一第11回 教育研究所シンポジウムのご案内一
 

 
今、 「教師」 を考える

 
いじめ・不登校をはじめ学級崩壊や中退問題など教育は危機的な状況にあるといわれ、 教師に対する批判も厳しいものがあります。 一方、 教育改革が進行するなか多様化と個性化をめざした学校づくりが企図されていますが、 教師たちからは会議や煩雑な業務に追われゆとりがなくなったとの訴えもあります。 さらに教員評価システムの導入や研修権の制限といった動きも生まれ、 教師は困惑しています。
  しかし、 自由でゆとりある教師のもとでこそ、 生徒たちはのびのびと学校生活をおくれるのではないのでしょうか。
  確かに教師も今まで通りではいかないということを知るべきかもしれません。 時代の変化にともなって教師の役割も変化しているようです。 こんな時代だからこそ教師の置かれている状況を分析し、 その 「仕事」 「役割」 を考えていきたいと思います。
  シンポジストのみならず、 フロアーからの意見も交えながら、 さまざまな観点で議論を深めたいと思います。 ふるってご参加下さい。

■ 日 時/2002年11月23日(土) 14時〜16時半 (13時半受付開始)
■ 会 場/横浜情報文化センター 6階 情文ホール
           (横浜市中区日本大通11 TEL 045-664-3737)

シンポジスト
 石井 小夜子 (弁護士)
 高橋 庄太郎 (朝日新聞記者)
 佐々木  賢 (専門学校講師・元高校教員)

コーディネーター
 金 沢 信 之 (教育研究所員)



シンポジストからの 発 信



教師はつながっているか
    弁 護 士 石井 小夜子


 過日ある中国帰国者の家を訪問した。 この家族の一人が夜間中学校に通っている。 「相談があるんですが」 と言う。 「午後5時半までに学校に来ないと学校に入れてくれない。 特に○○先生のときは厳しい。 でも勤務で遅れることがある。 どうしたらよいだろか」 というのであった。 夜間中学校には、 さまざまな理由で義務教育を終了していない人が、 学びを求めてくると思う。 日本語を学ぶために来る中国帰国者の人も多い。 でも、 働きながら学んでいるのだから、 時に時間に間に合わないこともあるだろう。 それを杓子定規に、 しかも遅刻したら教室に入れないということの冷たさに、 驚いたのだった。 この学校とは別の夜間中学校の教師をしている友人に確認したら、 当然ながら、 その学校ではそんなことはしていないという。 でも前述した学校のことは、 噂で聞いていたようだった。
 弁護士をしている関係で、 どうしても学校や教師とのトラブルについて相談されることが多い。 ここで挙げれば、 何頁使っても書ききれないほどである。
 東京都を先頭に、 教師への評価導入が広がっている。 私は思うのである。 以前だったら、 親が率先して反対運動に加わっただろう。 教師への管理が厳しくなれば、 子どもへの管理も厳しくなるからだ。 だが、 昨今はその層の中で本当にごく一部の親が共闘しているにすぎない。 先日も、 ある不登校の子どもをもつ母親が、 私の事務所においてあった教育基本法 「改正」 反対の集会チラシをみて、 私に、 どうして反対なのか、 今の教育はひどすぎるし、 先生もひどい、 と言った。 私は、 教育や先生がひどいとしてもそれは教育基本法のせいではない、 「改正」 されたらもっとひどくなる、 と話したが、 彼女にはストンと落ちなかったようだった。 こうした学校不信は、 現実には、 一人一人の教師の対応を通して植えつけられるのだろう。 教師への評価に異議を唱え、 一緒に行動する保護者が少ないのは、 その表れだと思わざるを得ない。
 友人たちを始め、 知り合いの教師たちの多くは、 子どもや教育のことに熱意をもっている。 現場の厳しさも伝わっている。 でも、 相対としていうと、 親と教師、 何か結び合っていないものがある。 どこかで出会いができないでいるように思える。 それは何なのだろうか。
 もう一つ、 具体的に担当する少年事件の子どもたち。 とりわけ中国帰国者の子どもたち、 まったく異なった文化や価値観をもって成長してきた子どもたちである。 この子どもたちの声は、 あらためて、 全体として纏めあげざるを得ない学校社会と、 子どもの 「固有性」 のぶつかりに、 教員がどう向くか、 ということを問うている。 (いしい さよこ)


権威の総失墜の時代に
   朝日新聞記者 高橋 庄太郎


 ひところ、 「昔陸軍、 今○○」 という言い方がはやった。
 ○○の部分には、 総評とか財界とか官僚とか、 新時代の追い風に乗って権勢をほしいままにする巨大組織などの名前を入れるのが通例だった。
 最近は様相がちがう。 ○○に該当する存在感の大きなものがほとんど見あたらない。
 昔にくらべると学校や先生の権威は確かに落ちているが、 これは、 日本の社会全体で起きている 「権威の総失墜」 の視点から見たら、 その意味がはっきりしてくる。
 三、 四年前、 小学校の学級崩壊の問題が持ち上がったとき、 教師を尊敬する気風がすたれたことが、 授業中に立ち歩いたり、 紙ヒコーキを飛ばしたりする子を増やした、 という意見を方々で聞いた。 学校教育にまつわる 「聖性」 の喪失。 こんな表現で七〇年代以降の教育病理を解きほぐす学説にも出あった。
 揺るぎないものと見られてきた強固な基盤に深い亀裂が生じている以上、 対症療法的な手だてでは効果はあまり期待できない。
 教育担当記者として学級崩壊問題の取材を重ねるうちに、 あることに思いが及んだ。 それは、 学校などの教育機関と、 新聞などの活字メディアの両者はよく似ているということ。 一方は教科書で、 他方は新聞紙面で、 と媒介物には違いがあるけれど、 新しい知識、 ものの見方といった有益情報を大勢の人々に向かって発信し、 広める点は同じだ。
 学校、 教師を取り巻く環境が厳しいのと同様、 新聞はいま荒波にもまれている。 テレビなどの映像メディアの伸長、 インターネットの普及……手ごわい敵に囲まれ、 「権威」 や影響力の面で昔日の面影はない。 若者の活字ばなれも進んでおり、 前途は大変険しい。
 多メディアの中で暮らし、 目が肥えた人々に対し、 旧来の一方通行型発信では限界がある。 読者の心をつなぎとめるべく、 現在、 新聞界あげて取り組んでいるのは、 双方向型の紙面づくりだ。 「声」 「ひろば」 「論壇」 など、 新聞の外側の人たちの意見を載せるスペースが増えていることにそれが表れている。 キーワードは 「読者参加」。
 最近、 学校の世界でも 「生徒参加」 型授業が推奨され、 その典型として総合学習の意義が説かれている。 閉そくの現状を何とかしたい。 新聞界の危機意識と共通している。
 様々な模索の中から、 新しい教師像がおのずから浮かんでくるのだろう。 (たかはし しょうたろう)


アカウンタビリティ
   専門学校講師 佐々木  賢


 教育アカウンタビリティということばがある。 教育は一種のサービスだから提供者はサービス内容を、 受容者に説明する責任があるという。 だがサービスの受容者は親と生徒の二者がある。 両者の要求が違っていたらどうなるのか。

 親の3要求
 親は学校に学力・しつけ・託児の3つを求めている。 学力要求は強い。 特に1990年以降の構造不況で、 中間層が没落し、 リストラを受け、 出向させられ、 年金や福祉にも不安がある。 せめてわが子に学力をつけさせ、 進学させ、 有利な就職をさせ、 将来の生活を安定させたいと思うからだ。
しつけ要求も強い。 消費文化やメディアや携帯電話の急速な普及で、 世代間のコミュニケーションが取りにくく、 親の言うことを聞かない子どもが増えている。 そのコミュニケーションギャップを学校に埋めて欲しいと願うからだ。
 教師は親の託児要求が強いことをとを感じている。 昔からの共働きに加え、 崩壊家庭があり、 親の離婚や個人化が進み、 子捨て現象もあり、 学校に子をあずけっ放しにする親が多くなっているからだ。

 生徒の3要求
 生徒は通過・相互コミュニケーション・居場所の3要求をもっている。 通過とは、 「面倒なことを言わずに、 楽に学校を通過させてくれ」 という要求だ。 教育の大衆化にともない、 学歴価値が減少したのに、 みんなが高卒以上の学歴を求めるからだ。
 相互コミュニケーション要求とは、 メディアコミュニケーションや教育コミュニケーションが多くなり過ぎた反動として、 若者たちが生身の対等な関係を求め始めていることを指す。 生徒たちは際限もなくおしゃべりしたがっている。
 多くの子どもたちは学校以外に居場所がない。 だが本当は、 「おまえが居たから助かった」 と言われるような、 出番が求められているのだが、 今の社会は子どもたちを教育の対象としてしか見ていない。 だから積極的な出番の要求が消極的な居場所の要求として現れているだけなのだ。
 親の3要求のどれに重点を置くかで教師の仕事は変わる。 さらに生徒の3要求を入れると、 親の要求に合わなくなる。 この教師の複雑な立場をマスコミも文科省も世論も理解せずに、 アカウンタビリティを唱えている。 では教師はどうしたらいいか。 (ささき けん)

  

  

後記
 今回のシンポジウムは、 今までとは少々趣をかえて 「教師」 について焦点を当てた。 この 「教師」 ということばより 「教員」 や 「教職員」 の方がしっくりくる人も多いだろうが、 調べてみたら、 雑誌の特集などでは 「教師」 がよく使われている。 実は、 では教師論が盛んであった。 ただ、 かつてのように教師を叩けばいいという言説は減って、 中身のある議論になりつつある。 今回のシンポもその一環、 ぜひご参加下さい。 (手島)