寄稿


新しい「学校」の創出をめざして
 
                   
近藤茂人


0.はじめに
 現在、小泉首相および鴻池大臣が押し進める構造改革特区制度において、教育特区という言葉が生まれるほど、教育改革問題が大きな位置を占めるようになった。この教育特区の問題点については、本誌No.31において金沢所員より分析がなされた。
 本レポートにおいては、昨年の12月以来、市民団体とともに実際に特区提案の作成、そして行政への働きかけを行った経験から、市民側から見た特区制度の功罪と、合わせてその経験を元に学校教育の置かれている現状とその未来について述べてみたい。

1.市民による特区提案
 不特定の市民団体に対して、初めて具体的な特区提案について働きかけがあったのは、昨年の12月14日、上智大学加藤幸次教授主宰の東京チャーター・スクール研究会の席上であった。そのとき60名あまりの市民団体の関係者が出席する中、後藤祐一経済産業省政策局参事官補佐(当時)より特区制度を利用して、フリースクール等がNPO法人立学校として、あるいは自治体から委託を受ける公設民営学校として、認められる道のあることが解説された。このとき第2次特区提案の〆切1月15日まで一月あまり。学校教育法第2条により、行政と学校法人にしか認められなかった学校の設立・運営が、NPO法人等にも認められる可能性を示された各市民団体のメンバーは、あるいは半信半疑、あるいはネオリベラリズムのにおいを嗅ぎとりつつも、文科省・教育委員会・既存の私立の独占していた学校教育に風穴を開けるべく、特区提案の作成に取りかかった。
 多くの市民団体の担当者は、法律に対してまったくの素人であった。彼らが、自分たちの作りたい学校を実現させるためにはどの法律のどの部分をどのように変えればよいのか、勤めの終わったあと、あるいは休日に、学校教育法・同施行令・同施行規則・地教行法等に詳細に目を通し、幾度となく勉強会を開き、正月返上で特区提案にこぎつけたときには、大きな感動を禁じえなかった。
 2次提案では、株式会社の学校設立が早々に認められたのに比して、NPO法人は継続性・経営の安定性に問題ありとされたが、再検討要求、再々検討要求を通して粘り強く運動を展開し、行政や政治家、学者やマスコミに働きかけ、ついには特区においてNPO法人立学校の設立できる制度の創設に至った。
 今後は、3次提案4次提案を通して、公設民営方式の学校設立を訴えていくことになろう。市民による特区提案は、さらに学校教育の多様な有り様を、市民のニーズに直接応え、当事者が直接経営判断のできる学校制度を求めていくと思われる。

2.市民から見た特区制度の功績

 (1)行政と戦うための行政サービス
 今まで、市民の声を政府に伝えようとしても、門前払いやたらいまわしにされていたものが、政治的な権力闘争のためとはいえ、政府内の改革勢力が、市民からの発言を求め、市民と協力して既存の諸官庁に規制緩和を迫る状況は、大きな時代の変化を感じさせるものであった。
 特区制度の大きな特徴は、今までは教育問題について何か施策を求めようとしたならば文科省と直接交渉をしなければならなかったが、特区提案については官僚組織の一部である内閣官房の構造改革特区室が、提案者になりかわり、担当省庁と交渉する点にある。しかも、その交渉の経緯は逐一特区室のホームページに掲載される。このやりとりを通して、文科省側の論理構成は次々に破綻していった。法律を基に論理的に交渉することに、普段必ずしも慣れているわけではない市民にとって、官僚の優秀な頭脳と交渉力を利用できることは、すばらしい行政サービスであった。

 (2)法令解釈のチェック機能
 特区提案においては、多くの提案が省庁側から門前払いを食ったが、その門前払いを通して、所管する省庁によって一方的になされる法令の解釈が、明白になった。特区制度のもう一つの利点は、所轄の官庁による法令の解釈を明らかにし、それによって恣意的な解釈・運用を押さえられることにある。市民側は、省庁より示された法令の解釈に基づいて、さらなる特区提案を考えればよいのである。

 (3)市民の政治的目覚め
 行政という職業的制度的国家統治機能に対して、多々制約はあるにしても、市民たちは、特区制度に直接自分たちの欲しい国家運営制度を提案できる可能性を見いだした。そして、特区制度を利用することを通して、市民団体の担当者たちは、法律について実際の運用にまで思いをおよぼして学習し、その制約を乗り越えるビジョンを作り出した。それまでは、法律などは自分たちの手の届かない遠いところにあると思っていた市民にとって、自分たちの手で法律が変えられること、法律を作れることを、実際の体験を通して学んでいくことは、何にも代え難い財産となった。
 このような現場に立ち会って思うことは、まさにベルリンの壁が崩れ落ちるのに立ち会っているという実感である。今まさに変革期なのであろうと思う。

3.特区制度の限界と危険性
 もちろん特区提案は、特区の条件に合えばだれでも提案できるというだけであって、それが特区制度として採用されるかどうかは、最終的には時の政権次第である。おそらく首相が替われば、状況は全く変わるであろう。さらに特区制度として採用されたとしても、それが自治体で実施されるかどうかは自治体次第である。自分の住んでいる自治体が、採用された特区制度に特区として手を挙げてくれなければ、絵に描いた餅である。実際、NPO法人立学校をやろうという自治体はまだない。むしろ理解のない自治体がほとんどである。このことは、市民団体の担当者を焦燥させ、落胆させているのも事実である。今後は自治体を動かすノウハウが問題となってくる。
 特区制度の実現しようとしている構造改革は、規制緩和という手法による自由競争によるものである。したがって、ここで起こる教育の自由化は競争を引き起こす。
 もちろん、教育の自由化を主張している中には、新自由主義的な考え方から市場原理の導入を考えている人々もいる。構造改革特区で新しい学校を作ろうとしている勢力の中にも、市場原理派と市民運動派があると思われる。おそらく特区において起こる競争について、十分な注意がなされなければ、何らかの混乱を招くであろう。十分な注意がなされているか、混乱の程度はどのくらいか、などを評価する視点は不可欠であろうと思う。

4.市民団体が提案した教育特区の内容
 誤解のないよう確認しておかなければならないが、市民団体の提案の求めているものは、直接的には公立学校の改革ではない。多くの提案は、既存の学校の外にあるオルタナティブな教育を学校教育の一部として認めてほしいという主張である。このオルタナティブな教育の大きさであるが、数%、どんなに大きく見積もっても5%までは行かないだろうと思われる。個人的には、全国的な制度ができたとしても、当面1%を超えることはないだろうと考えている。(アメリカのチャータースクール制度ですら2〜3%である。)
 もちろん、既存の学校教育に問題意識を持っているからオルタナティブな教育を求めるのだが、レギュラーな教育の外に、それとは別のオルタナティブな教育が存在することは、社会が健全性を保つためにも、文化の多様性を保証するためにも、社会にとって有益なことで、その経費を全体で負担することは、成熟した社会にとって自然なことではないだろうか。
 当然、オルタナティブな学校は、通常の学校に影響を及ぼすであろうが、それは、公立学校の選択制がもたらす意味とは異なる。新しい学校を作ろうと特区提案をしている市民団体の求めているものは、教育の自由化であるが、教育の市場化ではない。求めているものは、教育の多様化である。すなわち、学校学校での自由な運営・経営・カリキュラム・教員採用等を求めているのである。公設民営学校を求めていても、それは公教育の経費削減をめざした『安上がりな教育』を求めているわけではない。教育を受けたい者と教育を行いたい者のニーズに合致した、当事者主権主義に基づいた学校を求めているのであり、競争原理により学校をよくしようという視点はまったくない。

5.社会の歴史状況と教育の現状認識
 学制発布以来、今年で131年である。日本全国、平等で均一な教育をめざしてきたことは、大きな成果を上げ、すべてとは言えないが、多くの意味で豊かな国を作り上げてきた。しかし、この2,30年、このシステムがうまく機能しない場面が、多々見られるようになってきた。社会が変化しているのは、誰の目にも明らかであり、しかも変化のスピードを上げてきている。
 もちろん、社会がどんな変化をしようとも、不易はあり、教育もそうなのかもしれない。しかし、この辺で、現状の教育システム、学校システム自体の見直しを検討することも必要ではないだろうか。
 現在、文科省の対応は、非常に場当たり的で、危険な状況といえる。例えば、入試改革には手をつけないで、学習指導要領の最低基準化を認めるなど、公立学校の選択制と相まって、現システムの崩壊を巻き起こす可能性すらある状況に見える。本来であるならば今、文科省の役割は一番重要であろう。自由化を求める声に応じつつ、市場化の影響を最小限に抑えなければならない。そのために、政策的になされなければならないことはたくさんあるし、それらを細心の注意を持って実行しなければならない。
 特区というには実験である。いきなり全体で改革するのは危険であろう。特区のオルタナティブな学校でいろいろな学校を実験してみるということは、許されないことであろうか。

6.今後来るか公立学校受難の時代?
 公立学校にとって一番厳しいパンチは、バウチャー制である。
バウチャー制とは、指定された機関ならばどこでもサービスが受けられる切符配給制度である。学校教育でバウチャー制が施行されれば、私立学校において授業料の代わりに使える切符が配給される。
もちろん、今すぐに認められる可能性はないだろうし、まだ文科省もそこまでは弱体化していない。しかし、株式会社の学校参入が認められたことなどをみると、遠くない将来にそこまで行くレールが密かに敷かれたのではないだろうか。
 選択制が導入された公立学校ではすでに競争にさらされていることを考えると、(学区が廃止される県立高校も同じ流れであろう。)いずれ、公立学校をスクラップアンドビルドするような荒っぽいことが行われる可能性が高いと予想できる。例えば、10年先には、団塊の世代が退職し、再び、教員不足と大量採用期を迎えていることを考えれば、そのときにバウチャー制が導入され、教育の市場化、学校の自由競争化が狙われる可能性は十分にあるであろう。

7.当事者主権主義と新しい「公」立学校
 それまでに、当事者である、保護者・生徒と教員がイニシアティブを取れるような制度を創出しておくことは、重要な課題ではないだろうか。今まで、保護者・市民と教員は、お互いに責任を転嫁し、非難しあう状況がなかったであろうか。もし、保護者・市民と教員の間に信頼関係を築くことができ、お互いに責任を引き受けるならば、教育の自由化を乗り越えた新しい学校への道が見えてくる。今回の市民団体との協同作業を通し、その可能性を強く感じた。例えば、保護者・生徒・市民・教員からなる学校理事会が広範囲な経営決定権を持つ学校など、どうであろうか。自由化への道の中で、市民と教員が協力すれば、「官」に頼らない新しい道があると考える。