<退任のあいさつ>
「子どもと向きあう」を…
                         小山博美

◆「分からない一人として」
 思いがけず10年もの長きにわたり、所員として在籍させていただいた。
 私は教職員ではなく、一般県民である。突然当時の書記長から電話で依頼があった。
「月一回の所員会議にまず出席してみてください」の言葉に、いろいろ質問したと思うが、「1年だけやってみますよ」と引き受けたのだったが…。
 はじめの頃は「何について話し合っているの?」「その単語なんのこと?」「重要?火急的問題?」「組合の話題?」この場に座っていてよいものか途方に暮れるほど「?マーク」が多かった。
 教育研究所が一体何を目的に設置され、組合とどういう位置関係がとられているのか、全くといっていいくらい分からなかった(今も分かっているわけではないが)。この分からない部分私の立場で重要なのだと思えるようになった頃から、肩の力と部外者意識がぬけ、遠慮のない態度で向き合えるようになった。

◆「社会教育の流れ」
 ところで私は長年「社会教育」に関わってきた。学校連携・融合という言葉でおなじみの「社会教育」である。
 1947年に公布された「教育基本法」の第7条(社会教育)の中には「家庭教育・勤労の場所、その他の社会においての教育を、国・地方公共団体は奨励しなければならない。2.図書館・博物館・公民館等の設置と学校施設の利用など適当な方法により、教育の
目的の実現に努めなければならない」と記されている。
 その具体的な推進のために1949年「社会教育法」が公布された。その第一章第2条は「社会教育とは『学校教育法』に基づく学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動を言う」となっている。
 「学校の教育課程として行われる教育活動を除いた全ての教育活動」とは、これほど漠然としたものはない。
 学校教育は、大学はともかくとして、小・中学校は「義務教育」であり、高校も90数パーセントの子どもがあたりまえのように通っている。しかし社会教育は奨励方法であり「義務」という言葉は見当たらない(当時は極力排除したものと思われる)。国からある程度の予算はあったが、地方公共団体の自由裁量と住民の意識の高低にまかされる型なので好調な運営をしている市町村とそうでない所の格差は大きい。例えば公民館の数や職員の存在をくらべてみても、ある市には27館あり、ある市には5館(人口数23〜25万人)正職員6人の所があり、ゼロの所もある。
 また1990年には生涯学習振興法が施行され、ますます自由裁量と格差に拍車がかかってきた。生涯学習の考え方は「自らの意志で、自分に適した学習の手段や方法を自ら選び、生涯にわたって学習する人」を「いつでも、どこでも、誰でも、何からでも学ぶ」を支援する振興法である。「あァ、なるほどいいねェ!」と納得してしまいそうであるが、学習する(できる)人、学習(できない)人の差を広げ、実力と競争原理、そして何でもありが公然となったように思える。(公民館講座で麻雀、ゴルフ教室を実施したところもある。)

◆「社会教育の柱」
 ところで社会教育は、先に記した社会教育法第一章第2条には「…青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動を言う」と規定されているように、主にグループ・サークルづくり、団体の育成を目的に持っている。これは個人ひとりが学習して終わってしまうのではなく、まずグループを組織し、活動しながらお互いを知り、支え合う力や、チームワークを培うなどの考え方を前面に出したものと思われる。そのために公民館や社会教育行政窓口には社会教育主事という資格を持つ職員(必置ではない)が置かれ、コーディネイトや相談・支援・育成が行われてきた。
 グループの育成を一つの柱とするならば、もう一つの大きな柱はもう一つの大きな柱は「社会教育事業」である。この「事業」に対し、しっかりと意識を持っている市町村を例にあげてみると、「現代的課題への対応」と位置づけて、いくつかの基本項目(人権教育を始め福祉・健康、平和、自然・環境、災害、国際・情報化、歴史・文化・芸術、青少年育成、子育て支援など)を掲げ年間事業計画に入れて講座を実施している。
 社会教育法(第一章、第3,4,5,6条)「(略)国・地方公共団体は予算の範囲内(これが減少の一途の理由)において、財政的援助、物資の提供及びあっせんを行う」と記され、この予算の裏づけが、曲がりなりにも社会教育奨励、発展の源になってきた。
 講座や体験活動ほか調査・研究などの「事業」の実施が、社会教育の「生命線」と捉えている関係者は多い。

◆「教育基本法見直しと闇」
 ここにきて性急と思える進め方で教育関係の法律にメスが入れられてきている。法律という存在は関係者以外ほとんど注意を向けていないため「気がついたらこうなっていた」と驚く状態である。社会教育法は公布から57年目になる。この間、本質的な整備は一度も見えないまま、「形骸化」や「制度疲労」と断定的に言われている。それを言うのであれば、議会制度や行政、司法のあり方も、銀行を初めとする企業もそれ以上であると思う。本質と闇の部分に目をつぶり、着手しやすいところからメスを入れてきた。
 戦後の学校教育を一括りに言われるが、私の子どもが中学生の頃を例にとってみると、マンモス校(1学級40数人、1学年12学級時代)であった。学校は荒れていた。顔も名前も覚えてもらえない生徒さえいた。反対に問題を起こす子どもは覚えられた。何とかしなければと先生方は走り回り、夜遅くまで対応・対策のい追われていた。親としても学級懇談会や学年集会を何度も開いた。先生と生徒と共に「取り組み」に向かい、少しづつ落ち着きを取り戻していった。これこそが好ましいPTAのあり方だと思い熱心に関わったが、「生徒会は何をやっているんですか、生徒中心にできることがあるんじゃないですか」の問いに答えらしいものはなかった。(この子どもが現在小・中学生の親となっている。)この状況において、制度とか、戦後の教育の問題とか、基本法が良くなかったと言うのであろうか。この時も教育改革は声高に言われていた。

◆おわりに
 子どもの状態が目に明らかになってきた今こそ、一つの機軸としてのあり方は、腰を据えて、子どもたちと向き合いながらの教育内容を提示し取り組む必要があるのではないだろうか。一部の人たちで進め、上から下ろすのではなく、現場と協働の議論こそが大切なのではないかと心から思う。
 もう一方の機軸は教育基本法にプラスする型で「子どもの権利条約」や「障害者福祉法」、「女性差別撤廃条約」を基本ベースに敷いていくことが重要である。
 それと同時に教育と言う前に子どもが自然の中で木登りをして遊んだりできる状態を回復したり、車社会、24時間営業社会、自動販売機などにメスを入れて見なければならない。 
 さて、今後も私は教育界へはもとより「?マーク」が消えることはないと思う。特に国の方向には、疑問符どころではない、不気味ささえ覚える。
 現場関係の人たちはお互いの理解と連帯の再構築が急務であると思う。子どもの将来の着地点はどういう状態になるのであろうか。
 最後に1年のはずが10年の長きにわたり、教育研究所の皆さまを始め、教育会館の多くの方々にお世話になりましたことを心よりお礼申し上げます。この原稿も遅筆な上に相変わらず手書きときています。代だいの特別研究員の方には特に迷惑をおかけしておりました。お許しの程を。
 皆さまのご健祥をお祈りいたします。


退所の言葉
                   山梨 彰

 2003年3月をもって、教育研究所の所員を退所しました。1993年に所員になったときの自己紹介文(『ねざす』12号 1993/10)を、この挨拶文を書くに当たって読んでみました。その一部に以下のような箇所がありました。「若い人々が、知的に精神的に自立し・自律していくのを援助するどころか、その全く逆を進めている、いまの教育体制。」10年後のいま、教育状況はさらに悪化しているようです。教育に競争原理を導入することがあたかも当然であるかのような世論がジャーナリズムによって形成されています。日本社会に階級・階層分化はこれからいっそう深まることでしょう。戦争への現実的な脅威とともに、教育は、国家権力のイデオロギー装置であるという本来持つその機能がひとえに浮き出されてくるようです。また、批判性をとうに失ったジャーナリズムと結託して、支配権力は、教師へのいっそうの管理を強化してしまいました。被害者は子どもたちです。
 神奈川の高校教育もこの大きなうねりの中に飲み込まれて、浮動しています。学区の全面廃止の愚かさは明かですが、ほとんど思いつきのような「新しいタイプ」の高校が次々と作られている現状を見るとき、その背後にある教育理念とは何なのか、大きな疑問です。
 「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という警句を念頭に置きつつ、権力の強引な作用は必ず破綻する、と思いたいものです。そういえば、魯迅は「絶望が虚妄なることは、正に希望に相同じい」と語っていました。諦観を持つことなく、そして柔軟さと自己への批判的な目もこれからもしっかりと持っていきたいと思います。
 教育研究所で学んだことは、陳腐かもしれませんが、何よりも議論の大切さでした。月1回の所員会議でしたが、現場ではあまりしなくなってしまった教育論議によって広い見方を教えてもらったような気がします。自分の書きたいことしか書かなかった『ねざす』や『教育白書』の論文の構想・執筆の過程でも良い思考訓練とモノの見方の深化に役にたったようです。いまは、養護学校に勤務しています。多忙ですが、この新たな世界の経験を、自分の中にどう結実させようか、一つの楽しみでもあります。教育研究所は、これからも何らかの形で関わっていきたい場所です。希有で貴重なこの場所に繁栄あれ!(県立藤沢養護学校 山梨 彰)