バトンリレー 研究所員による 「書評」
 中井浩一編 『論争・学力崩壊2003』 
中公新書ラクレ2003年
                                        阪 本 宏 児

 本書は、 中井浩一編 『論争・学力崩壊』 の続巻として刊行された。 2000年10月〜2002年 9 月までに発表された15本の論稿や対談を所収、 「学力低下」 や学校改革をめぐり巷間で流通している言説を概観することができる。
■何が論点か
 もっとも、 本書を通読しても 「学力低下」 という事実をめぐって論争がなされている印象はほとんど受けない。 「学力」 論争の当事者の一人として、 新学習指導要領路線を批判してきた苅谷剛彦は、 2002年12月に発表された全国学力調査の結果を受け、 本書終章のインタビュー (「「論争」 の次に来るもの」) で次のように述べている。
  「…低下していないという、 事実認定をめぐる議論自体は、 この時点では、 もうやっても仕方がない。 問題は、 …今後何が起こると予想するか、 それにどう対処するか、 ということです」。
 学校で 「がんばること」 が普遍性を失いつつあるなかでの 「学力」 論議に、 そもそも何の意味があるのか?といった根底的な疑問は依然残るかもしれない。 しかしながら、 「だれがより勉強しなくなったのかを見ると、 そこにははっきりとした階層差が現れ始めている」 という指摘 (佐藤・苅谷・池上 「教育改革の処方箋」) や、現在の 「教育改革」 は 「ある特定の層に都合のいい仕組みになっていく」 と予見する斎藤貴男の主張 (斎藤・宮崎 「徹底討論ゆとり教育は 「理想」 か 「平等破壊」 か」) には、 たとえば 「底辺校」 の現場を知る者なら容易に共感できるリアリティがあるように思える。
  「学力低下」 批判に独自の距離を置く論者もいる。 編者が 「進歩派」 と分類する汐見稔幸は、 「学力」 とは本来、 過去と比較できるようなものではなく、 安易に 「低下」 を口にすることは、 子どもへの 「バッシング」 につながると慎重だ (「私たちが 「学力」 を語り合おう」)。 あるいは、 「学力低下」 を 「近代的な国民教育が、 成熟した社会状況にマッチしなくなってきている」 現れと捉える宮崎哲弥は、 「教育改革」 を、 近代教育を見直す好機と積極的に位置づけている (斎藤・宮崎前掲)。
 それぞれ耳を傾けるべき点はあるのだが、 「階層」 という視点を提起する所論と比べると、 どこか心許ない。 「最も気にかかるのは、 …子どもたち自身が、 学力についてまったく語っていない」 ことだと言う汐見の観念論や、 「この教育改革」 が 「市場化をめざしているわけではない」 証左として、 「通学区域の自由化が盛り込まれなかったこと」 をあげる宮崎の楽観論では、 「階層化」 という大きな社会変動の兆候を見逃すことになりはしまいか。
■教師主敵論
 それにしても、 「教育改革」 は教師の改革・改造にこそ始まる、 といった論調は目立つ。 文科省スポークスマン寺脇研と、 アンチ新指導要領の急先鋒和田秀樹が、 教師批判では見事に意気投合している姿は象徴的だ (「対談 どうする 「学力低下」」)。
  「一回なってしまえば、 ものすごく身分が守られている制度」 のなかにいる教師に 「切り込んでほしい」 と要請する寺脇に、 和田は 「セクハラをしようが、 女子生徒の体を触ろうが、 そういう法律に抵触するようなことをする教師をクビにできないというのはやはりどう考えてもおかしい」 と返す。
 寺脇の結論は、 「どんな学習指導要領だろうと、 力のある教師がいたら、 和田さんにお叱りを受けないような授業ができるはず」 というもの。 予定調和丸出しのやりとりが、 「まずもって問われるべき教師の質と立場」 として居丈高に語られている。
 同様な図式は、 榊原英資と小野元之の対談にも見出せる (「激論 本当に 「ゆとり」 でいいのか」)。 「想像力は詰め込まなければ出てこない」 という元大蔵官僚榊原と、 「授業時間を増やせば学力が上がるほど単純だとは捉えてい」 ないという文部官僚小野の対論は、 それなりに興味深いが、 「教員の身分を保障した教育公務員特例法が、 教育改革のネック」 だとする政治性はしっかり共有されている。
  「教師主敵論」 とでもよびたくなる調子は、 多くの論稿に通底している。 近代教育を疑う宮崎ですら、 「いまの教育をダメにした元凶はいつまでも目覚めない親と教師」 と発言している。 諸悪の根元が教師にあるなら、 とどのつまり、 教師を 「改革」 すればよいことになる。 実際、学区自由化と予算配分の差別化で名を馳せる品川区教育長若月秀夫は、 「学校選択制とは校長や教師の意識改革のためのカンフル剤」 だと言い切っている (「「学校選択制」 導入で教師の意識がこんなに変わった」) 。
■新たな対立軸?
 編者の中井浩一は、 「学力低下」 論争によって従来の二項対立 (善悪や左右) は 「無効化」 され、 論じられるべきは、 諸格差の拡大が避けられない 「グローバル社会」 のなかでの 「「ミニマム (最低限)」 の絶対値とその保障の仕組み」 になったと言う (「序章 時代を問う論争、 時代から問われた論争」)。
 押し寄せるグローバリゼーションの波に、 「格差拡大か現状維持か」 を対置するだけでは済まない、 という主張は肯ける。 しかし同時に中井は、 東京都の行政・校長協会・組合の三者において 「一番進んで」 いるのは都教委、 「一番ダメ」 なのは教組と決めつけ、 「国旗・国歌の徹底」 をはじめとする東京の 「改革」 は、 「グローバリゼーションへの対応の一つ」 として肯定的に評価する (「ルポ 石原教育改革の衝撃」)。
 これでは 「グローバル化」 を名目に、 「右」 向きのベクトルは再定義し、 「左」 向きのベクトルだけを捨象しているように読めてしまう。 「若者の間に階層の二極分化が生まれつつある」 状況をはっきり認める若月が、そのうえで、 「「格差をなくす」 という発想自体」 を指弾し、 教員の 「意識改革」 を求めている態度とも似ている。 二項対立図式とは別次元であるはずの論議に教師論が介在すると、 途端に旧来的な政治性が露呈するように感じるのは、 私自身が教員だからだろうか。
 学校現場では暗黙の了解事項であった学校間格差と家庭の諸格差との相関が、 「学力低下」 論争をきっかけに公然化しつつある。 しかし、 「今後何が起こると予想するか、 それにどう対処するか」 という肝心の問題は、 ことさらに繰り返されるシンプルな教師批判の後景に退き気味になってはいないか。
 本書から、 「教育改革」 をめぐる言論の一つの構図が垣間見える気がした。

 
   
(さかもと こうじ 教育研究所員)