|
はじめに 1956年6月1日、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」(以下、地教行法と記す)の強行採決に反対の社会党は、芥川事務総長不信任決議案を提出、趣旨説明後、反対派内で質問と答弁を繰り返した。長時間答弁の江田三郎議員に議長は降壇を命じたが応じなかったので、衛視の力で降壇させようとしたため社会党議員団と衛視の間で小競り合いがあった。一応休憩となったが、休憩の間に廊下で衛視と社会党 秘書団とが揉めた。午後8時22分本会議開始となった。しかし、社会党議員がまだ入場していない段階で議長は議場を閉鎖し、自民党だけで、事務総長不信任案を否決した。社会党議員は衛視を実力で排除し議場に入り、松野議長は再び休憩とした後、警視庁機動隊の出動を要請した。機動隊員 500名が院内に導入され、内 150名が議場内に入った。2日午後6時、採決が行われ、結果は、投票総数 212票、可 143票、否69票で可決成立した。国家権力の教育に対する抑制、一般行政から教育行政の独立、教育の民衆統制を制度化という、戦後教育行政の三原則は大きく揺らいだ。以下、教育委員会(以下、教委と記す)の在り方の変遷、教育の中央集権化の過程を見てみる。 教委制度の発足 1946年3月31日、米国教育使節団の報告書が発表された。その内容中に、「公立の初等及び中等教育の管理に対する責任は都道府県及び地方的下部行政区画(即ち市町村等)に委せらるべきである。各都道府県に教委または機関が設立され、一般民衆の投票の結果選出された代議的公民によって構成されるよう勧告する。この機関は法例に従ってその都道府県内の公立諸学校を全般的に監督するものとする」とあった。しかし、新制中学校が発足した直後の47年4月17日に公布された地方自治法は、知事の下に教育局(東京都)、教育部(道府県)が置かれることとされ、法制度の下では教委のような特別な機関を設置する考えはまだ出ていなかった。しかし、この時点より前に、教育刷新委員会の論議の中では、教委のことは論じられていた。46年10月4日の第5回総会において「教委に於ても選挙に依って、其の方法さえ好ければ立派な人が得られ、日本の教権の確立、民主化ということも実現出来るのではないかと思う」という発言が出されている。 教育改革を推進する内閣直属の審議機関であった教育刷新委員会では、第3特別委員会が教育行政に関する事項、即ち、教委法構想の検討を担当した。同特別委は46年10月9日に第1回の会合を開き、「文部省の案としては、内務省の官吏を地方で以て拵えることはいかぬ。そんなことは要らぬ、しかし文部省だけ残しても今度は文部省が自分でセントラリゼ−ションになって、地方に鎮台を持ってやったら尚細かくなる。そういう分権という意味でもない」「文部省で細かいことまでやったのを知事の官房でやられてはたまらない」とまだ内務省が存在する中での教育の地方分権についての論議が行われていた。 第11回特別委は11月22日に開かれ、第9回・第10回で論議されていた「数府県を一単位とする教育機関の設置につき審議」の結果の纏めが提案され、設置区域、委員の選任方法、権限等が検討された。数府県を一ブロックとする地方教委(以下、地教委と記す)設置の構想であったが、この地教委の名称は、後に市町村教委が都道府県教委と区別して地教委と呼ばれる委員会とは逆に、都道府県の枠を越える広さの地域を担当する教委で、中央官庁支配を脱する学区庁制という案であった。ブロックとしては、北海道、東北、関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州の九つが考えられたが、この案は反対勢力の阻止に合い日の目を見なかった。 片山・芦田の二代の内閣の文相を勤めたのは森戸辰男であったが、森戸は教育委員の公選制には反対であった。彼は総司令部と公選制阻止で交渉を続けたが、失敗し教育委員は公選制となった。教委法案は48年6月15日に提出され、7月5日に成立している。その内容は、教委は地方公共団体の行政機関であり、合議制の独立機関で、公立小・中学校教員の人事権は市町村教委の所管とする。都道府県教育委員は7人、市町村教育委員は5人とし、いずれも内1人は地方議会の議員が互選で、他は住民の選挙で決定する。委員の任期は4年で、2年毎に半数改選とする。等で、48年10月5日、第1回教委選挙が都道府県、五大都市、46市町村で行われた。 市町村教委の問題点 市町村教委については、第1回の教委選挙後も、財政問題や公選制に因る教育委員の資質の問題が論議されていた。49年4月の教委法改正で、五大市以外の市町村への教委設置は2年延長して52年11月1日とする、となった。次いで、50年5月にも法改正がなされ、教育長の権限強化、教委に教育財産の取得・管理・処分権などの授与が行われた。文相の諮問機関として教委制度協議会が設置され、51年2月に第1回総会が開催され、問題点として、教委の設置単位、教育事務の再配分、教委の職務権限、教育財政の確立、教育委員の選任方法、教委と教育長の関係という六つの事項が挙げられた。同年10月31日の最終総会で答申が正式に決定し最終報告が協議会から発表された。内容は、設置に関しては、都道府県と五大市に義務付け、他は任意とし、事務配分については、概ね現行法の建て前を甚だしく変えない。職務権限に関しては、宗教法人と私学行政も所管するとし、教委の財政権の確立問題は、教育財政を一般財政から分離する制度は、現段階では採り得ない、義務教育費について、全額(または半額)の国庫負担制を採ることは、十分に考慮を要するなどが結論とされた。委員の選任方法に関しては、公選制・任命制について、賛成いずれも過半数に達せず結論は出なかった、としている。また組織ついて、教育委員数は地方公共団体に選択の余地を残す、としていた。 この時点で、日教組は教育委員の公選制堅持であるが、全市町村教委設置には反対に対していた。一方、体制側には、都道府県と五大市以外の教委廃止、任命制委員という意見が多かった。 52年5月、政府は「教育委員選挙期日臨時特例法案」を提出、市町村教委全面設置の時期を1年延長させる方法を採ろうとしたが、与党の自由党が反対で衆議院文部委員会では同法案は否決され、本会議に上程されたが審議未了となった。その間、7月10日に開かれた日本教育学会理事会で宗像誠也等有志署名の声明書が出された。声明書中に「研究の結論が1年延期であるにも関わらず、突然政治的に決定される情勢をみれば現実政治の駆引が、教育に及ぼす影響を無視することは出来ない。時期の切迫のため数名の教育学者が署名するが、市町村設置反対は、総ての教育学者の意見とみてよいであろう」とある。また、日教組は、7月24日に、教委市町村設置反対教育防衛国民大会を開催し、決議した文中には「われわれは教育を守り、地方財政擁護の立場であくまで教委の市町村設置に強く反対する」としていた。 自由党の反対は、定見があつての反対ではなかった。即ち、自由党は8月1日に以下の声明を発した「地教委の設置を1年間延期する改正案は、この国会で審議未了となり、来る11月1日地方教委を設置することになっているが、わが党は次期国会において本制度の改正に付地方の実情に即するよう適当な措置を講ずる方針である。従って予定されている8月26日からの次期国会で再度上程され成否が可決される」としていた。この適当な措置の中に、公選制から任命制への切替えがあり、8月からの特別国会に政府案が再提案されれば、自由党の対応に変化が出る可能性が強かった。だが、抜き打ち解散のため法案審議は行われなかった。この結果、教委選挙はその時点での法律通り行うことになった。 市町村教委設置と反対運動 文部省は、延期法不成立となった上はやむなしと、52年8月29日に教委設置の方針を発表し、更に、9月1日、文部事務次官が、全国市長会会長、全国町村長会会長宛の通知「市町村教委の設置について」を発している。内容は「現行教委法により、本年11月1日全国の市町村に教委が設置されることとなっております。御承知のように、先般来の教委法改正問題の経過等の事情もあり、教育委員の選挙、委員会の設置について十分の準備を整える余裕を得なかったのでありますが文部省は最善の努力を払い法の施行に遺憾のないようにいたすつもりであります。そのため今回の教委の設置につきましては、別添の方針を決定し必要な資料の作成、配布、打合会の開催等を即刻始めることと致しました」として、教委の協力と支援を要請している。別添の「教委の設置に関する方針」は、「設置について」「運営について」の2項目に、各3ヵ条の方針を示している。更に、9月2日、文部事務次官・自治庁次長連名で、各都道府県教委・各都道府県知事宛の通知「教委の設置について」を発している。内容は「8月28日衆議院が解散されたため、今年11月1日には現行法通り全国の教委未設置の市町村に新たに教委が設置されることになった。ついては、取敢えず下記の諸事項に留意して教育委員の設置指導に関し何分の御配慮を煩わしたい」という前書の後、教委の設置、教委における事務処理、教育委員選挙期日などについて連絡している。文部省は、この通知に続き、9月8日の事務次官通知「市町村教委の設置について」、9月9日の事務次官と自治庁次長との連名通知「教委法施行令及び公職選挙法施行令の一部を改正する政令の施行について」と連続して通知を出しており、急転換の市町村教委設置に対応するための準備を進めた。 52年10月5日、第3回教育委員選挙が行われ、11月1日、全国一斉に地方(市町村)教委(以下、地教委と記す)が発足したが、同月15日に早くも都道府県国町村長会は、地教委を市町村長の諮問機関化を要望している。18日に文部省は、都道府県教委への通知おいて、市町村教委の運営に関し、「基本的態度について」「事務に処理について」の説明事項を示し、適切な指導、助言を加えるよう依頼している。しかし、27日の全国町村長大会において、教委の諮問機関化、地教委の運営に要する経費に関する財政措置等の要望を決議している。 教育委員公選制反対・地教委廃止の動き 翌53年1月23日、地教委連絡協議会が結成されたが、31日には全国町村会定期総会で、地教委の市町村長の諮問機関化を要望している。7月22日の全国町村会臨時総会において、教委廃止に関する要望が出された。要望が諮問機関化から廃止と変化した。9月9日に、文相が、都道府県教育長協議会臨時総会で教育の中立性維持と市町村教委の育成を要望している。15日には、全国都道府県教委協議会は、教委の公選制等の現状維持を会として決定している。10月28日の全国町村長大会で教委廃止に関する要望が再度出されたが、11月9日には、政府・与党は、市町村教委の育成方針を確認している。12月15日、文教懇談会(首相を中心とした懇談会、メンバ−は、首相・文相・小泉信三・高瀬荘太郎・板倉卓造・安藤正純・羽田享・和辻哲郎・中田薫・長谷川如是閑・中山伊知郎)の後で、大達文相は、地教委は育成したいと述べている。 54年に入って、全国町村会は、1月29日の定期総会、3月11日の常任理事会、9月24日の議長会、12月の大会と地教委廃止に関する要望、決議等を頻発している。これと並行して全国町村会長会、全国市長会も同様な動きをしていた。これらの動きに対して、8月20日、文相は「地方財政が今日の如く逼迫したのは教委があるためだということは、私には肯定出来ない」「教委制度の本質は地方住民による直接選挙制にあると思う。この直接選挙制を廃止して任命制にすることは教委制度の形式だけを残すことになって、本来の趣旨に反することになる。私の廃止しないということは都道府県教委と地教委を含めての考えである」と述べている。しかし、8月27日付『毎日新聞』は「ひとり地教委の育成強化を主張していた大達文相も、最近は『地教委制度の任務、権限などは他の行政機関との調整を考えて必要に応じて変える』といった軟化した態度になってきた」として、文相の教委制度維持の方針に変化が見えるとしていた。54年11月に全国町村会は、教育委員会批判と廃止要求に関する主張を約7700字に及ぶ長文に纏め発表している。12月10日、第一次鳩山内閣が成立し、文相には安藤正純が就任した。 新教委の性格を巡る攻防 55年1月13日、安藤文相は日教組の要望に答え、都道府県教委委員の公選制は維持するが、選挙お方法などについて検討中であることを明らかにした。しかし、全国町村会、全国町村長会共に教委廃止要望を引き続き、定期総会、臨時総会、大会などで行っていたが、一方、教委側も、8月に、全国地教委連絡協議会は、現行教委法中の絶対堅持を要する事項、改正を要する事項、廃止を要する事項、教委法運営上、地方公共団体の長と調整を要する事項、都道府県教委と調整を要する事項を列挙し、各事項毎に要望内容を詳細に記していた。また、10月29日、地方制度調査会も教委廃止を含む地方財政対策を答申している。11月になると、教委制度存続育成強化等を希望する側も活発に動くようになり、11月24日、全国地教委連絡協議会からの要望、民主党文教制度調査会特別委員会の教委制度に関する見解に反対の声明を出している。また、12月13日には全国地教委連絡協議会と町村教育長協議会が共催で総決起大会を開催し、現行教委制度堅持、委員公選制堅持等を決議し宣言文を発表している。 56年1月7日、自民党文教制度特別委員会、教委制度改正問題について基本方針を最終的に決定した。即ち、直接公選制を廃止し、教育内容に文相の勧告権を認め、予算案送付権を認めないことを主眼とする方針を決定した。13日には、全国町村会が、地教委の全面廃止を決議している。16日、自民党文教制度特別委員会は、公選制廃止・地教委存続を盛り込んだ教委制度改正法要綱を発表した。一方、18日、全国地教委連絡協議会は地教委の存続、委員公選制の堅持、人事権の絶対確保等を声明した。 2月1日、全国都道府県教委・教員協議会は、教委任命制度改正反対を決議し、共同声明を発表しているが、同日、文部省は、自民党政務調査会政策審議会に「教委制度改正要綱」を提出し、清瀬文相が説明した。内容は「公選制を廃止し、権限を縮小して、都道府県及び市町村に教委を存続する」「委員の数は5人とし(町村にあっては、事情により3人にすることが出来る)、地方公共団体の長が、議会の同意を得て任命する」「予算条例案についての二本建制度を廃止する他、学校施設の取得、処分、予算の執行等について地方公共団体の長に一定の調整権を持たせる」「都道府県の教育長は文部大臣の、市町村の教育長は都道府県の教委の承認を得て、教委が任命する」等で、名称は引き続き教委と称しているが、質的には明らかに変化した組織になる原案であった。 新教委法成立 56年2月13日、自民党政務調査会政策審議会は、「教委制度改正要綱」を発表した。内容は、同党の文教制度特別委員会案と同じで、同党の方針がこの段階で確定したといえる。これに対し、17日、全国都道府県教委協議会は、自民党の教委制度改正案に対する批判書を発表した。20日、日教組は第13回臨時大会を東京で開催し、教委制度改正法案等一連の政府の文教政策の阻止を決議した。 文部省は、2月23日から25日にかけて地教行法の案文を作成し、29日、自民党政務調査会政策審議会も、新教委制度の改正案を検討し、最終案を決定した。同法案は3月8日に国会へ、そして13日には衆議院本会議に提出された。14日に、全国都道府県教委委員協議会は、清瀬文相に対する不信任決議を行ったと発表しており、同日に、神奈川県教委は、公選制度廃止反対のために、教育委員全員の辞表を纏めているが、16日には、全国町村会は・地教行法の成立に関する要望を発表している。 3月19日、矢内原忠雄東大総長等10名の大学関係者が、文教政策の傾向に関する声明を出し、地教行法案・教科書法案反対を明らかにした。20日、自民党は、矢内原総長等の声明に対する反論を発表、教育制度改革は推進する旨言明しているが、総長等の声明支持の人々は増加し、23日には、滝川幸辰京都大学総長等、関西13大学の総長・学長が、19日の声明に「教育本来の使命に鑑てその声明の主旨に賛成し、これを支持する」と声明を発表した。更に、27日には全国76大学の教育関係者 617名が、学問の自由を守り、教育統制に反対するとの声明に署名発表している。また、29日に全国中学校長会、全国小学校長会等5団体も「学長声明」の支持を表明した。同29日には、全国都道府県教委委員協議会・全国地教委連絡協議会は、日教組等の教育団体と組み、14団体連名で、教育の民主化を実現する基盤は教育委員の公選制にあるとして、地教行法反対・撤回を要求している。 4月9日に全国知事会議は、「教委制度の改正は、地方行政の衝に当るわれ等多年の強い要望である」「教育委員の公選制廃止、教育予算案、条例案の二本建制の廃止等重要事項においては、全国知事会が要望したものを相当に採り入れている」として、地教行法案の審議促進について要望している。5月3日には、全国知事会・全国市長会・全国町村会の連名で要望書提出が行われており、地方行政機関は挙げて地教行法の成立に賛成であったと言える。4日、全国都道府県教委委員協議会・全国地教委連絡協議会は、日教組等の教育25団体と連名で声明を発し、地教行法の参議院通過阻止に全力を結集するとしていた。 地方教育行政に繋がる団体が、全国知事会・全国市長会・全国町村会側と全国都道府県教委委員協議会・全国地教委連絡協議会側とに分かれ、激しく対立し、各々自派の主張をより強く訴え、実現するため要望書・声明を数多く公開すと共に、前者は、政府、国会、保守政党に働き掛け、後者は、教育諸団体に呼び掛けていた。 警察官導入という異常事態で、6月2日参議院本会議において、文教委員長加賀山之雄が中間報告を行ったが、記録に依れば、「聴取不能」「議場騒然・聴取不能」「発言する者多く、議場騒然、聴取不能」等の箇所が9ヵ所あり、議場の雰囲気が想像される報告であった。しかし、この報告に基づいて、強行採決され、地教行法並びに地教行法の施行に伴う関係法律の整理に関する法律が可決成立した。戦後民主教育を支える柱の一本であった教育委員の公選制は廃止された。 |