シンガポールとの比較から見た
      日本の高校の「学力」の課題


樋田大二郎(聖心女子大学教授)

 

   

 
 
国際学力調査と学力問題
 
 まず、国際学力調査の結果が誤解・曲解されていることを示したい。一昨年末に2つの国際学力調査の結果が相次いで発表されて以降、日本の子どもの学力低下と基礎基本の学力向上の必要性が常識になっている。しかし、この常識は疑ってみる必要がある。
※2つの国際学力調査:OECD学習到達度調査(PISA2003)とIEA(国際教育到達度評価学会)の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)
 結論から述べると、国際調査からは、日本の子どもの基礎学力が危ないとする根拠は見いだせない。たとえば、学力が優れているとされているフィンランドと日本を比較してみよう。表1にあるようにPISA2003では、「科学的リテラシー」はフィンランドが548点、日本も548点、「問題解決能力」はフィンランドが548点、日本が547点でほとんど差がない。
 また、文科省は国際学力テストの結果をもとに「(日本の子供の学力は)低下傾向にある」という見解を発表しているが、PISA2000と PISA2003の比較では、日本の「科学的リテラシー」が2000年の1位から2003年の2位、「問題解決能力」が同2位から3位となっているにすぎない。いずれも、フィンランドに小差で逆転されただけである。(ただし、PISA2003の「科学的リテラシー」の日本の順位は4位である。これは日本がどこかの国に抜かされたのではなく、2003年度から新たに調査に参加した香港が上位に入ったためである。)

表1.円SA2003日本とフィンランドの比較
   科学的リテラシー  問題解決能力
フィンランド  548点1位  548点3位※
日 本 548点2位  547点4位
ISAから参加した香港の第2位を含む。

いったい、これらの数字のどこを見て日本の基礎学力が危機だというのだろうか。また、学力低下が日本の経済危機をもたらすという論調があるが、表2のように、経済や科学技術の調子のいいドイツやアメリカは日本よりもずいぶんと低い順位にあることがわかる。経済や科学の順調さと学力調査の結果を短絡的に結びつけることはできない。
筆者は基礎学力危機説は文科省やマスコミが意図を持って流した言説にすぎないと見ている。そして、教師や国民が学力低下論に振り回されたのは、そもそも、大改革の割には十分な議論や準備、説明のないまま始められた新学習指導要領への不安があったからではないかと考えている。

表2.PISA2003日本とドイツ、アメリカ
  科学的リテラシー 問題解決能力
日本 548点2位 547点4位
ドイツ 502点18位 513点16位
アメリカ 491点22位 477点29位

◆問題とされるべき日本の低学力とは
 さて、筆者は日本の学力のうち、応用力的な学力については深刻な問題があると考えている。このことについて次の2点を指摘したい。
 第1に、日本では十分な応用力の教育がなされていないことである。応用的学力の不足は、PISA調査の「読解力」で日本が14位にとどまっていることに象徴されるが、ここで重要なのは14位という順位だけではない。日本の学校はPISAの「読解力」を授業で教えていないということが本当の問題なのである。PISA2000の設問と採点基準がweb上で公開されているのでみなさんも是非見ていただきたい。問題を見ると、「読解力」の出題は、日本の15歳の子どもは訓練されていないのだから答えられるはずがない。事実、日本の不正解者は誤答ではなく無答が多かったと言われている。この問題は落書きへの賛否両論の手紙文を読んで、「内容について論理的な関係性を分析・解釈し、論述形式で答え」させ、「手紙の意見に対して、説得力のある解釈をしていること」「文体、議論の組み立て、議論の説得力、論調、用語、読み手に訴える手法などの特徴を説明」することを求めている。この解説自体が私たちの多くにとってよその星の言葉に思えてしまうほど、この学力は日本には馴染みがない。日本の子どもたちはこのような問題に出会って、戸惑ってしまったのである。PISAの問題は国際バカロレア試験に準拠していると言われているが、設問の意図と採点基準から推測されるように、世界が学力として認識する「読解力」は、主体性、個性重視、自信、コミュニケーション能力などの点で重要な学力である。日本の学校でもそうした学力を育てるべきではないだろうか。
 第2は、日本では学力の「態度の側面」つまり勉強することの意義や面白さの教育が不十分なことである。TIMSS2003が学力調査と同時に実施した意識調査では、日本の子どもは数学・理科ともに「勉強の楽しさ」、「勉強への積極性」、「得意な教科かどうか」、「勉強に対する自信」、「自宅で宿題をする時間」などが国際的にみてかなり低い。さらに、PISA2003の意識調査では、表3のように「数学の本を読むのが好き」「数学を勉強するのは楽しいから」、「将来の仕事の可能性を広げてくれるから学びがいがある」で日本は低い値になっている。日本の高校生は学力の「態度」の側面が十分に育てられていないのである。

表3数学への態度・意欲・関心(PISA2003)
   日本 参加国平均
数学の本を読むのが好き 128% 30.8%
数学を勉強するのは楽しいか 26.1% 38.O%
未来の仕事の可能性を広げてくるから学びがいがある 42.9% 77.9%


◆シンガポールの学力
どのようにしたら、日本の生徒の学習への動機付けが高まり、応用力が身に付くのだろうか。このあと、国際学力調査で高得点をとっているシンガポールとの比較からいくつかの側面を検討したい。
筆者の研究フィールドであるシンガポールは「学力」の高い国だが、高校教育では体験重視、思考重視、プロセス重視、実社会との関連重視などの特徴がある。
このことが勉強の意義や面白さを感じながら「深く」「長く」「楽しく」勉強することにつながっている。この後、シンガポールの高校が体験重視、思考重視、プロセス重視、実社会との関連重視の方針のもとで、どのような教え方の工夫をしているかを見てみよう。(筆者らが行った調査結果より)日本では近年、基礎基本重視で学力を高めることを主張する論調が支配的だが、国際学カテストで高ポイントを獲得しているシンガポールでは、表4のように、実は態度の側面を重視し、体験を重視するいわゆる「新学力観」的な立場からの授業を行っているのである。

表4.シンガポールの授業の特徴
  • 知識や公式の暗記ではなく、意味や成り立ちつかい方まで教える
  • 職場で直掛負立っ技能・技術を身につけることに力を入れている
  • 授業では、何かを身こつけさせることより楽しさを重視している
  • 生徒が関心を持ちそうなテーマをとりあげることに力を入れている
  • 学力より人とうま<やっていく力を重視している

※シンガポールの高校生のほうが日本の高校生よりも肯定する割合の高かった項目。

 日本では「新学力観」的な授業はともすると、「学習指導からの撤退」と受け止められかねないが、シンガポールでは「新学力観」による授業を生徒に徹底して教えているのである。

◆進路指導と学習指導
どのようにして、生徒の「自己責任」に任せるのではなく、「新学力観」的勉強の指導と動機付けの徹底が可能になるのだろうか。シンガポールでは、学習指導と広い意味での進路指導との統合を図ることで、つまり学習内容と今の生活や将来の仕事・生活との関連性を高めることで勉強好きの高校生を生み出すことに成功している。
これを成功させるための第1の方法は、
表5.シンガポールの生徒が授業で身に付いたもの

  • 仕事に就いた時に、すぐに役に立つ知識
  • 将来の職業生活についての見通し
  • 大学で教育を受けるために必要な基礎学力
※シンガポールの高校生のほうが日本の高校生よりも肯定する割合の高かった項目。


進路指導を充実させることである。シンガポールの高校生は日本の高校生よりも授業で職場での即戦力知、職業展望力、大学で必要な基礎学力を身につけたと答える割合が高い(表5)。シンガポールではまず進路指導の充実があり、これと学習への動機付けが関連づけられているのが特徴である。

◆カリキュラムの自主開発
 第2の方法は、学校教育と職業生活に必要な知識の関連性を高めることである。シンガポールの授業は仕事との関連性が高く、しかも実践的で体験的である。つまり、自分の関心のあることを自分で工夫し試すことができる勉強である。授業が未来に向けた自己実現と自己表現の場になっているのである。このことが学習への動機付けとなる。
 シンガポールの高校教育は分権化が進んでいて、各学校がカリキュラムと人事について大きな権限を持っている。学校がカリキュラムを開発する。人事権も学校にある。
 シンガポールの専門学科高校に対するインタビュー結果では、カリキュラム開発に際して、カリキュラムを面白くてしかも卒業後の進路に役立つものにするためのに次のような努力をしていた。「教科を面白くし、生徒の興味を引き出し、体験的(hands-on)授業を、最新の設備を使って行う」「学習内容が職業世界の要請と結びつけられている」「現実への対応、創造性と学習目標を与えること、新たな方法を考えることを奨励している」
 シンガポールでは、卒業後の進路に役立つとことを教えるためには、コース開発の委員会に産業界から人を入れるなど、産業界との十分な連携を図っていた。
 以上、シンガポールでは進路指導と学習指導が不可分である。カリキュラムが実践的、体験的であることも含めて、在校生の実態や卒業後の進路に即したものである。
今や学習指導要領がミニマムでしかない日本の高校教育にとって、参考になるのではないか。
 最後になるが、シンガポールでは生徒はもちろんのこと、一部の教師だけでなく、出会った教師のすべてが目を輝かせていたのが印象的であった。(ひだだいじろう)

  

  
執筆者紹介
  樋田大二郎さんは2005年度の高校教育会館の夏季教育講座ミニシンポ「これからの高校教育を語る」にシンポジストとして参加して下さいました。現在、聖心女子大学文学部教育学科教授(4月から青山学院大学文学部教授)で、教育社会学を専攻されています。共編された著書に『多様化と個性化の潮流をさぐる一高校教育改革の比較教育社会学』(学事出版)や『高校生文化と進路形成の変容』(学事出版)などがあります。

後記

  「ゆとり教育が学力を低下させた」ということで学校5日制さえも否定するような風潮があります。土曜日に授業をやっている私立学校が依然として存在しており、公立学校でも土曜日に授業を実施したり夏休みを短縮する学校が出てきました。
 いずれも樋田大二郎さんが書かれた国際学力調査の結果発表後のことです。現在のゆとり教育といわれているのは2002年の学習指導要領からであり、PISAもTIHSSも2003年の調査ですからその影響は受けていないはずです。
 来年度より神奈川の高校にも観点別評価が本格的に導入されます。「関心・意欲・態度」の評価が「知識・理解」から切り離され、個々の生徒の「学力」がバラバラにされていくといった問題が指摘されています。「関心・意欲・態度」が授業中の挙手の回数や教員の話に頷いた回数などといった外面的な身振りや言動で評価することはないでしょうが「新学力観」のいう「態度」について考える場合は、「シンガポールの学力」を参考にしたいと思います。(中野渡)