教育ではこれまでほとんどなかったけれども、 こういうものについて、 もう少し高校でも可能性を探ってもらいたいと思っております。
 それから、 冒頭新聞記事を引用しましたけれども、 これはかなり極端な例として川崎のホームレスの話を出しました。 広田先生のご指摘のように、 全体としては日本の社会はまだまだ安全ですけれども、 子どもたちの中に、 もしかしたら命の大切さ、 人を思いやっていく公共性のようなことがすっぽり抜け落ちつつあるのではないか。 実は、 子どものそういう状況というのは、 これは大人の反映ですので、 私たち大人の世界にお互いの命とか、 命の大切さというものを思いやる心が欠けてきているんじゃないか、 ということを反映しているのが、 新聞記者的に言えば、 ホームレス襲撃の背景にあると思います。
 最後に1つ紹介しますが、 これは私の希望ですけれども、 今回の教育改革、 制度・システムの改革によっては教育の本筋は変わらないと思っています。 教える内容の問題、 教員の方々の本業率、 本業にどれだけ時間を割くことができるか、 つまり子どもと向き合う時間を確保できるか、 そういうところが大切なんです。 その中で命の問題というのを、 是非、 これはもう教えなければいけない時代に入っていると思います。
 それでこんなことを紹介して終わりたいと思います。 殺人とか強盗とか、 触法少年です。 処分を受けた少年たちの更生を手助けする民間の施設が横浜市にあります。 民間の人がまさしくボランティアで、 自宅を開放してやっているものです。 そこでは、 少年たちはひたすら石を磨いております。 この中には、 あれだな、 と思う人がいるかもしれませんが、 1年間子どもたちは与えられた石をサンドペーパーでずっと磨いています。
 何をやるか。 つまり、 自分が犯したことを振り返り、 命の大切さを実感する、 忍耐する、 それで自分が更生していく、 そのためのことをよく考える、 その時間だ、 それが石を磨くということだということです。
 その施設の入り口のところに、 1つの額が掛かっていて、 こんなことが書かれていました。 「肥だめにエンドウ豆。 泥沼に蓮の花。 人、 皆に種子あり。 明日は何が咲くか」。 ですから教育にとって、 一番大切なのはやはり命ということ、 その大切さがまずベ−スにあって、 その上に学ぶとか、 教育ということが成り立っているんだ、 ということです。 これは私の希望ですけれども、 1人の親としても、 子どもに接するときに命の大切さを是非伝えていただきたい。 その上に成り立つ教育というものを考えていただきたいと思っております。
広 田:私より教育学的なお話を、 今、 石川さんから聞いたような気がしますが、 本当に高校はご苦労様だと思います。 非常に難しい社会の問題を全部押し込んで、“お前らで、 ちゃんとやれ”という職業の問題も、 逸脱の問題も、 全部高校で何とかせいという話でずっと来ていて、 何かあると教育が悪いという話は、 教育にそこまでできるのかというところを踏み越えたところまで社会から要求されて、 永田先生はじめ皆さんご苦労様でございますと申し上げます。
 その上で、 今日の話を聞いていてなるほどと思ったのは、 「基礎学力をどう定義するか」 ということをきちんと考えるというところから、 教育改革の功罪というものを議論する必要があるということです。
 私はちょっとエキセントリックといいますか、 挑発的にいいましたけれど、 「反知識主義」 とか 「反道具主義」 みたいなものをあまり進めすぎるとよくないので、 やはり、 知識は重要だし、 道具としての教育という側面は考えるべきだと思うので、 ちょっと言いましたが、 何がこれからの基礎になるかということを考えながら、 教育のあり方を考える必要があるというのが2点目です。
 3点目に、 今進んでいる 「特色ある学校づくり」 などというのは、 ある意味で、 やはり市場原理で競争しろと言われているようなことで、 どうしても短期的効用の話に行ってしまいがちだと思うんです。 親や子どものニーズに応えるとか、 すぐに結果が出るとか、 そういう短期的なところに行きがちなんだけれども、 少し長期的に、 実は経済や政治に関係している子どもの人生設計だけじゃなしに、 経済システムにも関わっているし、 民主主義にも関わっているんだと私は考えるんです。
 30年経って、 関心や意欲に溢れた国民と知性と判断力に溢れた国民のどっちを取るかというときとか、 そういうことを考えるので、 どこまで学ぶかということが民主主義の基盤であったりするような気もするんです。 短期的な効用で競争する仕組みというのはあまりハッピーじゃなくて、 腰を据えて長期的に役に立つことをきちんとやっていけるような教育システムを創っていただきたいと、 私は思います。
三 橋:シンポジストの方から一通りまとめのご意見をいただきました。 コーディネーターの役目をしろと言われて、 何とか議論のできるような中味にしたいと考えました。 高校再編の話にしても条件整備の問題に終わらせるのではなく、 今後神奈川の財政が悪化していく中で、 教育改革の根っこに何があるのか、 どうしたらいいのか、 というところを考えていきたいと願いました。
 論点や観点の違いが意見に現れました。 もちろんとことん詰めるというような議論はできませんでしたが、 教育改革について一通り、 示唆になるような話が出てきたのではないか、 と思っております。
 基礎学力とは一体何かというとき、“基礎”という概念自体も10年20年の間に変わってきていて、 先ほど永田さんが言われましたけれど、 「高校で教えていることは全部基礎だよ、 と言って3年間共通でみんな必修にしてきた」 時代もありましたから、 それを考えると、 今 「基礎とは何か」 がかなり揺らいできています。 文部科学省のほうでも、 ゆとりをつけすぎた教育課程をもう一度再検討するというようなことでやり始めているようですけれども、 現実に学習意欲がない、 あるいは、 違う方向へ関心が向いている子どもたちに対して、 市立を含めた公教育に何ができるのか、 というようなことを今後詰めて考えていく必要があるのではないかと考えております。
 十分なまとめにはなっておりませんけれども、 これから考えるきっかけになればと思っております。 以上でシンポジウムを終わりにしたいと思います。 シンポジストの皆さんどうもありがとうございました。


   
(たけだ まさこ 教育研究所員)