異なるものとの出逢いのとき

松 田 博 公  (共同通信編集委員)

 

 若かりし1970年前後、 フランスのシュールレアリスムに惹かれたことがある。 行動するにも、 思考するにもマルクス主義の図式の影響が色濃かったあの時代、 「解剖台の上でこうもり傘とミシンが出逢う」 というような詩的表現は、 別の発想、 生き方があることを教えていた。
 異なるものと異なるものの唐突で思いがけない結びつきこそ美しい。 こう語り、 芸術から生活に至るまでの変革を唱えたシュールレアリスムの運動は、 時代が不気味な裂け目を見せている今こそ、 私たちの生の方法であり得るだろう。 シュールレアリスムという二十世紀芸術史の特殊なジャンルがではない。 異なるものとの出逢いの喜びに意味を見いだす、 その方法がである。

 連続する学校襲撃事件

 1998年から99年に掛けての一年は、 建国以来のアメリカの学校史で、 最悪の期間だった。 かつてない暴力が激発したのである。 学校暴力というと、 ギャングと関係がある貧困層の有色人種の少年が起こすのが通例だったのに、 一連の事件はすべて中産階級の白人少年たちによって実行された。 98年3月、 アーカンソー州ジョーンズボロの小学校では、 11歳と13歳の少年が警報を鳴らし、 教室から出た教師、 生徒に銃を乱射、 4人が死亡し、 11人が負傷した。 これを皮切りに、 次々に学校で銃乱射事件が発生した。 5月には、 オレゴン州スプリングフィールド高校で、 15歳の少年が両親を射殺した翌朝、 授業前のカフェテリアにいた生徒に50発の銃弾をあびせ、 2人が死亡、 22人が負傷した。 そして、 最も大がかりで、 計画通り事が進んでいたら学校が爆弾で吹っ飛んでいたのが、 99年4月、 コロラド州コロンバイン高校での、 17歳と18歳の少年による学校襲撃事件だった。 死者は現場で自殺した彼ら2人を含む、 13人に上った。
 マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画 「ボウリング・フォー・コロンバイン」 は、 コロンバイン高校事件の背景を追っている。 彼の方法こそ、 異なるものとの出逢いを求める旅だ。 太っちょの大きな体で、 カメラマンを伴い、 唐突にどこへでも姿を現す。
 麻薬で学校を追放された青年。 事件を生んだ町リトルトンを茶化すアニメを描いた、 かつての落ちこぼれ少年。 リトルトンを支配する兵器産業の工場関係者。 犯人の二人が心酔した反逆的なハードロック歌手マリリン・マンソン。 全米ライフル協会会長を務め、 銃社会アメリカを擁護する俳優チャールトン・ヘストン。 人々は、 マイク片手に、 突如質問を浴びせかけるひげ面の巨漢に、 鎧を着る間もなく本音をさらけ出す。
 浮上してくるのは、 単に銃器を野放しにする銃社会アメリカではない。 先住民を虐殺し、 アフリカから黒人奴隷を輸入して酷使した、 暗い建国の過去がもたらす潜在意識におびえ、 復讐を恐れて暴力でガードする脅迫神経症のアメリカ文化である。
 マイケル・ムーアの行動力は、 このような自国の文化に対する自己批評の情熱によって支えられているようだ。 彼は、 同様に国民が銃を持ちながら、 銃に絡む事件の少ないカナダに行き、 ドアに鍵を掛けない対照的な生活スタイルに驚く。 リトルトンの大手スーパーに、 車いすの乱射事件の被害者と共に出掛け、 すべての銃器、 銃弾の販売をやめよと交渉し成功する。 彼は、 アメリカ文化を自己批評し、 真に安全で自由で恐怖のない、 そして世界に恐怖を与えない文化を再建したいのだ。

 世界を覆う教育

 さて、 私たちは、 ムーア監督よりも、 もう少し教育にこだわってみよう。 彼はこの作品でアメリカ文化の異様な歴史と恐怖に満ちた固有性を描き出したのだが、 教育を視座にするとき、 景色は 「いづこも同じ秋の夕暮れ」 である。 つまり、 私たちは、 異なるものの中に世界を覆う教育の普遍的で同一の貌に出逢うことができる。 登場人物の一人、 70年生まれのマット・ストーンは、 日本でも知られる 「サウスパーク」 シリーズのアニメ作家である。 マットは、 リトルトンで育ち、 コロンバイン高校を卒業している。 監督とのインタビューで彼は語る。
  「コロンバインはひどくウソっぽい学校で、 リトルトンはうんざりするぐらい平和で変化のない町だ。 あの頃、 試験で失敗したら、 そのまま一生負け犬でいなければならないという恐怖に支配されていた。 …今の自分が永遠につづく…でもそれは完全に間違いで、 やがて出口が見つかるという事実に彼らが気づいてさえいれば…」
 マットは、 コロンバイン高校を襲撃した2人の高校生の胸の内と、 自分のそれとを重ね合わせている。 多くのメディアや学校関係者のように、 銃社会に事件を還元していない。 銃や爆弾は、 道具であり、 問題はそれを使って何をやろうとしたか、 なぜ自分もろとも学校を消滅させようとしたかなのだ。
 犯行に及んだ少年たちと自分との心理の距離が遠い人々ほど、 銃だ、 メディアだ、 家庭崩壊だと、 学校の外に理由を見つけようとする。 私が訪問した、 98年4月の乱射事件の舞台になったオレゴン州スプリングフィールド高校の校長もそうだった。 もちろん、 人が行動に移る理由は複雑で、 解釈はどのようにも可能だ。 しかし、 近代教育の制度化以来、 世界中で、 学校は子どもにとって宇宙であり、 子どもは学校内存在として生きることを余儀なくされている。 学校で何かが発生したとき、 学校生活に (も) 重要な理由があると考えるべきなのである。 学校に関わる人々ほど、 子どもの置かれたこの情況を理解しようとしない。 学校関係者は、 子どもは学校において人間となり、 幸せになると信じている。 学校からはみ出る生徒、 学校を破壊しようとする生徒は、 常軌を逸していると。
 そうだろうか。 私たちは日々、 学校神話が崩れる時代にいる。 もちろん、 子どもたちは、 学校を 「裸の王様」 だと見破っているし、 マットのように、 教育システムが子どもたちの袋小路であると公言する大人も増えている。 スプリングフィールドでは、 子どもを学校から家庭に引き上げた父母に出会った。 ホームスクーリング家族は全米で二百万に達するという。 カウンセラーのジョン・クランブリは私に、 「学校は子どもたちの生きる場になっていない。 子どもたちは自分の未来をどう獲得するかを学ぶべき場所で、 社会と学校を憎むことを学ぶ。 破壊衝動が鬱積し、 インターネット情報で爆弾を造るのは子どもたちの流行になっている」 とまで言った。

 グローバルな噴流

 学校がエリート選抜に特化し、 落ちこぼれをつくり出すから、 子どもたちは荒れると語る人がいる。 そうだろうか。 かつての半工半農の社会では、 学校はごく少数の特権的エリートと大量の 「読み書き算盤」 大衆を生産する階級的装置だった。 けれど、 日々平穏で、 ませた子を除く多くの生徒は、 卒業式に 「仰げば尊しわが師の恩」 と唄って涙した。 そのころ、 学校の主要な受け皿は農業であり、 就学期間は相対的に短く、 次には大量生産工場の時代が来て、 さらに総中流のサラリーマン社会がやって来た。 時々の産業に人材を供給し、 就学期間を延長させながら、 学校は機能してきた。 ところが、 90年代初頭以降のグローバリゼーションの噴流は産業を変え、 中間層を解体し、 少数の勝者と多くの敗者という社会をつくり出した。 学校を出ても、 意味や価値の感じられる職業には就けない。 それなのに、 永遠に思えるほど長く子どもたちを閉じ込める装置。 ほとんどの国で学校は、 そうなってしまったのである。
 5月末に発表された2003年度 「国民生活白書」 は、 01年時点での若年フリーターの数を417万人と見積もっている。 白書も、 これでは若者の職業能力が低下し、 経済全体に悪影響を及ぼすと予測する。 若者の未来が閉塞的では、 学校の困難は泥沼のように深まるばかりだ。 やる気を喪失し、 暴力で憂さを晴らす生徒をなだめ、 脅し、 管理する教師は、 ますます悩み、 疲労困憊するだろう。
 社会の関節がばらばらにはずれだした。 文字通り乱世なのだ。 旧来の生徒操縦マニュアルは役立たない。 ここで私は、 中国唐末の乱世に生きた禅師、 臨済の一喝を思い起こす。 「随処に主となれば、 立処みな真なり」。 臨済が言う主体性とは、 思想や理念、 自我を貫き通すことではない。 荒れ、 やる気を失い、 逸脱し、 暴力に走る、 一人ひとりの子どもたちの一瞬一瞬が、 根源的な合理性、 リアリティを表している。 その現実のただなかに、 どこまでも共に居続ける姿勢だろう。
 あらゆるものが果てのないプロセスであり、 結末というものはない。 子どもたちが身体ごと示している未来を、 それが何であれ異なるもの、 真なるものとして味わい、 共にあり続ける強さを、 教育現場にいるか否かを問わず、 持ちたいのである。
(まつだ ひろきみ)

  

  

志水宏吉氏プロフィール

 松田博公さんは、共同通信の編集委員を務めています。教育問題についての著書には、佐々木賢さんとの対談「果てしない教育?」「教育という謎」(いずれも北斗出版)、講演録「学校でキレる子どもたち一米国のキップの事件か5」(学校教育を考える会・藤沢)などがあります。 

後記

 今回は松田博公さんに執筆をお願いしました。十九世紀の詩人ロートレアモンの詩句からはじまるとは思ってもいませんでした。はじまりから末尾まで内容の濃い文章だと思います。執筆者の経験の広さ、思索の深さから来る内容の濃さでしょう。
 共同通信編集委員、ペーパー?鍼灸師の松田さんが扱うテーマは多様であり、広大です。女性運動、教育の問題、宗教の問題、あるいはセクシュアル・マイノリティの問題。なぜか周縁へと向かっていきます。映画監督のムーアをもちだすまでもなく、松田さんこそ、「異なるものとの出逢い」を求める旅人に見えます。
 ただ残念なことは、執筆者の意を尽くすにはとうてい足りない字数しか用意できなかったことです。編集者として反省しております。続きはまたの機会に。(本間)