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 「学校がもう砂漠の中に来てますぞ」
(宮沢賢治 『氷質の冗談』  1925年)
                                        湯 原 清 隆

 人は言語で認識し思考する。 学力低下の実相は、 意欲低下、 「ゆとり」 による内容減以前に、 幼児期から日常豊かな語彙に触れず、 テレビ漬けやゲーム脳で抽象的に思考せず、 読解力や思考力想像力を育めずに読む・考えることが面倒で苦痛となったことにある。 即物的刹那的となった表れが、 新聞非購読層の増大や、 政治や地球のことは 「教養」 ある他人任せとする無関心であり、 自らを社会的に認識せず他者の境遇を想像できず年 3 万人を自殺させる政治のワイドショー化や空疎なワンフレーズに喝采し、 不正規雇用・解雇や福祉切り捨て等への閉塞感を朝鮮人等への集団ヒステリー報道や日本の軍事大国化に漠然と紛らし、 アフガンやイラクの惨状を想像できない、 衆愚化、 生活保守主義と排外主義であろう。 本来学校は、 多様な生徒・教職員との会話や書き言葉の使用が語彙と思考を豊富化し、 読書を通して経験を超えた世界に視野を広げ想像する契機を与える。 様々な個性と未来を持つ生徒集団の中で利害損得に囚われずに感情や意思を交流し、 自治を体験する。 「的確な職業観・勤労観や職業に関する知識・技能を身に付けさせる」 以前に、 共通の教養として、 例えば、 正しい歴史認識を通して現在の社会を相対化する批判的思考力、 数学を通し具象を抽象化し法則化する思考力、 神秘主義的 「道徳」 に洗脳されない自然科学的認識、 等を育み、 職業や専門を超えた普遍的な価値観を思考し、 利害を超え理想を思索する人格を形成すべき場が学校である。 ところが、 「高校教育改革」 では、 「さまざまな学習希望や進路希望に応える」 として教育課程が進路の効率優先に偏重し、 皮肉にも学習指導要領に基く必修科目以外、 学校間さらには学校内でも異なる教育に選別が一層進んでいる。 効率を優先するマニュアル化で共通する職業技能教育や進学用受験教育に生徒を功利的に納得させ、 「自己決定・自己責任」 の名で進路 「成果」 が追求され、 「成果」 に繋がる生徒の獲得を競い、 繋がらない生徒や教育分野は切捨てられる。 商品であり顧客である生徒への生活指導も 「茶髪ゼロ」 マニフェスト等“売り”となって魂を失い、 業者の 「学力」 診断や検定への依存からも教育内容は規制され、 「一流」 大学合格マニフェストでは生徒の大学ブランド志向をたしなめ、 学ぶことの意味を考えさせることもできまい。 「成果」 主義である以上勤務評価も必然である。
 この教育の公共性喪失・モラルハザードは、 教育を日本企業の国際競争力に奉仕させ、 認識主体としての人格形成や、 主権者としての政治的教養も、 そのための学問の自由も、 否定するものである。 「改革」 に抗い、 かっての日教組方針 「人間として生きる十分な教養を学校が保障すべき」 との視点に立って、 我々は初めて教育基本法改悪= 「統治行為やサービスとしての教育」 と根底から対決できるのである。
  
   
(ゆはら きよたか 県立厚木商業高等学校教員)