ここ数年来、全国的に高校教育改革を巡る議論が熱を帯びてきている。明治以来の学校システムに明らかな翳りが見えはじめ、学校そのものの存在が問い直されている状況がこの動きを加速させている。いじめや不登校といった象徴的な現象だけでなく、「普通」の子どもたちの「学校離れ」が深く進行している。「知」を独占していた学校の時代は終わり、塾や予備校といった教育産業の隆盛と高度情報化社会の中で、学校は子どもたちにとっては相変わらず「行かなくてはならない場所」ではあるが、「魅力のある場所」ではなくなりつつある。教育研究所が96年度3学期に実施した独自調査「高校生の学校に対する意識の変化を探る」の回答結果には、生徒の授業に対する求心力が低下し、「苦痛な授業」を何とかやり過ごしながら、授業以外の活動や友人たちとの交流の中に楽しみを見いだしている高校生の姿が浮き彫りになっている。
国内外を問わず、熾烈な競争が繰り広げられ、企業も国家も国民も競争社会の重圧を日々感じざるを得ない状況下にあるといっても過言ではない。行政改革に先だって企業はいち早くリストラを敢行し、激しい競争社会の中での生き残りを模索してきている。かってのような経済成長が見込めない中で、少子社会と高齢化社会という「ダブルパンチ」をどうやって凌ぎながら生き残っていくかは、企業や国家だけに課せられた命題ではない、という文脈の中で、エリート育成のための「飛び入学」やら「中高一貫校」やらが中教審の中で議論されてきたのである。
しかし、この異常ともいえる「学校化社会」の重圧の中で、国民は「何かがおかしい」「どこかが狂っている」と心の奥底で自問しているのも事実である。幼いうちから「学(校)歴獲得競争」に狂奔し、年齢に応じた遊びや友人関係を犠牲にして「勉強」していることが、子どもたちの豊かな人間的成長や年齢に応じたモラルの形成、自立した大人の形成につながっておらず、かえって子どもたちの「勉強嫌い」や「学習疎外」の状況を作り出しているという認識を、多くの人たちが持ち始めている。一部「学歴エリート」たちのマスコミを騒がせているさまざまな事件に見られるように、学力を高めることが個人の社会的成功に直結していくという回路の中では、それはつまるところ利己主義の産物でしかなく、社会的な広がりを有し得ない時代だいうことを証明している。神戸の小学生殺害事件を持ち出すまでもなく、今、日本では子どもを「まとも」に育てることが難しい時代なのである。問題は教育の領域だけで片が付くほど楽観的な状況ではなく、「複合汚染」の如くさまざまな問題が錯綜し、その絡まった糸を解くのは容易な作業ではない。それゆえ、教育改革を美辞麗句で語る姿勢には余程注意を払う必要がある。