「教師像」をめぐって
三 橋 正 俊

 問われる「教師像」
  2002年10月1日から東京都千代田区で、全国初の路上喫煙や吸い殻のポイ捨てなどを禁じる生活環境条例がスタートした。違反者には2万円以下の過料を科すというものだが、10月いっぱいは注意・指導にとどめ、11月からは当面減額した2千円を科すとしている。
  喫煙者のマナーとして歩行喫煙や場所をかまわない喫煙はしないということが当たり前のようになっていながら、それが徹底できずにこうした条例が制定されることになった。タバコを吸わない人にとっては朗報かもしれないが、この条例制定で迷惑をこうむるのは、歩きながらタバコは吸わない、喫煙は指定場所でと喫煙マナーを守っている喫煙者であろう。路上の灰皿も撤去されたため、不自由をこうむることになる。
  このニュースで私が連想したのは、高校生による校内での喫煙に頭を悩ました高校での対応のことである。校内のトイレや校舎の陰になった階段での喫煙を防止しようと、高校によっては教員による立ち番や見回り指導を行っている。しかし、学級減とともに教員数が少なくなって校舎内すべてを巡回できなくなるにつれて、一部トイレの封鎖や校内に立ち入り禁止箇所を設置するようになってきた。それらに立ち入れば喫煙目的と見なされて特別指導の対象となってしまう。このために迷惑するのは喫煙をしない生徒である。トイレを利用するために他の階まで走らなければならない、この階段を通れば近道だが遠回りしなければならない。
  そして、さらに私の連想は発展する。教員による不祥事や不正行為がマスコミに取り上げられるたびに、様々な規制や規則の網の目がすべての教員を対象としてかけられてくる。あるいは県民による苦情や学校関係者による内部告発によっても、様々な規制が強化され規則が追加される。「指導力不足教員」の問題がクローズアップされれば管理職による教員への指導・監督が強化され、セクハラに限らないが「事故防止会議」が校内に設置されたり、修学旅行の費用に絡んで「業者選定委員会」が設置されるようになったのはほんの一例にすぎない。こうした傾向は教員の世界に限られたものではない。また、公務員ばかりではなく食品業界、電力業界など民間企業にも及んでいる。
  さらに神奈川の教員に対して、2000年度は日常の勤務時間に対する県教育長通知で、勤務時間は5時までと命じられた。そして今年度は夏季休業中の勤務に対しても、月曜日から金曜日のウィークデーの勤務日は登校すべきものであるとの通知が出された。生徒には夏休みがあっても教員には夏休みはないものだと一般には理解された。教員も公務員の一員であると考えれば、至極当然なことである。しかし、このために従来教員の権利とも義務ともいわれてきた「研修」が、大幅に規制されることになった。授業に直結する研修以外は認められないという。夏休みに様々な研修をすることを当然と考え、また実際に行ってきた教員にとっては、研修成果を授業と関連づけた報告書として作成することが、教員へのむきだしの不信感の表れと感じられる。県民へのアカウンタビリティー(説明責任)があるといわれればそれもやむを得ないのかと納得はできる。
  こうして私は、社会全体の動きが大きく変わり始めたために、教員自身が今まで自ら築き上げてきた「教師像」に変更を迫られているのではないかと感じ始めた。それを自覚しないことには最近の動きを理解できないのではないかとも思うようになった。自らの教師像を問い直してみよう、それが今回のレポートである。

 「教師像」はどのようにつくられるか
  教師でもするか、教師しかなれない。こうして教職を選んだ教員のことを「デモ・シカ」教師という。私自身、大学で最終学年を迎えるとき、大学に残って研究を続ける気になれなかった。哲学を学びながら人間への関心をあたためていた私は、そのわずかばかりの青年への共感から、1971年4月に教員の世界に飛び込んだ。夏休みがあり、自分の研究テーマに関して自由な時間がとれると思って入った教員生活だった。生徒から「先生」と呼ばれることが面はゆかったが、「先に生きている」という意味で「先生」と呼ばれるなら「先輩」位のつもりで自分を「先生」ととらえていた。しかし、ある同僚教師から「先んじて生きる」から「先生」なのだと教えられ、そこで改めて「先生とは何か」と考えなければいけないと感じた。
  予め私の中に理想の教師像が明瞭な形であったわけではない。今から30年以上も前のことなので、記憶が変質している恐れは多分にあるが、自分の中には「反面教師」として、ネガティブな教師像がいろいろあったように思う。受験勉強に駆り立てられながら、そうした中で優等生であることに躓くことになった高校時代には、自ら教師になって同じように高校生に勉強を強いることはしたくないといった気持ちが確かにあった。それでは自分が教師として生徒に「先んじて生きる」ことで示してゆくことができるものは何か、という問いが私の前に立ちはだかっていた。こうして私は現場の中にいて、同僚や先輩の教師の言動や様々な教育論議の中から、また時には組合の教研活動の中から、そして何よりも生徒との交流の中から学ぶことになる。
  小説の中に登場する教師像、映画やテレビドラマに登場する教師像から、強烈な印象を受けるなりして、自分もああいう人になろうといった教師像を形成したという記憶はない。というより、そうした作品の中の教師像に触発されて教師になりたいと思ったこともなかったように思う。教職以外の人々なら自らの学校生活で出会った教師以外に最も目にするのがそれらの文字や映像作品の中の教師像であってみれば、それらから教師像を描くことはあり得ると思う。教員が他の職業人の生き方を知る場合を考えてみれば分かることだが、身近にいる友人や文字や映像作品によってその職業人の像を知るしかないのである。
  20年も前の調査結果であるが、『モノグラフ・高校生'83』(福武書店)に「高校教師の教育観とライフサイクル」という全国規模の調査結果が載っている(注1)。その中に「教職につくのに強い影響を与えた人」というアンケート項目がある。そういう人は「いなかった」という回答が55.4%と最も多かったが、「高校の教師」が12.9%「中学校の教師」が6.3%「小学校の教師」が5.1%、そして「大学の教師」が2.9%と、「教師」による影響の合計は27.2%となっている。次が、「父、母が教師」が9.9%「きょうだい、祖父母、親戚に教師がいた」が3.8%と合計で13.7%である。教師になった人の40.9%が身近の教師からの影響で教職を選んでいることが分かる。しかし「教師像」をどのようなものとして描いていたかは、この結果からは分からない。だが、教師になるにあたって、身近に生きている教師からの影響が大きいものであることはうかがい知ることができる。文字や映像よりも生身の人間というところだろうか。
  「なぜあなたは教師になったのですか」こんなぶしつけな質問をなかなか現在の同僚に尋ねることはできない。おそらく一言では答えられないだろうと思うからである。だが、教師像をめぐって考え始めた最近になって、私よりもずっと若い女性教員に尋ねてみる機会があった。すると彼女は、自分も教師になりたいと思っていたわけではなかったという。教師になる人は自分とは違って、高校生活の中で生徒会活動や学級活動を活発に行った人がなるものだと思っていたという。しかし教育実習で生徒とふれあう中で、教師としての楽しい経験を持ち、もしかしたら大人しい自分でもやっていけるかもしれないと思ったそうである。そして、現在教員生活の中で、まだ他の生き方もあるのではないかという思いを抱いていると話してくれた。「なぜあなたは教師になったののですか」この問いをもっとたくさんの教員にぶつけてみたいと思っている。その中で、アンケート用紙からはうかがい知ることのできない、現職教員の教師像が少しは見えてくるのではないだろうか。

 「教師像」の変遷
 1994年に出版された『日本の教師23 歴史の中の教師U』(ぎょうせい刊)という本がある。寺崎昌男氏と前田一男氏の編集になるもので、1941年の国民学校ができた戦時下から1980年代までの半世紀近い時代を追いながら、各時代を特徴づける論文や回顧録、評論などを紹介している(注2)。
1941年から敗戦までの天皇制を支柱とする超国家主義のイデオロギーの支配した、教師を「聖職者」とする教師像の時代。1945年からの平和国家日本の建設と民主主義の教育に新たな理念を見いだした教育基本法に見られる、教師を「全体の奉仕者」とする教師像が描かれている。この社会の激動期にあって、教師像も大きく転換していった姿をうかがうことができる。
 しかし、1950年代になって東西の冷戦構造が明らかになる中で、いわゆる「逆コース」が始まり、文部省と日教組の対立に象徴される教師像の対立が見られるようになる。教師「聖職者」論の復活と、教師「労働者」論の対立である。だが、現場の教師はそうした対立の中にあっても「教え子を再び戦場に送るな」という日教組のスローガンを自らの支えとしながら、民主主義の教育を広く実践していった活気ある時代を生きていたという。1958年に始まる勤務評定の問題は政治的対決として、教育現場に混乱と教師像の動揺をもたらすことになる。しかし、1960年代の高度経済成長の進展とともに社会全体が大きく変動していって、文部省と日教組の政治的対立をよそに、高学歴志向、受験競争の波が教育現場に打ち寄せてくる。1966年にILO・ユネスコによる「教員の地位に関する勧告」が教師「専門職」論を提示することで、教師像の政治的対立の構図は多様なものとなる。しかし高度経済成長によってもたらされた社会変動は、戦後教育で培われた教師像を教育現場で父母・教師を交えた形で変質させていくことになる。
 私が教員の世界に飛び込んだ1970年代は、神奈川において主任制度が問題になった時期であった。私は教員は労働者でもあるが、生徒に対しては「専門職」というよりも「サービス業」であるという教師像を自らに抱くようになっていた。そのための学校組織は一人ひとりの教員がサービスの主体として生徒にも保護者にも責任を持つものでなければならないという思いを深くしていった。だが、高度成長の終わりとともに高校現場には「教育の荒廃」と呼ばれる事態が進行していた。90%を超える高校進学率の中で受験競争の激化とともに普通科と職業科の高校の間で歴然とした学校間格差が生み出されていた。私はこの課題をこそ解決しなければならないと感じ、当時神高教内に発足した高校教育問題総合検討委員会(高総検と略称)の一委員として身を投じることになった。
 1970年代後半から1980年代にかけて家庭内暴力そして校内暴力が教育問題として社会問題となり、1980年代半ばにはいじめが社会問題ともなって臨教審の発足へとつながっていくことになる。この時期神奈川では「百校計画」が進行していて、学校間格差も新たにできる普通科の高校が底辺校に位置づけられる状況にあった。1986年には高総検事務局から新たに設置された高校教育会館教育研究所の所員として身を転じることになる。そこでは、教育政策や教育制度の問題以上に、高校生の変貌をとらえなければならないという問題意識が強く働いていたように思う。『ねざす』第1号(1988教育研究所刊)に「高校生のアルバイトと『学校離れ』」というレポートを載せたのもそんな気持ちの表れであった。そうした高校生の変貌を基盤にすえた高校改革を考え始めることになる。その頃の職員会議で、まだ30代そこそこの男性教員が「甘やかしているばかりだから教師は生徒に馬鹿にされる。教師の権威を取り戻さなければならない」と生徒の問題行動を取り上げて声を荒げて発言していたのが思い出される。古い教師像にしがみついても仕方がない、しかし自分に明確な教師像が浮かんできているわけでもない、そんな苦々しい思いが今も残っている。
 「百校計画」の終了さらには高校進学者数の減少とともに、神奈川の県立高校には学校間格差の半ば固定した状況が生まれる。1990年代に入って学区の底辺に位置づけられた高校を「課題集中校」として、神高教の新たな取り組みが始まる。課題集中校対策会議がそれであるが、学区縮小などの制度的改革を県教委に対して求めるばかりではなく、今ある課題集中校に対して教育条件を整備させる取り組みが始まったのである。課題集中校では高校中退者が多く、様々な問題行動の対応にも追われている。そして、高校生の変貌がストレートに現れてくる。1990年代半ばには「コギャル文化」も出現してくるが、そうした現状に対して『課題集中校プロジェクト97学校づくり最前線』(1997神高教刊)を発行して学校改革を呼びかけたりもした。そんな中で私は、教師が「サービス業者」としてだけではなく、否応なく「管理者」としての仕事も請け負わなければならない現実に直面する。それも個人としてではなく教員の組織的な取り組みとして実施しない限り有効にはならない。駅のホームや改札口に座り込んでたむろしている高校生に、通行人や駅員が注意しても一向に彼ら・彼女らは動こうとしない。むしろ注意した大人に「うるせえな」「あっちへ行け」といった言葉を返してくる。しかし、駅員からの通報でその高校の教員が駆けつけると、彼ら・彼女らはぶつぶつ言いながらも立ち去る。もしぐずぐすしようものなら「迷惑行為」として特別指導の対象となるからである。
 また、1990年代には「日の丸・君が代」問題が大きな社会問題となった。文部省は沖縄県や広島県を突破口として、全国の小学校・中学校・高校に学習指導要領に沿った実施を求めてきたのである。神奈川県も例外ではなかった。各学校では管理職と組合員との校長交渉が断続的に持たれた。職員会議で教職員の多数の意思が「日の丸掲揚」「君が代斉唱」に反対であっても、校長はそれをくつがえして実施しようとしたからである。そんな交渉の中で、ある校長が卒業式・入学式で「日の丸・君が代」を実施することは「公務員としての義務です」と語った言葉が印象深く残っている。今から思うと、管理職のみならず県立高校の教職員であれば「公務員」としての自覚を持たなければいけないという、その後の2000年代へと続く規制強化の歩みを象徴した言葉だった。2000年の4月に県教委は管理運営規則の改定で職員会議を校長の補助機関とする通知を出し、6月には県教育長は「教職員の勤務における服務の厳正化」の通知を出すことになる。

 これからの「教師像」は?
 「公務員」としての教員は、もう一つ大きなうねりの中にある。市民運動の要求の高まりの中で、神奈川県では今から20年前に情報公開条例が制定されている。そして1990年には個人情報保護条例が制定された。学校現場も職員会議録をはじめ、生徒のプライバシーにかかわる部分を除いて、様々な情報が公開を意識しながら整備されてきている。政府の対応はもっと遅れ、1999年に情報公開法が成立したものの、個人情報保護法は国会に提出されたが継続審議中である。こうした例ばかりではなく、市民の「異議申し立ての権利」は広く認められているし、学校評議員制度も神奈川では始まっていて、現在ではまだ制限はあるものの、学校運営に参加する方向性がでてきている。もはや学校は「聖域」ではないしむしろ「開かれた学校」が目指されている。
 医師の世界では患者とのインフォームドコンセント(医師の十分な説明と患者の同意)に基づく医療行為が求められているが、その例を取り上げながら小浜逸郎氏は、教師と生徒の関係もそのようなものとして、これからの教師は「人格的にとびきり優れている必要はないが、市民的義務と責任の意識をしっかり自覚し、自分の専門的技能に関しては自信と誇りをもった存在であるだろう」と語っている(注3)。
 また、佐藤学氏は次のように語っている(注4)。「今日の教師は、スペシャリストとしての狭さから脱却して、幅広い教養にもとづいて子ども一人ひとりが抱える複合的な問題に対処し、具体的な状況に身をおいて複雑な課題と対峙しながら、質の高い学びを触発し組織する活動を要請されいてる」として、「反省的実践者」としての教師像を描いている。そればかりではなく、大人と子ども、知識人と大衆、専門家と素人、文化の生産者と消費者などの二項関係の「媒介者」としての役割が大切であり、「教える者(教師)と教わる者(子ども)という一方向的な関係を超えて、教師自身も教えながら学び、学びながら教える双方向的な関係の中へと自己を投企する実践」を通して地域の人々ともに「学びの共同体」を構築すべきであるとしている。
 私もまたつい最近のことだが、退学させた生徒の本人と親から退学による精神的苦痛に対する慰謝料として損害賠償を求める民事訴訟の証人としての体験をした。その中から、学校内の教員一人ひとりの言動が常に外部に(高校生、保護者のみならず一般の市民にも)開かれたものでなければならないと感じるようになった。生活指導部在任中に、いじめと暴力をふるった生徒に対して行った事情聴取(現在では事情確認と呼んでいる)の私の書いたメモや生活指導部の会議と職員会議の私のノートを裁判所に証拠として提出することになったのである。その裁判の結果は原告の訴えを棄却することになったが、学校での活動がいつ公開の場にさらされるようになるか分からない時代になったという実感を持った。
  このような今日の状況の中にある教師像をどのようなものとして名付ければよいか、まだ私の中では熟成されてはいない。「公務員」として名付けるのではもちろん不十分であり、「市民」としても通じるものでなければならないであろう。単に「媒介者」と名付けただけではまだあまりにも漠然としているように思われる。また、教育内容が「特色ある学校」づくりの中で多様な科目を設置したり、多彩な「総合的な学習の時間」を展開するようになる中で、既存の「授業に直結する研修」と称して、自らの狭い専門性に安住する形で満足すべきでもないと思う。もっと幅広い教養をこそ教員は積むべきなのである。


 注
注1 『モノグラフ・高校生'83Vol.10 高校教師の教育観とライフサイクル』(1983 福武書店刊)深谷昌志氏を代表とする高校教育研究会が調査を企画している。なお同じ研究会が『モノグラフ・高校生'90Vol.28 高校教師の生徒観とライフスタイル』(1990福武書店刊)でも意識調査を実施している。
注2 寺崎昌男・前田一男編『日本の教師23 歴史の中の教師U』(1994ぎょうせい刊)
注3 小浜逸郎著『先生の現象学』(1995世織書房刊)
注4 佐藤学他編『岩波講座現代の教育6 教師像の再構築』(1998岩波書店刊)
 
(みつはし まさとし 教育研究所員)
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