現在の先進諸国あるいは資本主義は、 本稿で論じていくように 生産性が上がりすぎた社会 である。 そこでは構造的な 「生産過剰」 が生じており、 その結果とりわけ若年層を中心に失業が慢性化し、 それが様々な格差や貧困を帰結させ、 いわば 「過剰による貧困」 が一般化している。
議論の出発点としてまず (図1) をご覧いただきたい。 これは年齢別に見た失業率の推移であり、 近年では15−24歳や25−34歳の若者の失業率はきわめて高く、 それは高齢者の失業率よりも高くなっている (これは日本に限らず先進諸国に共通の現象である)。 またここでの 「失業率」 には入らないものの、 つまり仕事に就いてはいるものの、 非正規雇用だったり、 かりに正規でも低賃金の者が多く存在する。
問題は、 そもそも 「なぜ」 このような状況が生じるかについての根本原因あるいは構造は何かという点である。 この点がほとんど議論されていないように見える。
先進諸国における慢性的な失業率の高さの背景には、 様々な要因が複雑にからんでいるが、 もっとも大きな要因は、 現在の先進諸国が構造的な 「生産過剰」 に陥っており、 したがってその結果として高い失業率が慢性化していることにあると考えられる。 言い換えると、 これだけモノがあふれる時代状況の中で、 かつての 「成長」 の時代には自明であった 雇用の総量が増加を続ける という前提が現在では成り立たなくなっており、 雇用に関するある種の 「椅子とりゲーム」 のような状況が生じているのである。 こうした状況では、 退出者がいない限り、 雇用市場に参入していく段階で大きな障害が存在することになり、 そのしわ寄せは若年層などに集中することになる。
現在の日本について見ると、 失業の不安と競争にかられて働けば働くほど (そのぶん 「過剰」 が増幅されるので) 失業率が上がる という皮肉な悪循環に陥り、 一方での 「過労」 と他方での 「失業」 が並存するという、 矛盾した事態になってしまっている。
以上の認識と呼応するが、 地球環境問題についての先駆的かつ記念碑的な著作である 『成長の限界』 (1972) で著名なローマ・クラブは、 『雇用のジレンマと労働の未来』 (1997) と題する報告書のなかで、 楽園のパラドックス という次のような興味深い議論を行っている。
それによれば、 技術革新とその帰結としての大幅な労働生産性の上昇により、 われわれは以前のように汗水たらして働かなくてもよくなり、 楽園 の状態に少しずつ近づきつつある。 ところが困ったことに、 「すべてのものを働かずに手に入れられる」 楽園においては、 成果のための給与が誰にも支払われないということになり、 結果として、 そうした楽園は、 社会的な地獄状態 現金収入ゼロ、 100%の慢性的失業率 になってしまうことになる (田中 (2006) 参照)。
これは、 一見納得しがたい議論のようにも映るが、 考えてみれば当然のものであり、 つまり 「生産性が最高度に上がった社会においては、 少人数の労働で多くの生産が上げられることになるので、 その結果、 自ずと多数の人が失業することになる」 ということだ。 まさに 「パラドクス」 であり、 しかし紛れもなく現在の先進諸国において現に起こっている事態である。
同時にこのことは、 (「少人数の労働で多くの生産が上げられる」 という場合のその少数の者に仕事と富が集中することになるわけだから、) 仕事を持つ者−持たない者、 あるいは富を持つ者−持たない者との間で二極化が生じることを意味し、 それが 「過剰」 の問題であるとともに 「分配」 をめぐる問題であることを提起する。
かつての時代においては、 単純に生産の総量が人々のニーズに追いつかず、 そこに欠乏や貧困が生じていた。 現在の場合、 むしろ上記のような生産過剰によって失業が生じ、 そこに貧困 (や格差) が生じる。 象徴的に言えば、 「欠乏による貧困」 ではなく 「過剰による貧困」 という新たな局面が生じているのだ。
ここでは 「過剰」 という富の 「総量」 の問題と、 その 「分配」 という問題が絡まっているのであり、 そうした 「過剰の抑制」 と富の 「再分配」 という二者を私たちは同時に行っていく必要がある (前者はワークシェアや労働時間削減など、 後者は教育政策と一体となった社会保障制度の改革など)。
(若者基礎年金の提案)
以上のような問題を解決していくための政策の一つとして、 筆者は 「若者基礎年金」 という新たなシステムを提案したい (詳細は広井 (2006))。
「若者基礎年金」 とは、 その名の通り若者を対象とする年金制度であり、 筆者が具体的なイメージとして考えているのは、 たとえば 「20〜30歳のすべての個人に月額4万円程度を 『若者年金』 として支給する」 という政策案である。 これだけではおよそ納得がいかないという人がほとんどと思われるので、 以下この案の趣旨と内容を具体的に説明しよう。
まず、 大前提の認識として、 日本の社会保障給付は、 先進諸国の中で際立って高齢者関係の比重の大きい 内容になっているという事実がある (社会保障全体に占める高齢者関係給付の割合は69.5% (2007年度) に及ぶ)。 一方、 先述のように失業率が今もっとも高いのは10代・20代の若者であり、 加えて、 資産面を中心に経済格差が拡大している現在の日本では、 若者の間での貧困率や経済格差が上昇している。 また、 「教育」 への公的財政支出を国際比較すると、 日本はOECD加盟国 (いわゆる先進国) 28カ国の中で最低となっている。 特に大学教育における公的支出の割合については、 OECD加盟国の平均75.7%に対し日本は41.2%と極端に低い水準にある。 要するに、 子どもや若者、 教育関係を含め 「人生前半の社会保障」 が非常に手薄なのが日本なのだ (図2)。
もし上記のような 「若者基礎年金」 の案を実施しようとした場合、 必要となるお金を試算すると約8.1兆円である。 とんでもない額だと思われるかもしれないが、 ちょっと待っていただきたい。 現在の年金給付額は48.3兆円 (2007年度) という (国家予算に匹敵する) 巨大な額であり、 しかもこれは、 現在の高齢者が若い時に払った保険料の見返りよりもずっと大きく、 相当部分は若い世代の負担なのである。 こうした事実がほとんど認識されていないのが今の日本である。
ここで、 若者年金の財源として私が考えるのは、 以下の組み合わせである。 第一に、 退職年金のスリム化 (特に高所得高齢者の年金削減など)、 第二に相続税の強化 (これは資産の再分配を通じた 「機会の平等」 の実現という意味をもつ。 ちなみに相続税はバブル期以降引き下げられてきたこともあり、 相続税の負担が生じるのは100人あたり4.5人と少ない)、 第三に消費税その他一般財源。 こうした対応を行ったほうが、 人生における 「共通のスタートライン」 の確保という点でも妥当ではないだろうか。
なお、 給付された若者基礎年金の使途は受け取った個人の自由だが、 生活費や教育費への充当のほか、 NPOなど採算の取りにくい 「社会的起業」 を支援する、 という側面ももつことは確認しておきたい。 また、 これも重要な点だが、 このような若者基礎年金を通じて人生前半の生活保障を 社会化 することにより、 「親からの自立」 を促す (いわゆるパラサイト的な依存状況からの脱却の手がかりとなる) という趣旨も込めている。
ちなみに、 日本ではヨーロッパ諸国に比べてそもそも 「児童手当」 (ないし家族手当)というものが非常に手薄なので気づきにくいが、 この若者年金は、 ある意味で 児童手当の延長 という面ももっている。 人生全体が長くなる中で、 「高齢期」 と 「子ども期」 がともに長くなっているのが現代社会であり、 私は思春期〜30歳頃までを 「後期子ども」 の時期と呼んでいる。
直ちに 「若者基礎年金」 に賛成するかどうかは別として、 こうした提案を手がかりに、 人生の初期における 「機会の平等」 のあり方、 格差・相続の意味、 「人生前半の社会保障」 と教育のはたすべき保障機能といったテーマについて、 原点から考えなおすことが必要になっているのではなかろうか。 いずれにしても、 教育そして 「人生前半の社会保障」 の充実がいま強く求められている。
(文献)
田中洋子 (2006) 「労働・時間・家族のあり方を考え直す」、 広井良典編 『「環境と福祉」 の統合』、 有斐閣所収。
広井良典 (2006) 『持続可能な福祉社会− 「もうひとつの日本」 の構想』、 ちくま新書。
同 (2009) 『グローバル定常型社会』、 岩波書店。
執 筆 者プロフィール 広井良典さんは、 厚生省勤務を経て現在は千葉大学法経学部教授。 公共政策、 社会保障から、 ケア学、 死生観など幅広い分野で発言している。 著書には、 「ケアを問いなおす」 (ちくま新書) 「日本の社会保障」 (岩波新書) 「持続可能な福祉社会」 (ちくま新書) 「死生観を問いなおす」 (ちくま新書) 『脱 「ア」 入欧―アメリカは本当に 「自由」 の国か』 (NTT出版) 『コミュニティを問いなおす』 (第9回大仏次郎論壇賞受賞) (ちくま新書) 等多数がある。 |
後 記
広井さんは、 「格差社会」 とか 「若者の貧困」 が大きく取り上げられるようになる以前から
「人生前半の社会保障」 という課題を取り上げてきた方である。 「若者基礎年金」
についても私が最初に目にしたのは広井さんの著書 「持続可能な福祉社会」 であり、
この本は2006年の出版であった。 ほぼ同じ時期に朝日新聞で同じテーマで提言をなさっていた記憶がある。
広井さんの著作にあらわれた問題意識は、 驚くほど広く、 「公共性」 というテーマを考える上でも参考になることが多い。
これを機会に是非読んで頂きたいと思う。 (永田)
|