震災のなかの希望 


玄田 有史 (東京大学社会科学研究所教授)
 


 8月半ば、 私はひさしぶりに岩手県釜石市を訪れた。 東京駅から東北新幹線に乗り、 新花巻駅で降り、 そこから釜石線に乗り換える。 釜石線で遠野を過ぎ、 仙人峠を超えれば木々を彩る緑のシャワーが汽車の車内に降り注ぐ。
 東京から約四時間半、 釜石駅に降りると、 今まで見たことのないくらいの人出だった。 多くは山登りのような格好をされた年配だが、 ボランティア活動をされてきた方々だろう。 駅のちょっとした名物になりつつある細い縮れ麺の釜石ラーメンをすすりながら、 談笑されている人たちが目立つ。 みな心地よい疲労のなかにあるようだ。
 はじめて釜石に降り立ったのは、 2006年1月のことである。 それから釜石には、 もう30回は訪れている。 前年の2005年から、 私の所属する東京大学社会科学研究所 (通称・東大社研) では、 「希望の社会科学 (通称・希望学)」 というプロジェクトを始めていた。 当時すでに 「閉塞感」 とならんで 「希望がない」 は、 2000年代の日本を表す象徴的な言葉となっていた。 だとしたら、 なぜ、 日本から希望は失われたのか。 いかにして希望は取り戻すことが出来るのか。 それを、 経済学、 社会学、 政治学、 法学など、 社会科学の分野の総力を結集して明らかにしようとしてきたのが、 希望学だった。
 希望学では当初から、 東大社研の佐藤香氏などの協力で行ったアンケート調査を通じて発見していたことがある。 それは過去に深刻な挫折を経験しながら、 努力で乗り越えた人々ほど現在、 希望を持って生きているという事実だった。 だとすれば、 人々はいかにして挫折を希望へと転換することが出来るのだろうか。
 アンケートだけでは、 それ以上を知ることはむずかしい。 知るには、 生身の声に耳を澄ますしかない。 そんな声を集めるのに適した地域を探すなかで出会ったのが、 釜石だったのである。
 釜石は近代製鉄発祥の地である。 安政四 (1857) 年、 南部藩士であった大島高任は、 日本初の洋式高炉の建設に成功する。 それは大島が江戸や長崎で学んだ洋学の技術に、 地域の製鉄労働者集団などの持つ地元在来の技術を融合した、 独自の 「日本式高炉」 だった。
 釜石は製鉄の他、 ラグビー日本選手権七連覇の栄光を有する。 と同時に度重なる悲劇の歴史を負う地域でもある。 近代高炉への改修から三年後の明治29 (1896) 年、 大津波が、 釜石町と鵜住居 (うのすまい) 村、 唐丹 (とうに) 村 (両村はその後、 釜石市に併合) を襲い、 6687人 (全人口の53.5%) の命を奪った。
 昭和8 (1933) 年、 三陸沿岸は再び大津波に巻きこまれる。 このとき死者・行方不明者が404人 (全人口の1.3%) にとどまったのは、 津波が前回より小規模だったこともさることながら、 住居の高地移転と避難意識の高まりが大きかったと言われている。
 釜石は戦争による壊滅の歴史も持つ。 昭和20 (1945) 年7月14日と終戦直前の8月9日の二度にわたり、 米艦隊による五千発近くの砲弾が町に降り注ぐ。 釜石市編纂委員会の記録によると、 死者は516人、 重軽傷者は327人にのぼった。 溶鉱炉全11基をはじめ、 製鐵所の関連施設の90%が全壊した。
 これらが釜石に刻まれた 「三大災害」 の歴史とすれば、 戦後の 「製鉄所の合理化」 はもう一つの試練の歴史である。 日本が高度成長の時代にあった1960年代に、 合理化による製鉄所従業員の減少は既に始まった。 石油危機以降、 四次にわたる設備休止を発表、 昭和55 (1980) 年の工場休止に始まり、 平成に入った1989年、 遂にすべての高炉は失われたのである。
 しかし、 これらの数々の困難を経験しながら、 何より驚かされるのは、 そのたびに釜石が試練を乗り越え、 希望を再生してきたことである。 平成元 (1989) 年に716億円まで落ち込んだ出荷額は、 平成20 (2008) 年には1367億円まで拡大するなど、 最盛期のピーク水準を上回った。 理由には、 鉄鋼だけに頼らない機械や金属製品などを含めたバランスの取れた発展や企業誘致の成功などがあった。 線材をはじめとする新技術の開発に地道に取り組んだことも大きい。 背景にはいずれも、 三交代を厭わないタフな労働力や、 なんといっても歴史に裏づけられた 「ものづくり」 への誇りがあった。
 その矢先、 再び大津波の悲劇が市民を襲ったのである。

 震災前の釜石から、 私たち希望学の仲間は、 挫折を希望に転換するためのポイントの多くを学んできた。 多くの企業の方々にインタビュー調査を行った、 希望学のメンバーで東大社研の中村圭介氏は、 釜石市の広報誌である 『広報かまいし』 (平成20年9月1日号) に次の記事を寄せている。
  「釜石で頑張っている地元企業、 誘致企業はまだまだある。 そのすべてを紹介できないのは残念だ。 釜石の市民は、 こうした企業の存在をあまり詳しく知らないのではないか。 リスクをおそれず、 積極的にチャレンジしている人がいる。 こういう人々がいて、 初めて地域経済の再生を語ることができる。 よそから設計図を借りてきたって、 実際に頑張る人々がいなければ、 彼らのニーズや方向にあわなければ、 まったくムダである。 必要なことは身近に存在する事例から何かを学びとることだ。 若者たち、 まだ社会に出ていない子どもたちにも、 その大切さを伝えていくべきではないか。
 創業直後に7億円の損失を計上し、 12年かけてその解消を果たしたエヌエスオカムラの副社長は次のように言う。 「棚ぼたというのはないですから、 動いて、 もがいているうちに何かに突き当たる」。
 挫折と過去の失敗の経験は、 似ているようで違う。 過去の失敗は事実だが、 挫折は過去の失敗を自分のものとしてとらえなおし、 現在の自分の言葉で表現できることを意味している。 同じように希望も、 未来の成功は異なる。 希望は、 未来の成功に向かっていくことを指し示す、 現在から未来にかけての方向性を表す言葉である。
 挫折と希望は、 過去と未来という時間軸上は、 正反対に位置する。 しかしそれらはともに、 現在と言葉を通じてつながっている。 それが 「過去の挫折を自分の言葉で語れる人ほど、 未来の希望を語ることができる」 という希望の法則性を生み出している。

 三月の震災で釜石に津波が押し寄せる映像をテレビでみたとき、 とても現実のものとは思えなかった。 精巧なCG (コンピュータ・グラフィック) を駆使した映画を見ているようだった。 でもそれはリアルな世界のできごとだった。
 最初に心配したのは、 なんといっても釜石の友人たちの安否だった。 次第に様々なルートを通じて、 間接的にではあるが、 知っている名前も生存者情報に加わるようになった。 生き残った本人からのメッセージを伝え聞くこともあった。 その最後には、 誰もがきまって同じような言葉を寄せていた。
  「立ち直ってみせるから」。
 つらいけれど、 みんなけっしてくじけていない。 一丸となって前を向こうとしていた。
 私たち希望学の仲間が、 以前より釜石の人たちと約束していることが一つある。 それは、 これからどんなことがあっても、 ずっと見守り続けるということだ。 釜石の人々は、 今までも、 どんなきびしい状況にあるときも、 報われるとか報われないとか関係なく、 奮闘を続けてきた。 その強さと尊さを私は釜石の人々から学んだ。 だから私たちは、 釜石を含め被災された地域での復興に向けた取り組みを、 これからもずっと見守り続ける。 応援し続ける。 希望は、 人と人との関係、 支えあいのなかで生まれるものであることも、 私たちは希望学を通じて学んできた。
 一生懸命に努力している人たちに出会うと、 つい 「がんばってください」 「がんばってね」 と言いたくなる。 でも 「がんばって」 は、 立ち去るときに使う言葉だ。 だから、 その言葉は使いたくない。 なら 「がんばろう」 はどうだろう。 みずからも当事者の一人となって、 これからもずっといっしょに困難に立ち向かうというのであればいい。 でも、 それだけの覚悟もないままの言葉なら、 それは少し無責任に聞こえもする。
 正直、 私には、 被災された方々に送るべき言葉が、 震災から数ヶ月経った今でも、 まだみつかっていない。 ただ大事なのは、 辛抱強く困難に立ち向かっている人たちへの言葉をそれでもあきらめずに探しながら、 何より見守り続けることだろう。
 でも本当は、 見守るだけではダメなのかもしれない。 自分たちにやれることから具体的に行動を始めなければいけないだろう。 物資供給、 募金、 ボランティア、 避難受入、 いずれも大切だ。 その他に何が自分たちにできるかも、 状況に応じて考えていきたい。
 新聞やテレビが伝える震災報道を見聞きしながら感じたのは 「わかちあい」 であり、 「たすけあい」 であり、 「おたがいさま」 の心が、 社会に失われていないことだった。 それは多くを失ったなかでの希望の灯 (ともしび) だ。 その希望がある限り、 釜石に限らず、 かならず日本は立ち直る。 私はそう信じている。

 そもそも、 希望とは何なのだろうか。 希望学では希望 (Hope) をA Wish for Something to Come True by Actionと考えた。 希望は 「気持ち(wish)」 「何か(something)」 「実現(come true)」 「行動(action)」 の四本柱から成り立っている。 それに 「お互いに(each other)」 が加わると、 個人の希望は社会の希望へとつながっていく。
 過酷すぎる状況では、 最初から途方もない希望を持つのは控える方がいい。 日々の生活のなかで、 自分がやるべき 「何か」 を具体的に決める。 それを 「実現」 すべく、 淡々かつ飄々と 「行動」 する。 そしてその行動を繰り返す先に、 いつか落ち着いた生活が取り戻せる、 いつまでも今の状況が続くわけでないという 「気持ち」 を忘れないことが大切になる。
 8月には避難所で生活する人は釜石からいなくなった。 震災直後から、 市内で最大の避難所の一つであった釜石小学校では、 ずっと秩序と冷静が保たれてきた。 それはひとえに、 町内会活動を軸に避難所での各自の役割が、 当初からはっきり決められてきたことによる。 加えて町内会など地元住民と校長をはじめとする学校関係者が、 震災前から日常的に交流し、 信頼関係を築いてきたことが、 危機に直面したとき、 何より大きかった。
 先に述べた通り、 希望には、 人と人とのつながりが重要な役割を果たす。 避難先では、 さまざまな境遇にある人たちが共同生活に耐えている。 疲労やストレスが増すと、 関係もギスギスしがちになる。 トラブルを避けるには、 ゴミやトイレといった生活ルールなど、 誰もが守るべき約束事を予め決める。 その上で細かいことは各自の判断にまかすといった、 硬軟両面の取り組みも欠かせない。 苦しさを落ち着いて乗り越えてきた避難所には、 概してそんな絶妙のバランスが保たれていた。
 釜石には、 震災後にしばしば報道された 「奇跡」 がある。 市内でも被害が甚大だったのは、 海辺にあった鵜住居地区や両石 (りょういし) 地区だった。 そこにはまったくと言っていいほど建物は残っておらず、 一面の更地からは海がまっすぐ見えている。 見慣れた小川も、 今や海の一部のように広がったままだ。
 それを考えると、 津波にのみ込まれた鵜住居小学校と釜石東中学校の児童・生徒のうち、 校内にいた全員が逃げのびたのは、 文字通り奇跡だった。 釜石市教育委員会は、 群馬大学の片田敏孝教授とともに防災教育に2005年から取り組んできた。
 そこで徹底的に指導されたのが 「想定 (ハザードマップ) にとらわれないこと」 「つねに最善を尽くすこと」 「率先して避難すること」 の避難三原則だった。 異変に最初に気づき走り出した中学生は、 追いかけてきた小学生の手を取り、 さらに途中お年寄りを支え励ましながら高台までたどり着いた。 子どもたちは、 自ら判断し助け合うことで希望をつないだ。
 避難三原則のなかには、 希望を自分たちの手でつくり出すために必要な 「(逃げ切るという) 強い気持ち」 「(安全のための) 具体的な設定」 「(生き延びることを) 実現するための知恵」、 そしてなんといっても 「あきらめない行動」 があった。
 避難所での秩序だった集団生活にしろ、 希望をつないだ避難三原則にしろ、 それらの教訓は、 神奈川県をはじめとする、 全国の高校教育関係者にぜひとも共有していただきたい。 将来高い確率で起こる首都直下型の地震への備えはもちろん、 そこには教育によって育むべき、 本当の意味での 「生きる力」 の具体像が表れている。 震災という悲劇の経験から得られた希望の教訓を受け止め、 伝え続ける。 すべての高校関係者の責務ではないだろうか。
  るが、 SSW導入後は、 SSWrが全面的にサポートする 「ケース会議」 を通じ、 子どもの問題行動についての情報共有だけでなく、 「行動連携」 (ケースの総合的な見立てを行っスにアクセスできる経路となるのは間違いない。 また、 環境という関係性を軸に問題を分析するため、 問題を抱えている自覚がない子どもや相談機関にアクセスできない子どもを救い上げることができるという点で、 その存在は重要だと考える。 実際、 先駆的な取組を行った自治体や、 「スクールソーシャルワーカー活用事業」 の委託自治体の教育委員会には、 好意的に受け入れられたという印象であるし、 2010年度から再度もしくは新たにSSWを導入しようと動いている自治体もあると聞いている。 今後各地域で展開されていくSSWが、 子どもの問題解決に大いに役立つことを期待している。


1 山下英三郎 『SSW学校における新たな子ども 支援システム−』 学苑社、 (2003年8月)、 60頁。
2 利用者の権利擁護を目的として、 当事者の決定  (声) を代弁・主張すること。


執筆者プロフィール
 玄田有史さんは、 学習院大学などを経て現在は東京大学社会科学研究所教授。 専門は労働経済学です。
 著書は、 『仕事の中のあいまいな不安―揺れる若年の現在』 (中央公論新社、サントリー学芸賞受賞) 『14歳からの仕事道 (しごとみち)』 (理論社) 『希望のつくり方』 (岩波新書)など多数。 また、 『希望学』 (東大出版会)全4巻の編者でもあります。
 3月11日以降は、 東日本大震災復興構想会議専門委員会委員、 岩手県東日本大震災からの復興にかかる専門委員、 釜石市復興まちづくり委員会アドバイザーなど、 積極的に震災後の問題に関わっています。