「教育改革」は何をもたらそうとしているのか、学校はどこに向かおうとしているのか、熱く議論することは必要です。しかしその議論はつねに現実に根ざしたもの、冷静な分析と検証に支えられたものでなければならないでしょう。今回お招きした三人のシンポジストは、そうした議論にふさわしい方々だと思います。
永田裕之さんは、いま目の前にいる生徒たちに何ができるか、何をなすべきかをつねに問い実践を重ねてきた教員のひとりです。教育改革について教育現場にねざした視点を示していただけると思います。
また学校は孤高の存在ではありません。さまざまな希望、さまざまな思いが交差する社会のただ中に存在します。生徒の思い、保護者の期待、そして県民の声を理解しようとする姿勢なくして教育改革を語ることはできません。新聞記者として神奈川の教育を見てきた石川美邦さんにシンポジストをお願いいたしました。
広田照幸さんは、教育の限界を問いながら、様々な教育言説をていねいに検証、批判した、『教育には何ができないか』(春秋社)、あるいは一般に流布する思いこみを歴史的事実にもとづいて検証した、『日本人のしつけは衰退したか』(講談社)などの本を著しています。新鮮な角度からの問題提起がいただけると思います。
■日時/2003年11月22日(土)14:00〜16:30(13:30受付開始)
■会場/横浜情報文化センター6階情文ホール
(横浜市中区日本大通11TEL045-664-3737)
シンポジスト
永田裕之(県立高校教員)
石川美邦(神奈川新聞記者)
広田照幸(東京大学助教授)
コーディネーター
三橋正俊(県立高校教員・教育研究所員)
いま何ができるかー職業・技術教育の導入を中心にー
永田裕之
教育改革の課題の一つに職業・技術教育の導入がある。すでに1970年代から提唱され、多少の差はあるが、教育行政、組合、教育研究団体等さまざまな立場から主張されている。当初は、この主張は理念的な側面が強かったように思うが、近年はフリーターの増加と関連して主張されるようになっている。
日本労働研究機構の調査研究報告(「大都市の若者の就業行動と意識」)などによれば低いと言われる社会階層に属している者ほどフリーターになる割合が高くなる傾向があるという。調査に携わった小杉礼子氏は、必要な支援の一つとして「やりたいこと探しを含めた就業準備を積極的に進める教育」をあげている。(毎日新聞5/26)長後高校では1996年度から1年次に必修で2単位の「ガイダンス」と呼ばれる科目を設けた。最初は同じ1年次に「技術基礎」という科目も設ける予定だったが、こちらの方は県教委に相手にされず実現できなかった。そこで「ガイダンス」の中に工業や農業の内容を紹介する単元を設けた。授業は工業科や農業科の非常勤講師に来てもらっている。
この科目は今年から産業社会と人間」と名称変更し、総合学科に受け継がれる。「産業社会と人間」は学校設定教科・科目なので内容は自由である。文部科学省は教科書を作るつもりはないといっている。総合学科では原則履修科目だが、普通科でも設置可能である。
実際にこうした科目を設置する場合、まず問題となるのは1年次のどの科目を減らして設置するかということである。長後高校でも大変な議論になった。普通科なのにこんな科目をやる必要があるのか、という意見もあるに違いない。総合学科のカリキュラムを検討する際も、1年次のカリキュラムはセンター試験に対応できるようにしたいという意見があったが、そうした考え方に立てば「産業社会と人間」を入れる余地はないかもしれない。都立のある総合学科高校へ見学に行った際、説明に立った教員はr産業社会と人間」は大学受験にとっては余計な科目だと説明した。
つまり、「産業社会と人間」一つ設置するにも、ことは簡単ではない。しかし、十分可能でもある。もし、科目として設置することが難しいのなら「労働」というテーマで総合的な学習の時間として考えてもよい。長い間、実現ができなかった課題が実現可能なものとして手の届くところにあるのである。しかも目の前の生徒に必要な課題として。
あとは実践あるのみではないか。(ながたひろゆき)
「浮遊する子供」と教育改革
石川美邦
【浮遊する子供】
今、子供がやりたいことは、メールとネット、ゲーム、テレビ、ファッション、風俗の中にある。手の延長となった情報ツールは、大人と子供、学校と社会、地域や国をらくらくと超えて、欲望を肥大化させ、充足させる。子供は学校一教師一生徒という古い器からあふれ出て、大人から子供が見えなくなりつつある。
同時に子供から眼差しという他者が消えつつある。全能感を持つ自分と風景でしかない他者。情報の海の中で「浮遊する子供」は、私たち大人自身の鏡のような存在だ。全能者として記号を食らい、シンボルを消費する私たち。
浮遊する子供にアプローチし、他者との回路を回復し、次代を担う宝物を未来に返すか。親や教師、学校に問われている本質は、そういうことではないだろうか。
【改革の目的】
今の教育改革の動因は、教育界からの内発的な改革でなく、社会からの外圧によるものだ。それは、近代化を担う人材開発の教育機関である学校と、ポスト工業社会(高度情報社会)との「ミスマッチの最適化」という装いを取っている。平等、均一、権利より新保守主義=市場原理による公平、多様、自己責任を原理とする。
しかし、制度の改革が今一度、学校という器を再構築し、「学びを再生」し、「浮遊する子供」を器に呼び戻す決め手になるのだろうか?
【県立高校再編整備計画の意味】
今次の「県立高校再編整備計画」(2000年度〜09年度)は、上記の背景を持ちつつ、神奈川の「100校計画」(1973年度〜87年度)の軌道修正という性格を持っている。
前期では、金太郎あめのように作った普通科の整理統廃合と多様な学校づくりによって中堅層以下の対応した。後期では、学区の撤廃などによって上位層のテコ入れを目指す。
【論議の視点】
総合学習」デタント期と戦争期⇒経験主義と合理主義の相克、「家庭総力戦」15から12の春へ⇒私学と公立校の役割、「人間学の視点」全能感と失われた他者⇒脱構築と自己再生物語の3点から、教育界と外部との双方向のパイプ役として、討論に加わりたいと考えている。(いしかわみくに)
高校の社会的役割の変化と未来社会の選択
広田照幸
1970年代以降、高校は社会の中の底辺労働市場に入っていくことを余儀なくされる子どもたちまで抱え込むことになった。この時点で、高校の社会的役割は大きく変質した。とはいえ、しばらくは、技術職・事務職ポストが高卒にも開かれていたし、単純技能職から熟練技能職もしくは技術職・事務職への移動も可能であった。そこでは、職業科だけでなく普通科のカリキュラムも、卒業後のキャリア形成に有意味性(レリバンス)を保持していた。人を育てようとする企業の姿勢は、「実績関係」という日本に特徴的な制度にあらわれている。
しかし、大きな転換が1990年代初頭のバブル崩壊後に生じた。高卒労働市場は急速に縮小し、キャリア形成の可能性を持たない単純技能職の比率が激増した。企業は「人の育成」の余裕を失った。それゆえ、進学しないかぎり、普通科のカリキュラムは、その後の職業との関連をもたなくなった。もう一方で、少子化・大学の拡大により、一部の有名大学を除くと厳しい受験競争は緩和されていった。「勉強しないといけない」圧力が喪失した時代が来てしまった。
現在起きているのは、1)「エリート予備軍の質」への政策関心の高まり、と並んで、2)「中層」以下の層の危機である。後者は、@勉強意欲を持たない生徒を学校としてどうするか、という問題や、A彼らの将来のキャリアを保障するような教育内容は何か、という問題を提起している。だが、その奥には、B「中層」や「底辺層」に、社会として将来どういうキャリアの可能性を準備できるのかという、社会設計の方向に関わる選択が存在している(経済の問題)。また、C民主主義的な社会を保持・発展させるには、「中層」や「底辺層」に何を期待するのか、という選択でもある(政治の問題)。
「社会が変化しているから、高校改革が必要」という議論は理解できる。しかし、@改革は既存の良いものまで破壊してしまう可能性がある、A間違えた現状認識に立ったr改革」である可能性がある、B今進められている方向の改革が、唯一のあり得る方向ではない。この3つの点に注意して、改革の可能性や問題点について、考えてみる必要がある。(ひろたてるゆき)
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