「教育の再生」 ということをめぐって

武 藤 啓 司 (NPO法人楠の木学園長)

 

1 不登校が提起するもの

 先日、 「星座/状況」 というドキュメントVTRを観る会を持った。 中学2年生の時、 「何で学校なんかに行かなきゃいけないのかな」 という問いに、 「そんなこと当たり前じゃないの」 と周りからいわれて切れ、 登校を拒否してしまったひとりの若者を追跡したものである。 「納得できる回答を」 との切実な願いに、 両親をもふくめて周りの人々から返されることばは、 「お前の考えっておかしいよ」 というものだった。
  「学校とは何か」 という問いは、 必然的に社会とは何か、 人間とは何かという根源的な問いにいたる。 しかし、 意外なことに学校というところには、 そうした根源的な問いへの答えは用意されていない。 周りの大人たちもそうした問いには真面目に答えてはくれない。 そんな彼を受け入れてくれたところは、 精神科 (それがすべて悪いとか、 必要でないというのではないが) というところであったという。 正解のない問いに向き合い、 思索を共有しようとしない大人たちのなかで子どもは方向を見失っているかのようである。
 不登校になる場合は、 必ずしも上記のような、 自ら登校拒否を選んだというケースばかりとは限らない。 いじめや担任とうまくいかない、 学習がわからないなどで、 「行きたくない」 「行かなくてはいけないと思うが、 行けない」 というものから 「自分でも何で行けなくなったか分からない」、 「なんかエネルギーがなくなってしまって…」 というケースまでさまざまである。 行けない自分を責め、 自分を否定的に見るようになり、 さらには周りから 「怠けている」 「逃げている」 「意志が弱い」 などと批判を浴びせられ、 二次的な挫折感や心に傷を受け、 ほんとうに精神科の世話にならざるをえない若者も少なくない。
 不登校・登校拒否の児童、 生徒は年々増え続け13万人を越えたといわれる。 そして 「不登校やひきこもりは病気ではない」 といわれるようになった。 不登校やひきこもりが病気ではないということは医療ではなく、 日常の生活や人間関係のなかでその状況を回復することができるということである。 逆に言えば、 学校に限らず、 今日の社会がその日常生活や人間関係において肝心なものを失ってきているということではあるまいか。  

2 「学びへのシニシズム」 と学びへの絶望

 里見実さんが 「学ぶことを学ぶ」 (太郎次郎社) を出版された。 「教え」 という側からではなく、 「学ぶ」 側から今日の教育状況を見直し、 「学び」 というものが本来の意味と役割を取りもどすことは可能なのか、 またどのようにそれは可能になるのかを、 自分の授業や学生たちとともにタイの農村で生活することなどを通して、 真摯に、 かつ具体的、 実践的に追求されている。
  最近の教育論議では、 「学力低下」 ということをめぐってにぎやかである。 そのことについては以前から佐藤学さんが、 「学力以前の」 子どもたちの 「学びからの逃走」 なのだと指摘してきたことにかかわろう。 にもかかわらず、 相も変わらず指導要領でどれだけの量を<教える>ことになっているかという論議が中心のようである。 それに対して里見さんは、 学生や生徒たちにいま起こっていることは、 「 『学び』 へのシニシズム (冷笑主義) だ」 という。
  「学習にたいする態度が徹底的に功利的というか、 打算的になっている。 学ぶということはテストでいい点を取ること、 そして他人と差をつけることであって、 それ以外の何ものでもない。 成績と結びつけば何でもするけど、 結びつかないと絶対に受け付けない。」 それは、 「内発的な学習意欲の枯渇」 である。 「自分の得になることしかやらない」 というが、 「そもそも自分がない」 という。 学ぶ主体が存在しないのに、 教える量をめぐって論争されているということであろうか。
  そうした一方で不登校やLDなどといわれて、 わたしたちの学園に辿りつく生徒たちがいる。 彼らの場合は、 「学びへの冷笑」 というようなある種、 高みからの距離感や拒否感すら持つこともできない。 彼らにみられものは、 「学び」 によって押しつぶされた姿、 あるいは学びへの 「絶望」 を抱え込んだ姿といえる。
  学園に入学しても、 教室に入っていけず、 職員室や廊下でうろうろしている子がいる。 教室に入るのが怖いのである。 一つには大人のいない子どもだけの世界は弱肉強食のいじめの恐れがある。 でも、 いじめの心配のない教師といっしょという状況でも教室には入れない。 授業が怖いのである。 彼、 彼女にとって授業とは自分の無知をあばかれるところである。 そこは学ぶことで自己を豊かにし、 自分にとってなにがしかの収穫を得るというようなところではおよそなく、 そこは無知である自分の恥をさらし、 時にはそのことで叱責すら受けねばならないところ、 「ダメな自分」 「できない自分」 を確認させられる場であったのである。  

3 自分の構築のための 「学び」 を

 学習を功利的、 打算的にしか考えられずにきた若者も、 わが学園の生徒のように、 学習に絶望感を抱かされてきたものも、 彼らのこころに一歩踏み込んでみると、 本当はみな 「内発的な学習意欲」 = 「学びたい」 という気持ちを持っているのである。
 最初に紹介した 「星座/状況」 の主人公にしても、 「何で学校に行かなくてはならないの」 という疑問そのものが、 主体的な学びへの意志の発露である。
  里見さんの大学での実践も、 学びとは 「モノやコトとの、 本との交渉をとおして自分の世界を構築していく、 すぐれて構成的な行為」 であるという提起をしだいに受け入れ、 やがて 「生きるため、 よりよくあるため、 私は学ぶのだ」 と主体的に受けとめる学生たちがでてくる。 「なぜ学ぶのか」 「どのように生きるかを考えるために学ぶ」 ということをきちんと提起するとき、 じつはそれは学生たち自身が探し求めていた問いであることを発見する。 レジャーランド化といわれる大学の中でも、 学生たちが自分の課題に向かってより深く、 より広く意欲的、 能動的になっていく具体的な姿を示してくれている。
 わたしたちの学園の生徒たちも、 授業から逃げまわりながらも、 恥をかかないで、 納得がいく形でなら、 本当は学びたいのである。 数学の授業で 「数字を見るだけで頭が痛くなる」 という子たちが、 「宿題がほしい人はあとで職員室においで」 という数学教師の呼びかけに、 列を作って並ぶようになる。 ここでは数学の合格点もなければ、 通信簿の評価もない。 打算でも功利でも、 競争でもなく、 「わかることは楽しい」 という。
 だが、 学ぶということは、 たんに何かがわかって楽しいというだけのことではあるまい。 それは 「生きるため、 よりよくあるため」 という主体の形成、 ないし自己の構成ということでなくてはなるまい。 わたしたちの学園の生徒たちの多くが、 バラバラにうち砕かれた己というものを、 もう一度繋ぎ合わせ、 自分の生きる意味と生きる自信とを、 再構築することによってしか、 学びへの意欲も、 新しい知識 (=世界、 他者) を受け入れることもできない。 そんな生徒たちが 「学ぶことが楽しい」 といえるためには、 「どうせオレなんか……」 「どんなことしたってムリ……」 という自分への否定的な評価を覆し、 自分の現実を見すえ、 自分の課題と向き合い、 その困難を引き受け、 乗り越えていくことでなくてはならない。 彼らのその苦闘を支援できるかが絶えず問われる。 今日、 多くの学校の教師にとっても、 決められたものを教えていればいいといってはいられないばかりか、 楽しいことを楽しく教える (それはおおいに必要なことだが) だけでもすまない時代になったのではあるまいか。 一人ひとりの教師が生徒たちの個人的、 根源的な正解のない問いに答える勇気と決意なしには、 一つの教科も教えられなくなっているといったら過言であろうか。

武藤啓司氏プロフィール

武藤啓司氏は、特定非営利活動(NPO)法人である楠の木学園長である。横浜市小机にある楠の木学園はもともとLD傾向及びその周辺にある子どもたちのために設立されたものだが、その後は「現在の教育機関では適切な対応が望めずに悩んでいる子どもたちの学びの場」になっている。シュナイダー教育を専門とするスタッフも複数いる。
武藤氏は長く東京の小学校に勤務し、同和教育を中心に教育実践を積み上げた後、退職して当学園に移った。
編著に「巣立ちへの伴走」、共著に「いのちが深く出会うとき」等がある。

後記
 現在、不登校の小・中学生が13万4000人にのぼったとは文部科学省の調査結果である。不登校調査をはじめて以来、9年連続で増え続けている。不登校といってもその内実は様々であろうが、今の日本で学校に行かないということは簡単な話ではない。そんな不登校を選択する(もしくは選択させられた)子どもたちが集う場として、また、知的・身体的にハンディがある子どもたちの学習の場として「楠の木学園」がある。
 あまりに知られていないことだが、米国にはこの不登校という概念が希薄である。というのも学校に行かないという選択が特異なことにはなっておらず、ホームスクール(自宅学習)が認知されてきているからである。それは、インディペンデント・スタディ(自立学習)といって、授業にでなくても作品がレポートを提出すれば単位が認められる制度が一般に学校にあることも関係する。
 日本の教育改革でこのインディペンデント・スタディ(自立学習)というコンセプトが見当たらないのはなぜだろうか。(手島)