映画に観る教育と社会
[戦争のリアリティ]
手 島   純

 9・11
 9 ・11以降、 アメリカがヘンだ。 いや、 ブッシュがヘンと言った方がいいのだろう。 いやいや、 ブッシュはもともとヘンなのだという声が聞こえてきそうだ。 9・11後、 アメリカにはナショナリズムが席巻し、 それに乗じてブッシュはイラク攻撃を虎視眈々と狙っていた。 ついに 3 月19日 (日本は20日)、 アメリカはイラクに一方的に攻め込んだ。
 戦争を鼓舞する人は、 自らが戦場に赴かないという前提があるようである。 つまり、 戦争のリアリティからものを言わず、 国家や組織の大義を優先する。 しかし、 戦争は、 国家や組織の大義のために血を流している兵士や、 巻き添えを食っている民間人のリアリティを抜きに語ってはならないはずだ。 戦争を描いた良質の映画の多くは、 戦争のリアリティこそを表現してきた。

 アメリカを問う
 アメリカという国をそれでも一蹴できないのは、 例えばマイケル・ムーア監督 「ボーリング・フォー・コロンバイン」 のような映画が生まれることである。 この映画は、 なぜアメリカという国で銃による殺傷が多いのか、 なぜアメリカは戦争を志向するのかというテーマを、 カメラという 「武器」 を担いでとことん追究した、 それでいてけっこう笑えるドキュメンタリー映画である。
 アメリカは、 国民ひとりあたり一丁の割合で銃を保持する国であり、 年間 3 万 4 千人が銃で殺されている国でもある。 こんな国だから銃による事件は子どもも巻き込む。 題名のコロンバインとはコロラド州にあるコロンバイン高校のことである。 そこで銃を持った 2 人の高校生が、 学生と教師の15名を射殺した。 なぜそんなことが起きるのか。 ムーア監督は、 銃規制反対の旗頭である全米ライフル協会、 その会長であるチャールトン・ヘストンに迫り、 アメリカという非常に暴力的な国家の在り方を問題にする。
 近年、 これほど瞠目したドキュメンタリー映画にお目にかかっていない。 アメリカが総じてナショナリズムの傾向を示している現在にあって、 それに水を差す、 あまりにも反国家的な映画、 それが 「ボーリング・フォー・コロンバイン」 である※。
一方、 日本もだまっていない。 山上徹二郎率いるシグロはジャン・ユンカーマン監督 「チョムスキー 9 ・11」 を作った。 これはアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーのアメリカ外交政策批判のドキュメンタリーである。 チョムスキーが言語学者であることは知っていた。 しかし、 これほどまでに辛辣にアメリカの政策を批判しているとは知らなかった。 この映画は、 チョムスキーの講演の様子を淡々と追っているだけなのだが、 その物静かな語りの中にある深い思索に感銘を受ける。 音楽担当が忌野清志郎で、 それがこの映画に合っていたかはよく分からないが、 忌野を起用した制作者の意図は理解しているつもりだ。
 日本は三里塚の小川伸介や水俣の土本典昭を生んだ国である。 シグロもその系譜をひき、 小品ながら健闘した。 この映画のビデオ版はすでに高校教育会館内の県民図書室で所蔵している。

 フィクションにおけるリアリティとは
 上述のようなドキュメンタリーとは違うが、 最近の映画の中で出色だったのは 「ノー・マンズ・ランド」 (ダニス・タノヴィッチ監督) である。 ボスニア紛争の最中、 ボスニアとセルビアの中間地帯〈ノー・マンズ・ランド〉に取り残された 2 人の兵士、 ボスニア兵チキとセルビア兵ニノの憎しみ、 しかし、 取り残されたたままだれも助けられない状況下でのつかの間の心の交流が描かれている。 この映画は、 ボスニア紛争といういったい何のために戦っているのか分からない戦争を、 演劇的なまでに凝縮して演出し、 戦争の不条理を描き出した。
 その象徴的な設定として、 横たわるボスニア兵ツェラの下に仕掛けられた地雷がある。 ツェラは体を持ち上げることができない。 なぜなら体を持ち上げると地雷が爆発するからだ。 地雷撤去のために処理班が来てもお手上げ、 マスコミも報道至上主義でスクープしか頭にない。 国連軍も現場では無能だ。 結局チキもニノも死に、 ツェラは取り残される。 ツェラの下には地雷が埋められているのに、 なんと皆撤退してしまうのだ。
 映画はそのまま終わりになる。 この映画を見終わった後、 私はしばらく座席から立てないでいた。 ボスニア紛争の不条理が、 最後のシーンを通して強烈に私に突き刺さった。
9 ・11は確かに世界をアフガニスタンに注視させた。 かつて 「プロパガンダの最良形態は武装闘争である」 などという言葉を聞いたことがあるが、 悲しいかな 9 ・11はアフガニスタンの現実をプロパガンダ (宣伝) した。 しかし、 世界に見捨てられていたアフガニスタンのことは、 9 ・11以前に映画として描かれていたのだ。 モフセン・マフマルバフ監督 「カンダハール」 である。 アフガニスタンからカナダに亡命したジャーナリストのナファス (ニルファー・パジィラ) が、 祖国に残した妹を救うために秘密裏にカブールに向かう話 (フィクション) である。 妹はアフガニスタンの現実に絶望し、 20世紀最後の皆既日食の日に自殺するという手紙をナファスに出していたのだ。
 この映画では義足がしばしば登場する。 あらゆる所に仕掛けられた地雷のため、 足を失う者が多数いるからだ。 忘れられないシーンがある。 ヘリコプターからの落下物めがけて松葉杖の集団が突進する。 食料なのではない。 落下するのは義足である。 足を失った人々が我先に新しい義足を求めて突進するシーンは悲痛である。 世界の人々はこの映画からアフガンの現実を知るべきであった。 そうした想像力が必要であったはずだ。
 9 ・11ではじめてアフガニスタンを知ることは、 9 ・11を許す状況を作ったことにも等しいというのは言い過ぎだろうか。

※アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受けたマイケル・ムーアは、 授賞式で 「恥を知れ、 ブッシュ」 と演説した。

    (てしま じゅん 教育研究所員)