第11回 教育研究所シンポジウム 2002
今、 「教師」 を考える
■日 時:2002年11月23日(土) 14:00〜16:30
■会 場:横浜情報文化センター 6F 情文ホール
◇シンポジスト 佐々木  賢  (専門学校講師・元高校教員)
        高 橋 庄太郎 (朝日新聞記者)
        石 井 小夜子 (弁護士)  
◇コーディネーター  金 沢 信 之 (県立高校教員・教育研究所員)

  は じ め に

金 沢:今日お話しいただくシンポジストの皆さんについて、 私のほうからご紹介させていただきますので、 よろしくお願いいたします。
 まず、 石井小夜子さん。 石井さんは東京弁護士会登録の弁護士さんとして、 子どもの人権問題や女性の労働問題など、 各方面で多岐にわたってご活躍されております。 弁護士の視点から、 いろいろお聞きになっているお話を今日はうかがえるのではないかと思っています。
 次に、 朝日新聞の記者でいらっしゃいます高橋庄太郎さんです。 ジャーナリストの目から、 教育問題や教育改革、 少年犯罪、 総合学習などについても、 いろいろご発言されている方です。
 次に佐々木賢さんをご紹介いたします。 佐々木さんは元定時制高校教諭で、 現在は専門学校で講師をなさっています。 たくさん本をお書きになっていて、 最近も著作が出版されました。 『親と教師が少し楽になる本』 というものですが、 親と教師が少し楽になる形で、 話が最終的にまとまっていけばいいな、 という気持ちを持っております。
 私は今日、 3 人の方と初めてお会いしましたので、 簡単なご紹介になってしまいました。 できれば、 お話の中でご自分の活動について触れていただければありがたいと思っています。
それでは、 早速ですが、 石井さんからお話をお願いしたいと思います。

  シンポジストからの発信

 少年は訴える

石 井:皆さん、 こんにちは。 石井と申します。 ご紹介がありましたように、 「子どもの人権」 ということを中心にやっているんですが、 その中でも圧倒的に多いのが少年犯罪、 少年非行です。 レジュメにも書かせていただきましたが、 中でも私は、 中国帰国子女のケースをやっております。 少年犯罪ということも含めて、 一例を挙げてこれから少しお話しさせていただきたいと思います。
 最初に、 ある少年の手紙を読ませてください。 この手紙は読んでもいいと本人の了承を得ておりますので、 これから読ませていただきます。 当時、 17歳でした。
  「22日、 鑑別所でテレビ映画を見ました。 『火垂るの墓』 です。 戦争時代のときのことを見せてくれました。 でも、 戦争といっても、 今の人たちは戦争なんかオレには関係ないと思っているんじゃないでしょうか。 たとえ戦争のことを知っていても、 日本だけがこんなひどいことや悲劇に遭っていると思っているんじゃないですか。 戦争で、 僕のおばあちゃんやおばあちゃんの年代の人たち、 そして僕のお父さんとお母さんたちまで、 どんな辛い思いをしてきたか分かっていますでしょうか。 このことについて、 日本の10代の人から30代の人たちに答えてほしいです。 そして、 裁判官にも。 僕たち中国帰国者のことをどれぐらい知っていますか。 ぜひ、 裁判官に答えてもらいたいんです。
 僕が日本に来たのは今から 5 年前です。 初めて来たときは何もかも分からなくて、 ただ不安で一杯でした。 それは言葉の問題だけではありません。 今まで中国で暮らした中で当たり前のこと大切なことが、 そうではなくなりました。 まったく異なる人たちの中で、 僕は何を信じ、 誰を信じていいのか分からなくなりました。
 僕は普通の小学校に編入しました。 ただ、 孤独でした。 学校に行っても何も分からずにイライラし、 けれど僕は、 1 日も早く日本語が喋れるようになりたかったし、 ほんと、 日本人と仲良くなりたかったです。 それが僕の中で小さな目標でした。 頑張ろうと思いました。
 けれど、 僕は日本で初めて差別によるいじめに遭いました。"バカ"や"中国へ帰れ"などと言われても言い返せなかった。 言い返したくても思っていることがうまく相手に伝わらず、 いつも悪者扱いされ、 誰にも相手にされず、 ただ独りで泣くだけでした。 あるとき先生に呼び出され、 結果は、 僕が滅茶苦茶、 先生に言われ、"お前は中国人で、 日本に来てケンカなどをして、 中国人は皆そうなのか、 まったく中国人はみんな野蛮だからな"と侮辱されました。
 初めて自分の弱さに気づきました。 今までの自分が自分でなくなり、 本当の自分さえ分からなくなりました。 悲しいだけで、 笑うことさえ忘れてしまいました。 誰一人手を差し延べようとはしなかった。
 僕の言いたいことは先生のことです。 もっと生徒の立場に立って、 生徒の気持ちや生徒のどんなところが弱いのか、 助けてやるべきだと思っています。 もし一人でも手を差し延べようとしてくれる人がいれば、 僕も日本人を恨んでいなかったと思います。
 中学に入り、 僕は日本語もだいぶ話せるようになり、 いじめも多少なくなりました。 僕のことを理解してくれる先生もいました。 その先生は僕と同じ立場に立って考えてくれ、 教えてくれるようになりました。 今まで、 どんな先生も僕のことを分かってくれませんでした。 いや、 分かろうともしなかったんです。 でも、 この先生だけは違います。 僕は先生のところだけは一生懸命勉強しました。
 高校に入学しました。 今度はどうなるだろうか。 いじめや差別もあるだろうか。 そして、 事件を起こしました。 僕だって、 やっていいことと悪いことの区別くらい分かります。 でも、 そのときは自分をコントロールできなかったんです。 自分のやった罪の重さに自分も傷つきました。 そして、 周囲は僕から逃げた。 先生からも避けられた。 僕はまた、 昔の小学校のような孤独な生活に戻りました。 僕にとって学校という居場所がなくなりました。
 こうして高校は辞めました。 それから同じような思いをしている中国からの帰国者と付き合った。 昔のような孤独な生活に戻りたくなかった。 その恐怖に襲われた」。
 
 背後にある差別・いじめ

 そのような手紙なのですが、 ここに出ていますように、 特殊と言えば特殊です。 中国帰国者 3 世。 おばあちゃんが日本人の方で、 その孫です。 実は、 高校のときに教室の中で同級生を刺したというケースでした。
 理由は手紙の中にありますように、 中国帰国者が置かれている差別とかいじめの状況が背後にあったわけです。 このとき、 学校から 「高校を辞めろ」 と強く迫られました。 私は弁護士ですので本人を守る立場にあるわけですが、 本人も学校に残りたいという希望が強くありました。 それで何とか学校に残してほしいということで、 話を続けてきました。
 学校側の言い分は、 「皆の前でナイフを出した。 このようなことを許すわけにはいかない」 ということで、 絶対に受け入れるわけにはいかないということだったわけです。
 私のほうは、 「その問題はよく分かるけれども、 むしろ、 中国帰国者という子どもたちがどういう状況に今いるのかを含めて、 高校生である子どもたちが学ぶことのほうが必要なのではないか。 学ぶことによって、 彼に対する恐怖心とかそういうものが取り除かれるんじゃないか」 ということで話しました。
 というのは実は私は、 他にも中国帰国者の子どもからよく話を聞きます。 ある19歳の少年が私に話してくれたことがあります。 その少年は中学時代にすごくいじめに遭っていたのですが、 そのとき先生がいじめに気がついて、 何とかしようと思ってくれたらしいんです。 ただ、 そのときの方法が、 いじめている子どもたちを捕まえてきて、 もう止めろというようなやり方ではまったくなかったんです。 どういうやり方をしたかというと、 毎朝の、 5 分か10分のホームルームでしょうか、 戦争が終わって何十年も経っている時代に、 どうして中国からこういう人たちが帰ってきているか、 ということを中学 1 年生のその子どもたちに、 約 1 年間続けて語ったそうなんです。
 これはずっと前の話で彼は 2 世の少年だったんですけれど、 なぜこの少年が今日本にいるのか、 なぜこの少年のお母さんが日本から中国に渡ったのか、 いったい中国で日本は何をしたのか、 どうしてこの人たちは戦争が終わってすぐ帰れなかったのか、 このお母さんたちが中国に残ってどういう思いをしてきたのか、 ということを話し続けたらしいんです。
 その中でこの19歳の少年に対するいじめがなくなったと、 彼が私に話してくれました。 その話は私に会うとよく話してくれるんですが、 その少年が私に言った言葉を私は忘れることができません。 僕はこの人を先生としてでなく、 人間として尊敬する。 彼はそういっていました。
 そういうこともありまして、 お互いに分かり合うということは非常に重要なことだと思います。 先ほどお話ししたような事件が起きているときに、 ただ排除するのではなくて、 むしろ背後にある重要な問題を学ぶことのほうが必要ではないか、 という話をしたのですが、 結局、 一度は受け入れたものの、 「あの殺人者が帰ってきた」 というような言い方を、 本人がいないと思って言ったんでしょうけれど、 聞こえてしまって、 それから学校に居づらくなって辞めてしまったというのです。 その後、 さっき読みましたように、 同じような境遇の子どもたちと集まって、 今度は恐喝でしたか、 そういう事件を起こすようになったという事案だったわけです。

 教師と親の出会いを

 ここにも書いてあるように、 こういうことを挙げればいろいろキリがないわけです。 ですけれども、 私は今そのことを話すつもりはまったくなくて、 彼が言っているよううに、 さまざまな形で先生は関われるはずだということを言いたいということが一つです。 もう一つ、 何故こういう気持ちになっているかと言いますと、 例えば、 私は教育基本法などの集会に市民として参加することが多いんですけれども、 先生たちは先生たちで集会をやっていて、 市民は市民で集会をやっているという状態になっていて、 接点がなかなかないんです。
 私は市民運動をやっているんですけれども、 先生たちにはなかなか市民運動のほうに入ってきていただけないという状況があります。 先生たちの集会に私も行くことがあります。 この間、 毎日新聞だったかに、 教育基本法の集会に参加していたお母さんが、 「先生たちが困るから反対しているんでしょ」 みたいな感想を持ったという記事がありました。
 しかし、 教育基本法の中で、 先生たちの管理もものすごく厳しくなる状況を見れば、 今の状況を見てもそうなんですけれど、 結局そのしわ寄せがどこに来るかといえば、 間違いなく子ども側に来るのです。 このことは実感として持っておりますので、 そのことがきちんと伝われば、 親と先生たちが手を結べると思うんです。
 今、 思い出すと、 多分私が小学校 3 年生ぐらいのときに、 先生たちがストライキをやっていた時代がありました。 ストライキは子どもたち大好きです。 先生がいないから。 格好いいなと思った記憶が自分の中にもあるんです。 格好いいなと思った中には、 私の親たちがそれを支持しているという思いが私の中にあったと思うんです。 そういうことを含めて、 今、 それぞれが別々にやっている状況を見ると、 この時代を乗り切っていくのが難しいなと思ってしまいます。 状況的には、 この間もある集会で、 それはたまたま先生と保護者が一緒の集会だったんですけれども、 先生たちは、 親とか地域に対して警戒心がすごく強くあると思いました。 この警戒心は私よく分かります。 国立の問題とかを見ればよく分かります。
 それも含めて、 あるお母さんが言っていたんですが、 「なぜ今日のような話をもっと率直に皆の前でしてくれないんですか。 そうしたら…」 というわけです。 実は、 親のほうの側に行くと、 先生たちはダメだという話しかないわけですから、 率直にそれぞれ思っていることが出会う場が今ないなということを思っています。
 その意味で、 これからますます、 それぞれの場で孤立することなく、 共通点を含めて話し合っていく必要があるな、 というのが一点です。
 それから、 先ほど挙げた少年はたまたま中国帰国者ということで特殊なのかもしれません。 でもこの少年の気持ちは、 日本の子どもの気持ちと共通している。 私は実はこれは特殊なことではないと思っておりますので、 普遍的に見てほしいなと思います。
 最後に一点だけ付け加えさせていただきたい。 こういう子どもたちを含めて、 私たちはみんな、 "日本人"という尺度で量っていると思うんです。
 今度の教育基本法の中間報告を見ると、 日本人という言葉だらけです。 数えるのも大変なほど日本人だらけでありまして、 私たちの感覚の中に、"日本人"というのが当然のことのように出てきているわけです。 けれども、 私は声を大にして言いたいんですが、 日本の国が置き去りにしてきた人たちに対して、 一度も謝ることもなく、 「日本の国を愛せ」 とか、 その子どもや孫たちに対して 「日の丸」 「君が代」 を押しつけて恥じない国なんです。
 私たちは、 そういう人たちがいるという感覚がない。 ほとんど見えないですから、 平気でこうやっているわけです。 しかし、 彼のようにいろいろ思っている子たちがたくさんいます。 彼はマイノリティの子のケースですが、 精神的にマイノリティの子たちはいっぱいいますから、 ぜひマイノリティという存在を認識の中に置いておいてほしいなということが私の一番言いたいことです。
 私は弁護士ですので、 どうしてもそのマイノリティというところから仕事をしているわけで、 ほとんどそうです。 犯罪を犯す人も含めてそうなんですけれども、 そういう意味で私の立場は特殊なのかもしれませんが。 時間が来ましたので、 とりあえず私の見解ということで終わらせていただきます。 どうもありがとうございました。
金 沢:どうもありがとうございました。 生徒の立場に立った教師の話ということで、 一年間かけていろいろ説明してくれた教師がいて、 その教師に対して、 子どもが、 教師としてでなく人間として尊敬できるという話をされて、 とても印象深く聞いていました。 われわれの回りに、 日頃そういう努力をされて頑張っていらっしゃる方々が、 多分たくさんいらっしゃると思うんです。 ただ、 そういう方の実践が表に出てくるのではなくて、 どちらかというと、 不祥事だとかよくないこと、 失敗したという話ばかりが前に出てきて、 われわれの元気がなくなっていくという現状があるのかなと思っています。
 それでは続きまして、 高橋さんのほうから、 ジャーナリストの目から見た教師ということでお話していただきたいと思います。 よろしくお願いいたします。

 "1970年半ば"が曲がり角

高 橋:仕事柄、 夜、 帰るのが遅いんです。 昨日も夜遅く帰りましたら、 テレビで、 NHKの再放送ですが、 ノーベル賞を取った田中さんの物語をやっていまして、 見るつもりはなかったんですが、 面白かったものですから、 ついつい最後まで見てしまいました。 田中さんの会社での様子、 妻子との語らい、 富山のご出身ですから富山へ帰省したときの様子などです。 その中で一つ印象的だったのは、 小学校時代、 担任の先生で理科教育に熱を入れた方がいて、 その先生が登場して、 田中さんはノーベル賞受賞が決まった後、 大変忙しい日常の中で帰省をして、 その小学校の恩師に会いに行っているんですね。 テレビカメラがその様子を追っていって、 とても麗しい光景だなと思いました。
 卒業生が恩師を慕って、 「ノーベル賞を取りましたから」 ということをわざわざ伝えたくて、 お礼を言いたくて、 「その先生のお陰で、 小学校のときのある理科の授業の指導の結果、 科学への心が開かれた」 と言っていたんです。 しかし、 私たちが普段仕事で見聞きしている先生と生徒とのつながりからは、 そういう麗しい風景が今あるのかなという疑問を抱かせます。 富山という地方都市だからまだ残っているのか、 あるいは東京でももしかしたら、 探そうとしたらそういう光景が見られるのかよく分かりませんけれど、 疑問が残ったまま、 見終わった後、 いろいろ考えさせられました。
 今日のテーマに関連して言うと、 私は新聞記者生活の中のかれこれ 3 分の 1 くらい、 教育関係の取材に関わってきました。 その中で一つ感じるのは、 私の仕事とちょうど時期的にも重なるのですが、 いろんな意味で1970年代の半ばというのが大きな曲がり角だったということです。 そこで多くのものが変わった。 つまり、 高度成長の頂点に達して、 後から振り返れば、 日本という国、 社会そのものが大きく生まれ変わった。 70年代半ばを境に社会のありようが変わった。 後から、 遠くから、 自分たちが歩んできた道を振り返れば、 その全体像というものがよく分かると思いますが、 そういう意味で、 70年代の半ばというのは大きな意味があったんだろうと思います。

 学習スタイルの変化

 そういう認識を前提にすると、 いろんなことが見えてくるのではないかと思います。 例えば、 教育に関して言いますと、 つい先日、 ある教育研究チームの専門家の方の話を聞く機会がありましたけれども、 その先生は、 子どもの勉強の仕方の変化というものをずっと追っているんですが、 やはり、 70年代と80年代の間を挟んで、 それががらっと変わっていると言うんです。
 例えば、 受験参考書や受験雑誌というものがかつて非常によく読まれていたのが、 ある時期から読まれなくなった。 あるいは、 受験参考書といわれるものの中には、 書き方がすっかり変わってしまったものがあります。 子どもたちの学習のスタイル、 勉強に求めるものがすっかり変わってしまっているというんです。 私も使ったからよく覚えているんですけれども、 昔のチャート式数学参考書なども、 例えば、 ピタゴラスの定理というようなことで、 これをどう考えるかについて、 正しく丁寧に、 いくつもの考え方のヒントみたいなものを示して、 とにかく考えさせるというスタイルになっていた。
 ところが、 ある意味でこういうまだるっこしい参考書というものは、 ある時期からすっかり人気がなくなって、 まさに必要最小限の解法・解き方を中心にしたスタイルに変わってきました。 そういうふうに参考書の変遷をずっと辿ると、 ある時期から本当に変わっているんですね。 それは、 先程来申し上げたように1970年代で日本人が変わったわけですが、 教育の世界でもそのまま、 いろんな形で変化が起きてきたということだと思います。
 私が言うまでもありませんけれど、 学校を舞台にした、 不登校であるとか、 校内暴力、 いじめ、 そして最近では学級崩壊とか、 次から次と、 私たち教育関係の記者が日々追っかけてきた、 いわゆる病理現象的なもの、 学校や教育の不調・変調といわれるものは、 かつてはなかったかこれほど顕著ではなかったと思います。 これらはすべて70年代半ば以降の現象だと思います。
 最近は先生を巡って、 指導力不足とか不適格教員、 その排除だとか研修だとかということが盛んに言われて、 教育委員会が一斉にこれをテーマとしていろんな動きをしていますけれど、 これは先生方がおかしくなったというよりも、 むしろ、 学校やそこに来る生徒たちの変化が大きいのだと思います。 子どもたちが変わってしまった。
 例えば、 子どもたちの変化ということでいいますと、 かつては先生の権威とか威力とか、 ときによっては体罰を含む強い力で言うことを聞かせたものですが、 今、 子どもたちはそうではありません。 そういう中で、 まさに指導力そのものが問われるようになった。 その中でうまく変わった。 別の言い方をすれば、 強くなっていった子どもたち、 個性的で自由な、 ある意味では豊かな社会で育った子どもたちに対して、 今までのような指導の仕方が通用しなくなった。
 そこでうまく行かない先生が、 結果的には指導力が足りない、 あるいは適格性がないということで、 やり玉に挙がるようになってしまった。 その底といいましょうか、 時代の背景の変化というもので、 この問題を捉える必要があるんだと思います。
 今年の春から初夏にかけて、 私は仕事の一環で全国都道府県の教員採用状況を調べるために、 各都道府県と政令都市の教育委員会から教員採用試験の募集要項を集めて、 最近の傾向はどうかということで集計し、 それをまとめて記事にするという仕事をしたことがあります。 そこで感じたことですが、 今、 先生になるということは大変です。 教育委員会側の明らかな買い手市場で、 今や司法試験並みに教員採用試験が難しくなっている。 3 浪、 4 浪 5 浪は当たり前というような、 それほど難しい試験になっておりますが、 そういう事情もあるにせよ、 教育委員会が求めているのは一種のスーパーマンではないかという感じがしています。
 最近は、 "期待される教員像"ということをわざわざ別刷りの紙にして、 募集要項の中に挟んだり、 あるいは、 募集要項そのものに、 「わが県はこういう教師を求めています」 ということを謳うことが流行っているようです。 私が拾っただけでも10以上の県がはっきり文言にしてありました。 それは例えば、 「子どもに対して限りなく愛着の心を持つ」 とか、 「教職への使命感がある」 とか、 一種の理念ではありますけれど、 こんないくつもの条件に適う人というのはそういないなと思いましたし、 実際、 その試験も単なる筆記試験だけではなくて、 作文・論文です。 横浜市の教員採用試験などでは、 単なる面接ではないんです。 集団でやる、 個人でやる、 もう 1 回集団でやる。 右から、 左から、 上から、 下から、 人物を鑑定するために、 実に吟味に吟味を重ねて採用する。 一般企業も、 最近は細やかな採用試験をするという実情があるにしても、 先生というものをそういう形で実に綿密なやり方で選び、 採用しているということを改めて知りました。
 しかし、 これも裏を返せば、 そういう形で教師の役割というものへの世間の期待、 世間の求める水準が高くなったということもあるのかなと思いました。

 改革ラッシュ

 ご存知のように、 教師のあり方だけではなくて、 学校教育の全体に対して、 小学校から大学まで、 改革、 改革ということで、 この数年、 大変な勢いで次から次へと新しい政策が打ち出されています。 私も仕事をしながら思うんですが、 全体としてどういうことが起きているのか、 見取り図を描くのが難しいくらいです。 かつて10年から20年かけて起きた出来事が改革という名の下に、 おそらく 2 、 3 年のタームで、 集中して、 それも同時進行の形で、 土砂降り状態といいましょうか、 ラッシュ状態といいましょうか、 あっちでこういう花火が打ち上がる、 こっちでこういう改革案が打ち出される。 それが、 今、 集大成の形で、 石井弁護士がおっしゃった教育基本法の改定ということで動き出していると思いますが、 いずれにしても、 大変な勢いで教育のあらゆる仕組みが変わろうとしています。
 その中で、 教師像のありようについても今まさに変わろうとしていると思います。 これをどう捉えるかということですが、 そういう改革の先頭を行っているのが東京都だと思います。 いろんな意味ですごい変化が東京では見られます。 例えば、 人事考課制度というものを取り入れて、 これが全国の一つの手本になろうとしています。 職員会議のあり方も東京から変えようとしていますし、 現実に変わっています。
 小中学校では選択制というものが 2 年前から始まっています。 学校選択の自由化がすごい勢いで進み、 当初は品川区とその周辺のいくつかの区に限られていたんですが、 来春は23区のほぼ半数に広がり、 再来年は20近くの区が、 そして多摩地区でも八王子と町田という大きな市が選択制を導入するという話です。
 10年前には想像もつかなかった競争原理というものが、 いろんな形で公教育の場に、 そして全国で一番大きい都市である東京を舞台に今、 進行しています。 おそらくこれは全国に波及していくと思うんです。 そのやり方は非常にドラスティックでありますし、 天下りの方式であります。 ほとんどは学校教育の一番の担い手である教師の意見を聞くという形でなく、 何かの諮問機関や審議機関が一方的に決めて、 それを行政が決定事項としてどんどん進めていくやり方です。
 これが本当に、 教育、 とりわけ子どもたちのためになるか、 先生のやる気を盛り上げる、 引き出すという役割を果たしているのかということになると、 はなはだ疑問の部分が多いと思います。 むしろ、 やる気を殺ぐような部分さえ多いと思います。 しかし一方で、 今のままでいいかということになると、 そうではないと思うんです。

 厳しい親たちの声

 やり方はかなりドラスティックでありますし、 ある日突然、 学校選択の自由、 学区の自由化、 都立高校に至っては学区そのものを撤廃しようという、 すごい変化です。 しかし、 これはある種の世論といいましょうか、 親たちの支持を得ているのもまた、 事実なんですね。
 東京の各区が通学区域の自由化、 学区の自由化を取り入れようとするときは、 大概アンケート調査をするんです。 すると、 決まって過半数、 6 割から 7 割の親たちは賛成するんです。 元々、 東京の場合、 私学志向が強く、 選択というものに馴染んでいたという風土があり、 学校と地域のつながりが地方に比べると薄いという条件があるにしろ、 やはり親たちは学校のありようとか、 その担い手である先生の姿に対して、 ある種の不満とか、 不信とか、 批判というものを根強く持ってきたし、 それがいつの間にか脹らんできたということが一方であるのも事実だと思うんです。 何とか今の仕組みを変えてほしい。 それならば、 学区の自由化、 学校選択の自由ということも選択肢の一つであろうというのは、 おそらく親たちの過半数の声だと思うんです。 この事実も私たちは忘れてはいけないと思うんです。
 先ほどもいいましたように、 70年代の半ば以降、 学校あるいは子どもたちを巡るいろいろな変化、 その中で病理現象と呼ばれるネガティブな問題が次から次へ起きて、 そして今に至った。 メディアの伝え方という問題もありますけれど、 そういう中でいつの間にか、 世間とか親たちが学校や教師を見る目が厳しいものになったと思うんですが、 それにはキチッと応えていく必要があると思います。 いわゆる競争原理というものをどんどん取り入れる学校の新しい仕組みが正しいのかどうか、 それは別としても、 少なくともそういう事実は事実として見ながら、 先ほど石井弁護士も最後のほうで繰り返し言っておられましたけれども、 いい意味で学校を開いて、 親たちと一緒になって、 あるいは本当の意味での親たちの参加を促したり、 そういう道を開いたりする努力はこれから求められると思います。 その仕事も、 主役となるのは教師なんだと考えております。

金 沢:どうもありがとうございました。 70年代半ば以降のいろいろな問題点を、 どちらかと言えば、 教師の責任にすり替えながらものごとが進んでいるということに対して、 いや、 そうじゃないんだ、 という視点で、 分かりやすくお話しいただけたと思っています。 最後に、 時代の大きな変化の中で、 先ほど石井さんも仰っておりましたけれども、 保護者やあるいは社会一般がこれまでと違って、 教育に対して説明を求める強い要求がある。 その事実については、 やはり目を向けなければいけないという指摘があったと思います。
 その指摘の中で高橋さんがおっしゃったところで非常に印象深かったのは、 われわれの意見をキチッと入れていく形で説明する、 つまり時代が新自由主義のような形で大きく動いていく中で、 それに迎合する必要は一切なく、 子どもたちの教育にとって必要なものを親に説明していくという、 その努力を怠ってはいけないという点でした。
 続いて、 高校現場、 特に定時制の現場に長くいらして、 教師の世界に身を置いていたという視点から、 教師についてご発言をいただきたいと思います。 佐々木さん、 よろしくお願いいたします。

 社会が変わった

佐々木:この研究所のニュースにレジュメを書けというので、 皆さんのお手許にあると思いますけれども、 4 ページです。 (研究所ニュース 「ねざす」 No.43)
 ここで私はアカウンタービリティという言葉を出して、 考える糸口にしたいと思います。 先ほど高橋さんのほうから、 1975年以降変化した、 子どもたちが変わったというお話がありました。 私は、 たまたま、 1975年に新しく入ってきた高校 1 年生の担任をやっておりまして、 実はその年から荒れ始めたんです。 校内暴力がおこり、 いじめもあり、 シンナーを吸う生徒が出てまいりまして、 1975年は現場におりましても、 そういう大きな変化があった時期だと思っております。
 子どもたちが変わったというのは、 実は社会が変わったということだろうと思うんです。 どういう具合に変わったのかというのを今から考えてみますと、 いろいろな点が思い浮かぶわけですが、 文化の面とか、 メディアの変化とか、 そういうものを今日は捨象いたしまして、 一つの点、 労働市場の点だけについて私の感じていたことを申し上げたいと思います。

 1960年代と1990年代

 1960年ぐらいに私は教師になりまして、 そのときの卒業生は、 割に成績のいい者が、 弁護士になったり、 大学の先生になったのもいます。 また、 エンジニアや公務員になったり、 企業に勤めたのはたいてい部課長さんになっていたりします。 今50代ぐらいです。 中小企業に勤めたのは、 自分で企業を起こしたのもいます。 私は定時制の教師でしたけれども、 全日制を時間講師で教えておりまして、 両方の卒業生は、 もう多種多様でありました。 定時制の卒業生が公務員になるのも、 1960年代当時はありました。 工員を続けていくのもおりました。 旋盤工がおりまして、 金型・板金・塗装・木工、 さまざまな分野で活躍しております。
 職人さんになるのもいました。 大工さんになったり、 左官屋さんになったり、 タイル工といいますか、 水道工事士になった卒業生もいます。 家具などを作る家具職人になったのもいます。 商店に勤めた、 あるいは、 商店を起した子どもたちもいます。 酒屋さんがあって、 本屋さんがあって、 飲食店がありまして、 八百屋さんがあって、 肉屋さんがあって、 魚屋さんがあったりします。 それが、 1960年代の卒業生が行った職業であります。
 1990年に私は高校を退職し、 今は専門学校の教師をしております。 1990年代以降の卒業生は、 いわゆる成績のいいので、 医師になったり、 弁護士になったり、 エンジニアになるのもほんの若干いますが、 以前と比べると極度に少ない。 都立高校ですが、 普通の会社に入るのも、 これまた極度に少ない。 大部分はどうしているかというと、 フリーターになります。 職人さんになるのも少ない。 大型工務店が出てきまして、 職人が独立して仕事を得ることができなくなっております。 パートが増えました。 商店を興す者もほとんどいなくなりました。 スーパーがあって、 コンビニがあって、 ファミレスがあります。 飲食店を自分で興すことができなくなりました。 家具職人なんていうのも、 大手の家具メーカーに押されて、 ほとんど活躍できなくなりました。 つまり、 若者たちの行く道が、 1960年代と1990年代を比較しますと、 雲泥の差であります。

 増えるフリーターと学卒無業者

 これを労働白書で確かめてみますと、 1989年の高卒求人は149万人であります。 ところが1999年には38万人であります。 つまり 4 分の 1 ぐらいに激減しているわけであります。 大学進学が進んだからだというかもしれませんが、 大卒求人は1989年は107万、 1999年は64万で、 これまた少なくなっているわけであります。
 フリーターは現在350万人いるといわれております。 年収は100万から120万で、 パートは1981年は395万でしたが、 2001年現在は、 1200万に達しております。 この間、 若年離職がどんどん増えております。 これだけ就職難で、 正規の従業員になりにくい時期に、 正規の従業員になった学卒就職の若者たちが、 1990年には約 2 割、 1 年以内に辞めておりますが、 現在は 3 割が辞めるようになっております。
 一方、 若年労働といいますと、 労働省の統計では、 18歳から29歳ぐらいまでを指しておりますけれども、 このうち正規の従業員190万人、 大体200万人の人たちが、 過労気味に働いているという資料があります。 これは東大の玄田有史さんという労働経済学の方の説で、 1 日13時間労働を強いられているということで、 これが190万人、 フリーターは390万人であり、 こういう労働市場の変化があります。
 これは日本だけかといいますと、 実は、 そうではない。 1990年以降、 OECDの学卒就職の調査を見ますと、 日本は比較的、 学卒で正規の従業員になっているのが多いす。 非正規の就職が、 男子は10%、 女子は15%ぐらいでありますが、 イギリスになりますと、 男子が45%、 女子が54%であります。 アメリカは男子が21%、 女子が35%、 OECD全体35ヵ国では、 男子24%、 女子が34%であります。
 もう一つ問題なのが、 学卒無業というのがどんどん増えているということであります。 今年で見ますと、 大卒で大体12万人が就職もしなければ、 大学院等への進学もしないという状 態であります。 短 大が大 体
2.5万人。 高卒は14万人が無業であります。
 これは、 若者たちに覇気がなくて就職しないのかということですが、 日本労働研究所の小杉さんの調査によりますと、 目的不明という若者たちが 5 、 就職難で就職できなかったというのが 4 、 自分の夢があって今ブラブラしているというのが 1 、 つまり5:4:1であるということをいっております。

 若者たちの出口が塞がれている

 今、 私は数字をダラダラと述べましたが、 どういうことを言いたいかと申しますと、 若者たちの未来、 就職したり、 社会に出たりという若者たちの未来の出口を塞いでいる社会を、 私たちは作ってしまったんではないかということであります。 これは統計的にも言えますけれども、 私の感じとしては、 若者全体の 3 分の 1 は競争社会に突入する。 しかし、 3 分の 2 は、 フリーターになるとか、 ブラブラするとか、 考えあぐねて浮遊化するという大きな流れが生じているのではないか。 これは日本ばかりではなく、 全世界的にそうである。 国によって、 その 3 分の 1 と 3 分の 2 の比率が違うだけです。 発展途上国に行きますと、 10分の 1 と10分の 9 に分かれて、 10分の 1 が競争社会に入って、 10分の 9 が仕事がなくてブラブラせざるを得ないという状態になっているんではないか、 ということが推測されます。
 と言いますのも、 不登校・校内暴力・いじめ等の学校病理について、 実は、 私は、 1975年以降、 世界中の資料を集めてまいりました。 特に1990年以降、 欧米・日本の先進国のみならず、 中国・韓国・マレーシア、 そこでの校内暴力・いじめ等が伝えられます。 中国では、 教師殺し、 親殺しも出ているということであります。 それだけではなくて、 ヨルダン・エチオピア・マラウイなど、 発展途上国でも校内暴力が起こり始めて、 小中高校の先生方が、 生活指導のほうが普通の授業よりも大変だというようなことを言っております。 私は、 ヨルダンの先生とインターネットでつながりまして、 いろいろ聞いてみましたら、 実に、 日本とよく似ているんです。 要するに、 世界中で同じような現象、 つまり、 若者たちの出口を塞ぐ現象が、 社会的に、 構造的に出来上がっているような気がいたします。

 クワイ型社会の出現

 それは一口に言いますと、 収入も多くて、 有名度も高くて、 仕事の裁量権も非常に大きい超エリートが極少数いて、 その下に、 鋭角 3 角形のように、 競争する社会があって、 もう一つ、 2 重構造的に、 貧困で仕事もなくて、 将来性もないという生活不安定の層が 3 分の 2 以上広がるという、 そういう構造があります。 図に書きますと、 クワイのように、 非常に細い茎が伸びて下がボワッと脹らんでいる、 あのクワイ型世界市場になっている。 ピラミッド型ならば、 努力すれば、 ある程度ここへ行ける、 というような感じがいたします。 クワイ型になりますと、 まず 3 分の 1 に入って競争する。 その競争でトップになるには、 また、 激烈な競争があって、 そこに行けるかどうか見通しが立たない。
 例えば、 野球の選手になったら甲子園に行ける、 というのが 3 分の 1 に入ること。 しかし、 イチローになるというのは何千万人に 1 人で、 まあ、 こういうことです。 年収 1 千万円級の収入を得る地位につくには、 これは大変な競争で 3 分の 1 に入るけれども、 1 億円以上の収入をもらう層がいて、 そこに入るにはどうしたらいいか。 数日前の新聞に載っておりました。 8 億円のウォーターフロントのマンションが売りに出されて、 即日、 数十戸が売り切れたという。 買った人は誰かというと、 昔ならお医者さんとか企業家とかでしたが、 買った人が匿名で、 35歳の会社員と載っておりました。
 35歳の会社員が 8 億円のマンションを得て、 しばらくしたら売り払って、 またどこかに移りますなんていう発言をしている。 この人は何でそんなにお金を持っているのというと、 これは株以外に考えられない。 ストックオプションであります。 こういう儲け方が許される社会になったのは、 グローバリズム経済の社会だからではなかろうか。 そのグローバリズム経済の社会では、 独り勝ちして、 つまり、 世界で700万人の億万長者がいるんだそうですが、 世界70億だとしますと、 1000人に 1 人がそれになれて、 999人がそれから極度に下の階層に入るという構造であります。
 クワイ型社会になったという私の仮説が正しければ、 この構造を正さない限り、 若者たちの未来に、 私たちが示す"努力すればいいよ、 これを勉強すれば役に立つよ"というようなことが言えないのではないかという感じがいたします。

 目標を失った社会

 教育産業がどうなっているかと言いますと、 教育産業はしきりに資格を発行いたします。 資格は学歴資格と職業資格の 2 つであります。 私は数年間職業資格の資料を集めて職業資格の本を書きましたけれど、 1980年代は600種類ぐらいでしたが、 1990年代に入りますと1400種類ぐらいに増えています。 膨大な職業資格を発行して、 しかも、 それを取って就職できるか、 仕事に役立つか、 というと、 うさんくさいものが 8 割以上を占めております。
 学歴資格はどうかというと、 私は目下専門学校の講師をしておりますが、 今年の卒業生が正規の従業員として勤めました。 経営学士です。 現在、 4 年制大学の卒業資格を専門学校で取ることができまして、 通信制と併用で経営学士の称号を持った正規の従業員として勤めた若者が、 最初に教わるのは何かといいますと、"いらっしゃいませ""ありがとうございます"という言葉を復唱させられるというのです。 転職したのは量販店なのですが、 この研修が 2 週間あって、 現場へ出る。 現場の同僚が何人いるかと言いますと70人いる。 店長が 1 人いて、 31歳。 70人は全部ヒラで、 中間管理職はいない。 数年経つと皆辞めていく。 これが正規の従業員として、 大卒で勤めた若者の行き場であって、 学んだ内容を一切使わないという職場が待っております。
 若者たちが目標を失ったというのは大きな間違いで、 社会こそが目標を失って、 若者に詐欺を働いているのではないか、 というのが私の仮説であります。
 職業資格も学歴資格も、 若者たちに胸を張って提示すべき内容ではなくなっているということであります。 こういう社会を背景にして、 教師は何をするかというと、 教師も実はこの労働市場の中で 2 極分解させられる方向に進んでいると思います。 アメリカ・イギリスは教育改革が進められて20年経っております。 現在、 アメリカ・イギリスは未曾有の教師不足になっていて、 教師犯罪が増えているということであります。
金 沢:今、 3 人の方々にそれぞれの立場から問題提起がなされました。 これからは、 まず、 質問ということでお受けしたいと思います。

  質問に答えて

 学校の比重は減っているか

石 橋:子どもがいるので、 親として学校へ行くのと、 教師として学校にいるのとの間に誤差があります。 誤差はどこかというと、 親として学校にあまり期待していないところ。 子どもも勉強といえば、 塾が主体で、 先生とはどちらのことか分からない。 私の勤務する学校でも、 生徒は予備校と高校のダブルスタンダードで来るものがいて、 予備校の問題を高校の教師に質問したりしている。
 子どもにとって、 教育の面において学校の比重がかつてと比べて大幅に減っている点についてどう考えるか、 3 人の方にお尋ねします。
石 井:ダブルスクールは司法試験を受ける人もみんなやっているようですから、 現実にはそういうところもあると思うんです。 けれど、 私が知っている子どもたちは精神的に学校の占める割合がとても高いですね。 精神的に学校から解放されないという意味で言っていますが。 依然として非常に高く持っていると思います。
高 橋:言うまでもないと思いますが、 メディア、 とりわけテレビの登場というのが大きかったと思います。 いろんな調査の結果を見たり、 そういう関係の方の話を聞いても、 今や学習時間とか生活時間の中に、 ゲームを含むテレビを中心とした時間、 遊びの時間が明らかに主軸になっていると思います。 そういう意味でメディア環境の変化というものはものすごく大きいと思うんです。
 私は今、 55歳ですけれども、 小学校のころ、 例えば、 映画館で映画を見るより、 学校のグラウンドで時折、 チャンバラ映画、 「力道山物語」 「栃錦物語」 など、 そういうものを学校を舞台にやりました。 あらゆるものを学校が中心でやりました。 運動会といえば、 地域の人たち全体が集まって盛り上がる。 学習はもちろんですが、 それに付随する諸々の活動が学校中心に行われていた。 それが、 今、 いうまでもなく、 総体的に学校の占める割合が減ってきていると思います。
 余計なことかもしれませんが、 今週初め、 ある大学の学長さんにインタビューしました。 その方は、 自分が研究者として勉強する習慣がついたのは親の影響だというんです。 お父さんが学者だった。 お父さんはその昔、 夕ご飯を食べた後、 すぐ書斎に引き上げて、 夜遅くまで本を読んだり、 原稿を書いたりしていた。 自分たち兄弟も、 最初から、 そういうものだと動機づけられていたというんです。 先生は私より少し年上の先生でしたけれども、 これがもし、 テレビがあったら違っただろうな、 とおっしゃておられました。 ちなみに、 その方は税制調査会の会長もしておられる一橋大学の先生でした。
佐々木:私も、 1970年以降、 大きな文化変容が起こったのだと思います。 一つは、 読み書きソロバンといいますが、 電話が出てきまして、 みんな、 手紙を書かなくなりました。 新聞が世界的にどんどん読まれなくなって、 テレビのニュースを見ます。 伝票書きなどはほとんどOA器機がやり、 レジでやります。 自分で計算する大人が少なくなっています。
 教養というのは学校教養が非常に重要でした。 定時制の生徒ばかりでなく全日制もそうですが、 教養は週刊誌、 雑誌に分散したと思っています。 最近はコンビニ雑誌という独特の地域雑誌が出ております。
 本屋に出ていないコンビニ雑誌があります。 虫の好きな子は 「月刊虫」 というのを読んでおります。 暴走族の子どもたちには暴走族の雑誌があります。 暴走族の雑誌に教えられたとかいって入ってきた生徒がいたので、 私は気がついたんですけれども、 その教養の豊かさといいますか、 暴走族の雑誌を編集する人に大卒の記者がいまして、 それを一生懸命読んでいて、 親とか教師の話はまったく聞いてくれない。 教養は分散しました。
 個人化が進んで、 家庭も離婚が増えておりまして、 家庭崩壊寸前か、 もう崩壊しているという状態です。 先ほどヨルダンの話をしましたが、 イスラムの社会でも離婚が増えているという話です。 イスラムの世界でも子捨て同然の子どもたちが出ている。 ですから、 学校を居場所として依存する家庭が多くなっているわけです。 居場所とか託児要求という役割は業務として認められていませんけれど、 社会的に強く要請されているところです。
 これは、 私立学校とか、 競争社会になればよろしいということではない。 つまり、 公立学校がこれまで果たしてきた託児の役割がますます重要になっていくという具合に認識しなければいけない。 市民意識というものは少なくなっていく。
 職人さんの世界では徒弟的な修業がなくなり、 大量生産でやれるようになっています。 修理の仕事はトラブルシュータという機械があって、 故障箇所を発見いたしますから、 修理工というものがいらなくなって、 番号を読みとるだけになっております。
 こういう状態ですから、 工業高校の教師は教えた内容がすぐ使えなくなって困る。 ドイツでも同じようなことがありまして、 今失業率が18%に上がっています。 政府は10%だと発表しているそうですけれども、 実質は18%。 これは職業訓練に行くからです。 今月のニューズウィークに、 ドイツで職業訓練を受けている若年失業者100人の後を追った、 という記事がございます。 その100人の中で就職できたのは 2 人であります。 2 人が就職して数ヶ月で辞めさせられた。 つまり、 職業訓練の効果はゼロであります。 就職はゼロ。 だが、 職業訓練はどんどんする。 これは国から手当が出ていますから。
 仕事はなくなっている、 激減している。 これは一大産業革命が起こっているからですが、 こういう現象を無視して、 教育、 教育と、 教育改革をしたところで、 あまり役に立たないんではないかという感じがいたします。
 それから、 規律訓練というのが学校の仕事です。 しかし、 集団的な仕事をする場面が現場でぐんぐん少なくなっております。 個人的な仕事に変わりつつあります。 先ほど、 学校が与えている資格の 8 割は詐欺であると私が申し上げたように、 うさんくさい資格がどっさり出ております。
 このようになったのは1970年以降のことで、 1990年には、 具体的に若者たちの仕事を減らしはじめて、 パート化・バイト化しているということだろうと思います。
金 沢:ありがとうございました。 では、 他に質問をなさる方はいらっしゃいますでしょうか。

 日本人・教師・70年代とは何か

駒 崎:先ほど石井さんは、 教育基本法改正の中間答申において、"日本人、 日本人ばかりが強調されて辟易した"と言われましたが、 日本人の罪なり、 責任なりを言わないことが問題だと捉えるべきではないでしょうか。
 ふたつ目に、"教師として尊敬する"という言い方そのものがあるのか、 論理矛盾で、 疑問です。 尊敬に値する教師がいるとすれば、 それは、 その人の人間面を見て言うということではないか。
 高橋さんへの質問で、 一つは、 今、"恩師"がいなくなったと思うが、 何故、 いなくなったか。 二つ目は、 60年安保は挫折といわれるが、 70年代挫折とは聞かない。 しかし、 70年代半ば以降の生徒の様子、 少年雑誌・マガジンなどの傾向、 日本全般の 「お金」 「開発」 「便利」 へ向かう状況などから、"70年代挫折"があると捉えるべきではないか。
 娘が自分の元の職場だった高校へ通学しているが、 教師のサービスが非常に低下していて親として不満がある。 これが教員に対するシメツケだけの結果といえるだろうか。
 教師が市民として、 同じ教員の非を批判していく仕組みはどう作るべきか。 親は常に不満を持つが、 困ったときにはすぐ教育委員会へ行く。 子どもの教化ばかりを考える教師に対する親や市民の批判なり、 不満をどういう形で教師に届けるか、 きちんとした教師批判ができるかを考えていかないと、 お上が出てくることになる。 対策としてどのようなことが考えられるか、 豊富な経験から、 お聞かせ願いたい。 これは石井・高橋両人への質問です。
石 井:私、 最後のところはすごく弱いところなんです、 すぐ対立してしまうので。 もしかしたら、 最初に言った"日本人"のところは誤解が生じているかもしれません。 ふたつあると思っていて、 今、 駒崎さんが仰ったように、 日本人として責任を取るという視点がまったくないということは、 そのとおりで、 言いたいことのひとつでありますが、 もうひとつ言いたかったことは、 先ほど読んだ手紙に、 「もし一人でも手を差し延べようとしてくれる人がいれば、 僕も日本人を恨んでいなかったと思います」 と書いてあるように、 彼は 「日本人」 という感覚を持っていないんですね。
 今、 いろんな国からいろんな人たちが来ていて、 子どもたちの教育の権利、 これについては神奈川などでは 「多文化と共生」 というようなことでやっていると思うんですけれど、 法律上の位置づけはまったくないんです。 例えば、 教育基本法もそうですが、 すべて、 日本国民という前提で教育を受ける権利が書かれていますので、 この子たちがよく言うんですけれど、 「オレたちは何人だ?宇宙人か?」 というわけです。
 特に中国帰国者の子どもというのは、 微妙です。 血の意味でもそうですし、 中国と日本という対立関係にあった世界で生まれました。 その中で中国にいたときは日本人にされてきたし、 日本に帰ってきたら中国人にされているということもあって、 非常に微妙な立場にいるので、 自分がどこに立っているか、 とても分かりにくいんです。
 中国帰国者の子どもの中では、 日本国籍の子どもたちも多いんですけれど、 中国から来たということで中国人だということでいじめがあります。 そのためでしょう、 自分が中国で生まれたことを恥じるようになって、 恨むようになってくる子どもも少なくない。
 この点について、 子どもの権利条約では、 子どもがどこにいても、 どこの出身国でも、 どういう子どもでも、 教育を受ける権利がある。 その権利とは自己の母語・文化を尊重したものであり、 かつ他の文化などを尊重することを身につける教育への権利です。
多文化共生教育というものがこれに該当するものだと思いますが、 国際人権条約では、 教育を受ける権利というのはそういうものだと思うんです。 条約は効力があるのだから、 その方向にいかなくてはならない。
 この間、 ある学校へ視察で行きまして驚きました。 ブラジルから来たニューカマーの子どもたちに対する日本語指導ということで、 国際教室ということがあるわけですが、 そこでは例えば、 4 時だったら 4 時で、 鍵を閉めてしまうというんです。 何故かと言うと、 そこに子どもたちが集まって来ちゃうからだ。 集まってきて何が悪いかというと、 ブラジル語しか喋らないので、 日本語が覚えられないからだ、 ということなんです。
 それは先生としては善意なのかもしれないけれど、 中国から来た子どもたちの話を聞いていると、 まったくおかしいんです。 特に中国から来た子どもたちは外見もほとんど日本人ですから、 早く日本人になれ、 と言われているようなものなんです。 そして、 中国人であるということでいじめを受けている。 中国人ということが否定されているのです。 そういう状況をわかってほしい。
 彼らが一緒にいるとき、 そこが居場所なんだということです。 ある子どもが言った 「おもいっきり中国語をしゃべりたかった」 という言葉が忘れられません。
 それから、"先生として"というのは、 そのとおりかもしれません。 最後の、 市民がどう作るか、 というのがまさに課題であると私たちも捉えています。 特に今、 教育基本法の問題が出てきまして、 中間報告をお読みになった方はお分かりになると思うんですけれど、 「学校・家庭・地域が連携協力するということを位置づける」 というふうに書かれているわけです。
 連携は非常に意味がありますが、 私はあれを読んでぞっとしました。 法律でそういう位置づけをして、 連携で一体何をするのか。 連携とは、 教育の目的のためにするのでしょう。 そして教育の目的の中に、 「国を愛する心」 の育成が入ってくる。 すると、 連携の名で、 これが押しつけられ、 子どものみならず、 親も、 場合によっては地域住民も監視の対象になりかねない。
 ですから余計に、 先ほど高橋さんがおっしゃっていたように、 不満も含めて親の側の要求をどう作っていったらいいのか、 本当に市民的な感覚のものを作っていきたいと思っているのでありまして、 具体的にどう作っていったらいいのか、 というのは大きな悩みの一つです。
 ただ、 言えることは、 少なくとも、 先生たちがもっと市民運動に入ってほしいということで、 これだけは言いたいです。
高 橋:"恩師"の話ですけれども、 私は子どもが 2 人おりまして、 下のほうが28歳。 八王子の中学校を出て、 今、 静岡におります。 確か去年だったと思いますが、 めったに帰ってこない子どもがわざわざ静岡から帰ってきて、 これは、 中学時代の同級生が集まる会だったんですね。 たくさん集めて、 久しぶりに集まった。 当然、 担任とか、 先生を呼んだと思ったら、 違ったんです。
 どうしてと聞いたら、 そのほうがみんな仲良く喋れる、 最初から先生を呼ぶというのは念頭になかったらしいんです。
 考えてみたら、 その子の場合、 中学のころから一生懸命塾に通ったそういう世代です。 高校受験でも大学受験でも、 圧倒的に塾の先生への依存度が高かった。 高校はちょっと雰囲気が違ったようですが、 少なくとも、 中学時代、 高校受験については、 塾の先生を信頼し、 依拠する気持ちが強かった。 同級会のときの様子を見て、 そういうことの反映なのだろうなと思いました。
 とりわけ、 先生を呼ばないということに対して、 私は意外だったんですが、 そう考えたことを今、 思い出しました。 ですから、 富山の田中さんのような麗しい光景というのは、 羨ましいな、 まだこういうのが残っているんだ、 という気持ちになったわけです。
 それから、 70年代の話ですけれども、 おっしゃるとおり、 確かに単なる変化ではなくて、 今の日本、 これからの日本を考える上で、 挫折とか、 もっと深刻な意味で、 振り返れば、 「あそこが大事な時期だった、 大きな、 大きな、 深刻な意味での曲がり角だった」 と思う時期が今来ているのかもしれませんね。
 われわれの同世代で、 最近非常に鋭い評論をしている辺見庸という人がいます。 通信社の出身ですが、 大新聞の記者はクソバエだと言っています。 今のメディアは当てにならない、 何かフアフアして、 次から次と、 表面的な事象ばかりを追いかけて、 本質を見失っている、 と言っています。
 その辺見氏が最近よくする分析は、 そういう意味での戦後の民主主義と言われるものが日本の場合、 本当に根づいてはいなかったということです。 彼は最近崩れたといいますけれど、 私などが見ていると、 戦後、 長い間かけてじわじわ根づいたかに見えたものが、 そこから崩れていったのは70年代の半ばであろうと思います。
 あえてあれこれ言いませんけれど、 おそらく、 最近起きているいろんな動き、 政治の世界を含めて、 そこが崩れはじめたのは、 70年代の半ば、 豊かな日本になったと言われる時期からだと思いますし、 そういう大きな社会の変化の中で、 佐々木先生がおっしゃるように、 子どもたちの変化も起きたのだ、 というように捉えたほうがいいのだと思います。 そういう意味では、 挫折という表現も当たっているなと思います。
 次に、 教師のサービスの低下ということですけれども、 これはむしろ逆に考えて、 かつてわれわれの時代の先生というのはオールマイティといいましょうか、 単なる学習指導だけではなくて、 生活も加えて、 何もかも包含してやってくれるという教師像があったわけで、 それが一種の聖職イメージにつながったんだと思いますけれど、 それはもう通用しないんだと思うんです。
 昔、 大学で教わった労働法の言葉で言うと、 包括無定量で、 何もかも引き受けるというような業態というものがなくなって、 むしろ、 自分の限られた職務をしっかりやる、 教師もそのひとつだということだと思います。
 しかし、 その一方で、 最近、 教育はサービス業で、 教師はサービスの担い手だ、 ということで、 要求側は逆に要求水準を上げてきている。 その中でズレが出来てきているのかもしれません。 思いつきみたいですけど、 そんなふうに考えております。
金 沢:ありがとうございました。 他に質問がありますか。

 教師は自分が分かるのか

佐々木 (秀):チラシを見て昭島から来ました。 まったく仕事をしていない主婦ですが、 公立小中学校の一番底の基を決めていくのは、 市の教育委員会だと思い、 4 年前から、 毎月、 教育委員会の傍聴を続けています。 昭島市は東京都ですから神奈川とは状況が違うと思いますが、 道徳教育の公開講座を 3 年前から実施しています。 今年度は全21校で行われており、 昨日中学の講座に参加しまた。
 道徳の副読本から教師が題材を選んで、 子どもたちの授業を行うのですが、 昨日は 3 年生が対象で 「個性を考える」 というテーマでした。
 道徳という、 人間の生き方を考えることが授業で本当に可能なのか疑問に思います。 自分が教育を受けたのは60人学級の時代だったのですが、 教師とのコミュニケーションが取れて、 改めて道徳を授業で取り上げなくても、 教師と生徒が話し合うことで感じるところがありました。
 今は40人といっても、 実際は30人学級で、 それだけ少なくなったが、 教師が一人ひとりの子どもとコミュニケーションを持てるのか、 とてもその雰囲気を感じることはできませんでした。
 道徳の授業をやる教師は一生懸命だったのですが、 義務として授業をやっているばかりでした。 忙しさに追い詰められて、 自分が何をしているのか分からない状況もあるのでしょうか。 会場に多くの教師が来ているようなので、 教師の本音を伺いたい。
佐々木:教師は自分が何をしているのか分かっているのか、 というご質問ですね。 私は教師OBとして、 何をしているのか分からなかったんです。 何をしたらいいのかも分からなかったんです。 ただ私は、 たまたま、 生徒と話をするのが好きでした。 ところが、 教室で話をしようとすると、 みんな逃げまくるんです。 廊下にいるのを掴まえて教室に入れようとしたら、 必死で逃げるんです。
 私はひ弱でしたから、 腕ずくで連れてくるということがあまりできなくて、 しようがなくて、 生徒がしゃがんでいるところへ行って、 一緒にしゃがんでいたんです。 しゃがむのがずっと続きますと、 あいつ、 サボっていると言われたりしました。 職員会議があっても生徒としゃがんでいたりしますと、 校内放送が入りまして、 「佐々木先生、 あなた 1 人です。 早く来てください」 などと言われたりしました。
 それを無視したこともありますし、 会議に一生懸命出たこともありますが、 教師が生徒と一緒に話したり、 悩んだり、 石井さんがおっしゃったように、 感情を共有したりとか、 そういうことは、 実は教師の業務に入っていないんです。 業務として、 断固やろうとすると、 下手をすれば、 首を切られるんです。 職員会議に出て、 点数付けて、 出席取って、 というのが教師の仕事と言われていたんです。
 ところが、 70年以降、 荒れる生徒が出てきて、 悩み多き生徒が出てきて、 就職できない生徒が出てきて、 就職を世話しようとしたら、 就職口がなかったりして、 何にもできないという状況の中で、 教師は一体何をすればいいのかというと、 一緒にしゃがんで、 悩んで、 どうするか、 しばらくフリーターでも続けるか、 続けている間に何かいい情報があったら、 教えるよという話になるのです。
 だけど、 この資格なら少し望みがありそうだ、 先輩に聞いた話はこうだ、 だけど、 こっちの資格はうさんくさいよというような話を生徒が聞いてくれるようになったのは、 授業中ではないんです。 喫茶店にいたときなんです。 つまり、 雑談するとか、 一緒にいるとかいうのは、 教師にとってえらく難しいんです。 たまたま、 私は定時制にいて、 生徒の人数が少なくなって、 ゲリラ的にできたんです。 これからシステムが強まれば強まるほど、 できなくなります。
 聞くところによりますと、 定時制の教師は、 昔、 4 時か 5 時頃出勤しました。 しかし、 今は 1 時に出勤します。 出勤しているかどうか、 県庁の役人が来て、 下駄箱を調べるんです。 出勤簿だけをしきりに見て、 教師が生徒と話しているかどうかなんていうことはどうでもいいんです。 そういう体質ができあがっているんです。
 親御さんも教師が学校に詰めていると、 熱心だと思っちゃうんですね。 生徒と話をしているかどうかなんていうことは、 一切関係ないんです。 つまり、 業務に入っていないんです。 だけど、 われわれは確信をもって、 こういうのを確信犯といいます、 生徒と話をしていると、 いろいろな情報が入るし、 世の中のことも分かりますよ、 ということを私は後輩の先生方にお伝えしたいと思うんです。
 私が本を書いたり、 発言したりするようになったのは、 ほとんど生徒の言い分を代弁しているつもりなんです。 それを10数年続けてきまして、 これはこれで、 一つの世論をリードするぐらいの、 あるいは、 そうしなければいけないぐらいの発言力を生徒たちが持っていることが分かりました。
 アンテナをきちんと張って、 生徒たちからその情報を集めておいてください。 うまい具合に助言はできないかもしれない。 しかし、 アンテナを張っていると、 逆に生徒から情報を聞かれたときに提供もできる。 そういうアンテナを張っていない教師からは、 何の情報提供もしてほしくないんです。
「先生、 単位くれる?」 「出席にしといてくれた?」 というのが生徒の最大の関心事になるんです。 こういうのを"価値の制度化"といいますけれど、 この現象も世界的に起こっていることで、 生徒の責任ではありません。 大人社会の責任であると思っていただきたいと思います。
 生徒とのコミュニケーションというのは、 業務ではないけれど、 ゲリラ的にやるべきだというように私は考えております。
駒 崎:誤解されることを覚悟して、 あえて、 発言しますが、 教師の中で子どもとつきあわせたいと思う人間は50人に 1 人ぐらいだから、 むしろ、 子どもを放っておいてほしいと思う。 教師とのコミュニケーションを蜜にというのは母親の幻想のためではないでしょうか。
金 沢:ありがとうございました。 この辺で、 これまでの話の流れを踏まえて、 会場から、 ご意見なり、 ご感想なりをいただければと思いますが、 いかがでしょうか。

  フロアーからの意見

 教師集団とは何か 
 
鈴 木:今日のテーマに胃が痛くなる思いをしながら参加しました。 なぜかと言えば、 同じ職場にいながら、 10数年、 教員から排除され続けてきたからです。
 1 コマの授業をする点では教師扱いを受けますが、 その他の分野では、 正規教員が 「 1 」 努力して 「10」 評価されるのに対して、 非常勤講師は 「10」 の努力に対して 「 1 」 しか評価されず、 立場を認識してもらえないんです。
 職員室は居心地が悪く、 教室のほうが心安らぐのです。 教師同士の中で他の教師や他の職種をどう思っているのか、 疑問に思うことが多いです。 生徒たちと話すと、 彼らは外の空気を持っているため、 情報が提供されたり、 また、 真面目な悩みの相談を受けたりもします。
 生徒からの話を受けて担任に相談に行くと、 講師分際が何を言うか、 という態度で相手にされないという体験が多々ありました。 長年、 非常勤講師をやっている中で、 正規教員にならないかと声をかけられたこともありましたが、 とてもこの現場仲間の中に100%入る気にはなりません。 半分は市民の立場で学校にいたいと思います。
 石井さんが言うように、 教師も市民運動に積極的に参加することが望ましいと思います。 視野を広げる意味でいいと思いますが、 教師はもっと明るく、 気軽に市民運動に関わるべきではないでしょうか。
 県立高校再編に絡んで、 多様なカリキュラムや科目があって、 これはやってみたいと思うものも多いですが、 職員室の教師の話を聞いていると、 「こんな面倒なものはできない」 などと言っています。 既成の教科・科目だけではなく、 そこからさらに発展させていく努力を望みたいのですが、 なぜ、 拒否の態度が強いのでしょうか。 こうしたことから、 教師とは何か、 教師集団とは何か、 についての疑問や悩みが絶えないのです。

 教師は幕末の儒学者だ

山 本:学校教育はそろそろ終わりを迎えるのではないかと思っています。 教師は何をやっているのか、 という疑問が出されたが、 ますます分からなくなっているのではないでしょうか。 平和教育や人権教育に関わっていると、 教師は幕末の儒学者のように思えてならない。
 先日、 学校の修学旅行で北海道へ行ったんです。 久しぶりの付き添いだったのですが、 大きく様変わりしていました。 羽田空港に何時に集まれとか、 連絡先はどこだとか、 などという、 従来学校が神経を使った細かい指導指示は必要がなくなっている感がしました。 だれが今どこにいるか、 というようなことはメールのやりとりでたちどころに判明してしまうからです。
 高橋さんは、 70年代のテレビが社会を大きく変えたとおっしゃたが、 私は携帯電話が大きく世の中を変えると思います。 これまで学校が行ってきた細かい指導指示の必要がなくなったとなると、 一体、 何をすればいいのか。 消えるべき教師は、 儒学者のように、 静かに消えていくのが社会のためではないでしょうか。

 上からの学校解体が進んでいる

武 田:山本さん、 駒崎さんの話に共感しながら聞いていましたが、 そういう歴史認識が共有されてくれば、 今の困難や息苦しさが減ると思われます。 しかし、 現実は、 相変わらずの学校幻想というか、 教育への期待が押し寄せてきており、 とりわけ、 国家が教育の建て直しを掲げて迫り、 メディアやある種の市民運動がそれをバックアップしているというのが実際の構図ではないでしょうか。
 自分は間もなく定年で、 若い人たちに、 "君たちは大変だ"とよく言うのですが、 学校にはものを言う自由がありません。 神奈川ばかりでなく全国的に、 学校の職員会議は決議機能を失い、 意思決定権は上層部が握る形になっています。
 過日、 大学の特殊行政法人化の話を聞いたのですが、 大学についてさえ意志決定は文部科学省が行い、 大学は決められた範囲で決められた業務を行う機関に成り下がる構想といいいます。 大学がその構想どおりになるとは思えませんが、 「大学でさえそうなんだから、 小中高においては決められたことだけをやれ」 となるのは当然だという状況にある。
 自分は、 この学校破綻の兆しを"上からの学校解体"と呼んでいます。 そういう状況にあるということを特にメディア関係には注視してほしいのですが、 その視点は皆無です。 文部科学省の尻馬に乗って、"学校を何とかしなけりゃ"という論調ばかりなのは、 記者が学校エリート出身のせいかもしれませんが、 このままではやっていけないのではないでしょうか。 追い詰められた感がしてならないのです。

 自分はまだ20年はこの仕事 

井 上:佐々木賢さんのファンで、 佐々木さんが86年に出された 『果てしない教育』 を読みながら、 87年に教員になったことを思い出します。
 今日はこれまで、 教員個々のキャラクターのことや、 居心地とか、 美談とか、 恩師といったことが話されましたが、 仕組みというか、 構造というか、 そういうことをきちんと見てもらわないと困ります。 特にメディア関係に対してそう言いたいです。
 通信制には個別学習のスクーリングがあるのですが、 その際、 何人もの生徒から"ありがとうございます"という言葉を聞くのです。 全日制では、 教えるということに対して"ありがとう"という挨拶を受けたことはないのですが、 これは、 生徒が悪いということではなく、 そういう場面が作れなかったためだと思います。
 一方で、 今、 若い子たちに覇気がないとか、 やる気がないとか、 礼儀を知らないとか言われるますが、 状況が変われば、"ありがとう"と言うことができるのだなと通信制にいて感じています。
 このことを考えると、 佐々木さんがおっしゃる"下 3 分の 2 の生徒たち"の置かれている状況をしっかり見て、 その上で、 学校なり教育なりを語ってもらいたいものだと思います。 自分はまだこの仕事を20数年はやるので、 そう簡単に"滅びゆく儒者"と切り捨ててしまうことはできないのです。

 いよいよ分からなくなってきた

滝 沢:三人の方の話を聞きながら取ったメモを見ていますが、 「学力要求は社会が求めていない」 というところ以外、"学力"とか"勉強"という言葉がない。 自分は数学科だが、 大学のときは数学を教えるということで教員になったのに、 今は、 教師とは何かを考えるシンポジウムに出ているのが面白い。 われわれの役割とは何かを考えさせられてしまいます。
 自分が教員になって10数年だから、 70年代半ばはとうに過ぎて、 学校の中はいろんな状況があったが、 教科指導を通じて生徒と接していくのが自分の役割だと思ってきたし、 今も思っています。
 今日のようなこういう話を聞くと、 自分たちが何をしなければいけないのか、 いよいよ分からなくなってきた感があります。
 50に 1 人ぐらいしか共感できる人がいないという発言があったが、 自分もそう思うのは、 教科指導で生徒と接していくときは、 自分がナンバーワンでなければやっていけないという気負いがあるためだと思います。

  終わりに

金 沢:最後に 3 人のシンポジストの方には、 いままでの意見を聞いた上で、 簡単にまとめていただければと思います。
石 井:今子どもが変わった、 学校の役割が変わったと言われますが、 私が知っている範囲の子どもの思いでいえば、 実にオーソドックスで、 「先生に自分のことをわかってもらいたい」 「自分のことを認めてほしい」、 あるいは 「自分の方に向いてほしい」 ということです。 これは親に対しても、 他の人に対しても同じでしょう。 でも、 子どもにとっては学校生活に占める割合が大きく、 そこでどんな先生と出会うかは、 結構大きなものがあります。 一方、 子どもの数が少なくなり、 大人の子どもへの干渉が大きくなっているように思えます。 大人の干渉の入らない、 子ども同士の 「子ども空間」 というべきものが、 どんどん少なくなっている。 「子ども参画」 という言葉も多様されていますが、 その底に 「子ども空間」 がないと、 大人の手の中にある 「子ども参画」 になってしまう。 そうした子ども空間をどう保障するか、 課題だと思います。
高 橋:きょうは、 1970年代を境に日本の社会が大きく変わり、 それが教育に多大な影響をもたらしたということを中心に自分の考えをお話ししました。 付け加えるならば、 ここ数年で時代状況はさらに違う方向へ変わりつつあるということです。
 メディアの内側にいて痛感するのは、 物事をとらえ、 議論する幅がずいぶん狭くなったということです。 たいていの物事には明暗いろんな側面があり、 一筋縄ではいかないはずですが、 最近は非常に一面的な見方がまかり通り、 異論や反論を認めたがらない空気が広がっている。 日本と近隣諸国とのかかわりなどにしても、 日本はすごい国だ、 日本人は特に優れていると言いたてる人たちがいつのまにか増えて、 ひところ盛んに強調されたグローバルな視点、 共生の考えはかすみがちで、 時代が逆戻りしているような印象です。 経済不況が長引き、 先行きが暗いことから生まれる不安感の裏返しという面がありますが、 危険な兆候を感じます。
 教育問題でも、 学力低下論がある時からワーッと広がり、 それまでの学力をめぐる多角的な議論がどっかに吹っ飛んでしまった。 総合学習は始まるかは始まらないうちに脇へ追いやられ、 いまは学力向上一本やり。 少し距離を置いて眺めるとこれらは異様な光景です。 やはり私たちは幅の広い、 複眼的な見方、 考え方を忘れてはいけないと思います。
佐々木: 「今、 教師を考える」 と題して話し合ってきましたが、 やはり教師の立場が30年前と今ではかなり違っています。 親は学校に学力・しつけ・託児の 3 要求をし、 文科省や教育庁は親のアカウンタビリティに応えよと教師に迫ってきます。 だが、 生徒は通過・相互コミュニケーション・居場所 (実は出番) 3 要求を教師につきつけます。 少なくとも生徒の 3 分の 2 はこの要求をもっています。
 通過要求は 「単位や資格をくれ」 というだけで、 教育忌避の意味をもってます。 相互コミュニケーション要求は教育コミュニケーション忌避です。 出番要求は、 社会が若者に裁量権や生き甲斐や能力の出口を塞いだことへの異議申し立て、 つまり生徒の 3 要求は教育と次元の違う問題を提起しています。
 教師は親の要求に応えようとすると、 生徒に嫌われます。 生徒の要求に耳を傾けると首を切られる危険性があります。 教師は矛盾した立場に置かれていますが、 親の託児と生徒の居場所要求は共通要素があり、 ここに公立校教師の現代的な役割が見えてきます。
 生徒と一緒に無意味な時間を共にする共居が必要です。 本当に大切な情報を選択するアンテナも必要です。 それに生身の付き合いには直観力も必要になります。 これら
は教育の眼鏡を外さないとできません。 だが状況は教育の眼鏡で見たアカウタビリティが一層強められています。 ですから、 それは確信犯的にゲリラでやるしかないと思います。
金 沢:どうもありがとうございました。 今日は 3 人のシンポジストの方々に、 いろいろな角度からお話いただけたと思います。 「今、 教師を考える」 というテーマでシンポジウムを開催いたしましたが、 労働市場の話から世界全体のグローバリズムの話まで、 広くつなげて考えなくてはいけないのだということを強く感じました。
 会場からも多岐に亘るご意見をいただけて、 ありがとうございました。 このシンポジウムを通して、 研究所としては何か大きな宿題を背負ったかなという感じです。
 では、 最後に、 本日、 お忙しい中、 シンポジストとしてお越しいただいた 3 人の方々に拍手を送り、 感謝の気持ちを表したいと思います。 どうもありがとうございました。