「競争原理」に基づく「大学改革」を憂う

伊藤正純(桃山学院大学教育研究所名誉所員)          

 

 いわゆる「教育改革」は、初等、中等教育から高等教育にいたるまで、例外なくすすめられようとしています。しかし、高校で何が起こっているかを、外部の人に知ってもらうことはなかなか困難です。「大学改革」についても同じです。高等教育で起こっている事態は、マスコミの報道を介す以外、ほとんど知ることができません。そして「大学が変われば、高校も変わる」という言い方もされます。「大学改革」のゆくえは、学校システム全体に大きな影響を与えるでしょう。そこで今回は「大学改革」について、伊藤正純さんに執筆をお願いしました。(本間)

「競争原理」に基づく「大学改革」を憂う
  1. 進行中の大学改革一覧
     私への原稿依頼は、現在進行中の「大学改革」で何が起こっているかを明らかにすることである。大学改革の特徴は、高校改革の場合と同様に、現場(大学教師と大学生)の意見を聞かず、上から権力的に推進している点にある。しかも、大学を国際競争力の拠点と位置づけているため、新自由主義的な競争イデオロギーに基づく「改革」を何の検証もせず、制度化しようとしている点にある。そこでまず「大学改革」の一覧を示しておく。
    (1)2003年7月9日に「国立大学法人法案」関係6法案が成立し、2004年4月から合計97法人が設立される。その法人は、@国立大学法人(89法人)、大学共同利用機関法人(4法人)、A独立行政法人国立高等専門学校機構(1法人)、B独立行政法人大学評価・学位授与機構〔教育研究面の評価〕、C独立行政法人国立大学財務・経営センター〔施設整備・財務経営支援等〕、D独立行政法人メディア教育開発センター〔多様なメディアの教育利用〕である(なお〔 〕内は設立目的)。(2)2002年秋の学校教育法改正により、2004年度から全大学で認証評価制度(第三者評価)の導入が法定した。(3)社会人の再教育を目的とする専門職大学院も制度化された。(4)法科大学院(ロー・スクール)が2004年度から始まる。(5)2002年度から「21世紀COEプログラム」(研究拠点形成費補助金)が始まった。これは「第三者評価に基づく競争原理により、世界的な研究教育拠点の形成を重点的に支援し、国際競争力のある世界最高水準の大学づくりを推進するために実施している」ものである。2003年度の交付決定額の合計は158億1800万円で、社会科学系でも5000万円とか9000万円が交付されている(なお、2003年度の予算額は334億円。2004年度の予定額は367億円)。当然のことだが、採択134件中の86%は旧帝大を中心とする国立大学である。(6)「特色ある大学教育支援プログラム」も2004年度から始まる。その「主旨および狙い」によれば、「個性輝く大学づくり、国際競争力の強化、教養教育の充実が求められる中、大学における教育の質の充実や世界で活躍し得る人材の養成は、重要な課題であり、各大学における教育面での改革の取り組みを一層促進していく必要がある。このため、大学教育の改善に資する種々の取り組みのうち、特色ある優れたものを選定し、今後の高等教育の改善に活用する」とある。このプログラムの特徴は、短期大学を含めて、主として学部レベルの教育を支援するもので、そのため「21世紀COEプログラム」とは違って、私立大学のプログラムが多く採択された。国立大学は80件の採択のうち24件(32%)にすぎない。このプログラムを「教育版COE」だとみる向きもあるが、予算規模がまったく違う。2004年度予定額でみると、「21世紀COEプログラム」の15%弱の52億円しかない。以上が、「大学改革」の一覧である。
     日本の大学の7割を占め、大学生の8割が通っている私立大学の状況はどうか。「大学改革とは直接関係しないが、少し触れておく。私立大学は、18歳人口が減少しているなか、進学率も49%で完全に頭打ちであるため、「私立の大学の3割、短期大学の5割が定員未充足」、つまり定員割れを起こしている(1)本私立学校振興・共済事業団の情報)。そのため、志願者、受験者、合格者、入学者の数を公表しない大学が増えている。収入の80%以上を学生納付金に依存している私立大学・短期大学にとって、欠員が20%以上になると「たちまち赤信号が灯る」。それだけに、財務状況の公開が強く求められるようになっている(大江淳良「大学地図の変化と大学選択」『月刊高校教育』2003年12月号)。文部科学省から「経常費補助」を受けている以上、公開は当然である。また、多くの私立大学はすでに「第三者評価」を導入している。「第三者評価」は実は問題が多いが、その良否を問うことができない雰囲気が大学を取り巻いている以上、導入は避けられないからである。その私立大学で、大きな変化が2つ起こっている。1つは大学教員採用状況の変化で、学部教育が実学指向に変化しているため、専門知識さえあればサラリーマンでも大学教授になれるようになった(例えば、鈴木勝『55歳から大学教授になる法』明日香出版社。彼は観光学専攻の大阪明浄大学教授)。そうかと思えば、総人件費抑制のあおりで、(元)大学教員であっても中高年齢者は転職・採用が難しくなっている(年金生活者は別)。もう1つの変化は「労働紛争」が多発してきていることである。私が中央執行委員長をしている全国私立学校教職員組合(略称、私大ユニオン)への組合加入、団体加盟のほとんどは「紛争」絡みである。したがって、日教組は組織拡大・組織強化のためにも私学の組織化に取り組む絶好のチャンスだが、理論不足、人員不足、資金不足もあり、まだ十分に対応できていない。
     実は、.美だ甘に見える形では現れていないが、大きな「大学改革」の流れが起きようとしている。それは「理事会機能の強化」という文部科学省の方針である。逆に言えば、教授会の軽視と、大学の自治および学問の自由に対する管理的・経営的介入の強化である。これについては、国立大学法人法の問題点に触れたあとに、立ち戻る。

  2. 「自律的な運営」を不可能にする国立大学法人法
     国立大学法人法の問題点については、日教組高等教育改革推進プロジェクトの『大学法人法の問題点と対策』(2004年1月20、日、アドバンテージサーバー)が詳しいので、是非、この小冊子を読んでほしい。ここでは、この法律によって、国立大学が自由な雰囲気のなかで研究教育ができなくなる状況が生まれるであろうということを指摘しておきたい。
    国立大学法人法第1章(総則)第1節
    (通則)第1条の「目的」は、次の通りである。「この法律は、大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均等ある発展を図るため、国立大学を設置して教育研究を行う国立大学法人の組織及び運営並びに大学共同利用機関を設置して大学の共同利用に供する大学共同利用機関法人の組織及び運営について定めることを目的とする」。ここで言われていることは、「高等教育及ぴ学術研究の水準の向上と均等ある発展」のため、国立大学を設置するので、「国立大学法人の組織及び連営」の仕方を規定するということだけである。したがって、この「目的」には、文部科学大臣が2003年4月3Hの衆議院本会、義で、国立大学を法人化する目的は「自律的な環境のもとで国立大学をより油性化」するところにあると説明をしたにもかかわらず、「自律的な運営」という視,点はない。また、この法律のどこを読んでも、この視点はない。法律にあるのは国の関与の強化だけなのである。
    第2条(定義)第5項に、「中期目標」がある。その「中期目標」を定めた第30条第1項は、「文部大臣:は、六年間において国立大学法人等が達成すべき業務運営に関する目標を中期目標として定め、これを当該国立大学法人等に示すとともに、公表しなければならない」と規定する。そして第31条で、「中期目標」を実現するため、「国立大学法人等」は「中期計画」作成せよという。「国立大学法人等は、前条第一項の規定により中期目標を示されたときは、当該中期目標に基づき、文部科学省令で定めるところにより、当該中期目標を達成するための計画を中期計画として作成し、文部科学大臣の許可を受けなければならない」と規定する。その中期計画に掲げるべき事項は7つだが、主なものは@「教育研究の質の向上に関する目標を達成するためにとるべき措置」、A「業務運営の改善及び効率化に関する目標を達成するためにとるべき措置」、B「予算(人件費の見積もりを含む。)、収支計画及び資金計画」である。
    これでは、各大学の「自律的な運営」は不可能である。
    問題の根元はカネである。国の予算を使うのだから、文部科学大臣が中期目標を定めて、当然だという論法である。では、実際、どうするつもりなのであろうか。本当のことはまだ始まっていないので、誰にもわからない。したがって、以下のことは極々の情報を私がまとめたものにすぎない。
     国からの補助金は「運営費交付金」として、各大学に一括支給される。算定基準は学年数である。したがって、学生数の少ない大学や研究部門では従来のような研究教育ができるかどうか危ぶまれている。しかも財務省は2005年度以降、毎年減額する方針だという。交付金の性格をめぐって、意見が対立しているのである。文科省および国立大学側は国立大学法人の場合、交付金の使途は大部分が人件費および研究教育費であるからr義務的経費」だと主張する。これに対して、財務省は、国立大学法人は「外部資金」が導入できるようになるのだから、他の博物館法人などの独立行政法人と同様に、「裁量的経費jだと主張する。しかも大学運営に「民間手法」を取り入れることができるのだから、当然、「効率化」するはずだとも主張する。いま各大学では、「効率化係数」が導入されるのではないかという噂が絶えない。「21世紀COEプログラム」が象徴するように、政府が大学に求めているものは国際競争力」の形成であり、そのために、政府は少数の大学に多くの予算を配分する重点化政策を採っている。その切り札が「第三者評価」なのである。
     各大学は、文部科学大臣が定めた「中期目標」に基づいて、今後6年間の研究・教育についての仲期計画」を文部科学省に提出する。では、その結果、どうなるのか。文部科学省が設置した「国立大学法人評価委員会」などの「第三者機関」が、各大学策定の「中期目標」「中期計画」の達成状況を評価することになる。したがって、予想される事態は、評価結果によって、各大学に交付される交付金の額が変更されるということである。「第三者評価」が各大学にと生殺与奪の権になる可能性が非常に高い。

  3. 「競争原理」導入=「第三者評価」は大学を活性化させるのか
     各大学で行われている教育と研究の成果が「公平に」評価されるのであれば、「大学評価」は次の教育と研究の改善にも繋がるので、大いに結構なことであって、そこに問題があるとは思えない。このような素朴な意見があることを、私も知っている。しかし、大学評価の難しさは、教育研究の専門性が非常に高いため、誰もが簡単に評価できない点にある。したがって、大学評価には「同僚評価」と「第三者評価」しかない。同僚評価も、専門家である同僚が互いに批評し合いながら、切瑳琢磨して自己の教育研究レベルを向上させようとする限りにおいては、おカネもほとんど掛からず、やろうと思えば誰でもできる。だが、その評価には客観性も公平さも存在しない。評価に客観性と公平さを求めれば、資源の膨大な浪費が生じる。市川昭午氏は言う。
     「大学評価に同僚評価はつきものだが、それは第一級の科学の専門家の時間と才能を著しく浪費する。評価をする人はされる人よりも高い能力を有しなければならないが、当然のことながらそうした人の数は限られる。研究・教育の第一線に立つ人々が大学評価に専念するようになれば、信頼のおける評価結果が得られるかもしれないが、数年にして学術研究は壊滅してしまうだろう。かといって第一線から退いた人々やもともと第線に・」/1つたことがない人々が評価に当たったのでは、評価結果も信頼は得られないであろう」(『高等教育の変貌と財政』玉川大学出版、2000年3月)。したがって、「公平な」評価は、論理的に考えて、実現不可能なものなのである。
     では、大学改革のなかで導入が法定されたもう一つの「第三者評価」はどうか。第三者評価機関は、2004年度から独立行政法人となる官制の「大学評価・学位授与機構」である。そして、そこに設置される「国立大学法人評価委員会」が「第三者評価」を行い、その結果が予算配分を左右すると言われている。したがって、深刻な事態が起きるだろうと予想される。2000年3月、国立大学協会は、大学評価の必要性を認めつつ、すでに次のような懸念を表明していた。「大学評価機関が、独立の機関として大きな権力をもっことになることも事実である。組織的にも、新機関は常勤の教官および事務職員だけでも百人規模と、非常勤の評価委員を含めれば千人規模であり、小規模の大学を越え、予算も大きなものとなる。……それは評価機関の課題からすれば当然ともいえる。しかしその一方で、このような規模の大きな組織は、ともすれば組織の存続を自己目的化しやすく、この機関が評価のための評価機関に陥る危険もないとはいえない。また評価結果が大学に大きな影響を与えることから、評価機関は巨大な権力をもつことにもなろう」、と。
     大学評価を資源配分(=予算配分)に直接結びつけているのはイギリスだけだが、それは「ある学者によれば最悪の事例(worst example)」だという(喜多村和之「欧州諸国の大学評価一実地調査にみる印象」『アルカディア学報』No.50、2001年9月26日)。その「最悪の事例」をやろうというのである。そもそも、なぜ「第三者評価」が導入されなければならないというのか。
    ここ数年来の大学改革の議論にある常套句は、「第三者評価等による競争的環境の醸成」と「国際競争力のある高等教育機関としての世界水準の教育研究の展開」である。そして、この両者はイコールだという前提の基に、すべての「大学改革」が決められている。しかし、この発想は「新自由主義」的な市場万能論者に取り輝いた「神話」にすぎない。新しく誕生する国立大学法人は、特に地方の国立大学法人は、予算面から考えて、その存在意義が次第に消えていく(fade out)だろうと予想される。
  4. 理事会機能、監事機能、評議員会機能の強化
     大学設置・学校法人審議会の「学校法人制度の改善方策について」(2003年10月10日)によると、理事会機能の強化、監事機能の強化、評議員会機能の強化が唱われている。国立大学法人法において、学長権限を強化するために、大学での意思決定機関として、外部の第三者がかならず委員に加わっていなければならない「経営評議会」と「研究教育評議会」の設置が義務づけられた。そして、学長を中心に、大学独自の判断と責任において、民間手法を取り入れながら、大学を運営しろというのである。国立大学法人法の条文には「教授会」という言葉すらない。それがあるのは「附帯決議」なのである。ましてや、スウェーデンでは当たり前の「学生の参加」など、議論された形跡もない。
     では、このことを私立大学に当てはめるとどうなるのだろうか。私立大学で労働紛争が多発しているが、その背景にあるのは民間の非常勤理事長の発言力が増大していることである。「経営危機1の重圧が民間企業の手法を導入させ、紛争を生んでいるという構図が、そこにはある。しかも、裁判所の判決は、労働紛争を「集団的労働紛争」だとみなす従来の労働法解釈から「個別的労働紛争」とみなす民法的な労働法解釈が多くなっている。そのため、私学経営者の態度は、裁判をしても負けないと強気になっている。このような状況で、理事会機能の強化を図れば、問題の解決はいっそう困難になるだけである。
     国立大学法人下の国立大学での労使関係は、労働法の適用となる。そこで、労働組合の結成と就業規則の制定が急がれている。その就業規則だが、東北大学の人事課案をみて驚いた。「職場での政治活動について、明文で禁止規定を入れるかどうか」というコメントがあるからだ。それだけではない。何と名古屋大学と九州大学の案には、「大学内で政治的活動を行ってはならない」と明記されているというのである。日本の大学には、もう市民社会は要らないというのか。
     日本の教育政策の最大の問題点は、「公財政支出学校教育費」が異常に少ないことである。いま高等教育だけみると、1998年の在学者1人あたりの学校教育費は日本9,900ドル、アメリカ19,800ドル、スウェーデン13,200ドルで、日本はアメリカの半分しかない。しかも、この数字は公財政教育支出と私費負担教育費の合計を在学者数で割ったものであるから、私費負担部分が含まれている(文部科学省『教育指標の国際比較』平成14年版)。私費負担は国立大学で1割、私立大学で8割だから、高等教育における公財政教育支出がいかに少ないかが想像できる。世界人権宣言は教育の機会均等を実現するために、就学前教育から高等教育まで、学校教育費の公費負担(税負担)を求めている。日本の「大学改革」は、それとはまったく正反対の方向に進んでいる。

       

  

  

執筆者紹介

 伊藤正純さんは経済学を専門とする研究者です。しかし、その関心は経済に限られることなく、労働問題、教育問題にわたり、多くの論文き発表してきました。とくに最近はスウェーデン社会のもつ可能性に注目した調査、研究をすすめ、『スウェーデンにみる個性重視社会』という本を執筆、編集しています。