シンポジストからの発信
第10回 教育研究所シンポジウムを開催(2001年11月10日)
どうつくるか「総合的な学習の時間」

 「総合的な学習の時間」が迫ってきています。しかし、まだどのようにしていくか決まらない高校も多いようです。
そこで、当研究所ではこの「総合的な学習の時間」に焦点をあて、教育行政の立場から大杉氏、実際に試行している高校から久世氏、研究者の立場で多くの 発言をされている長尾氏をお招きしてシンポジウムを開催しました。
 本紙ではシンポジストからメッセージをいただきましたので、掲載いたします。


総合的な学習の時間」 の意義と課題

文部科学省  大杉 昭英

1 バレーボール部の練習から 「総合的な学習の時間」 を考える

 「総合的な学習の時間」 について考えるとき、 バレーボール部の練習を思い出す。 まず二人一組でパス (対人パス) をし、 次に一人がボールを打ち相手がレシーブをする練習を交互に繰り返す。 その後、 アタック練習となり、 顧問がトスを上げ選手が次々とアタックをする。 そして6人のメンバーがコートに入りサーブが打たれ、 それをレシーブして打ち返す。 最後に全員でサーブの練習を行う。 だいたいこのような練習となる。 しかし、 これでは試合に出ても勝つことは難しい。 強いチームは、 例えば、 アタックの練習をするときには次のようなことを行う。 顧問がボールを打ち選手にレシーブをさせた後、 すぐその選手にアタックさせる。 続けてブロックのジャンプをさせた後、 すぐにレシーブさせてアタックというように幾つかの動作を組み合わせた実践的な練習を行う。 そして最後に6人のメンバーをコートに入れてライバルチームを想定た試合形式の練習を行うのである。
 強いチームの練習はどこが違うのか。 一般に運動部の練習は実際に試合で行われるプレーを分解し、 パートに分けて練習を行う。 強いチームはパート練習を組み合わせ実際の試合で行うような連続的な動きを身に付けさせ、 最後に相手を想定した試合形式の練習を行うのである。
 

2 「総合的な学習の時間」 をカリキュラムに位置づけることの意義

 それではこのことを学校のカリキュラムに当てはめてみるとどうなるだろうか。 各教科はこのパート練習に相当する。 これまでは各パート (教科等) の内容を身に付ければ生徒自身が頭の中でそれを統合して社会に出て遭遇する諸問題に立ち向うことができると考えられていたのではないだろうか。 しかし実際はどうだろうか。 今求められているのは試合形式の練習に当たるものを学校カリキュラムに位置づけ、 社会に出て遭遇する諸問題に立ち向かう力をつけることである。 「総合的な学習の時間」 の意義の一つはここにあるといえよう。

3 「総合的な学習の時間」 の様々な実践と課題

 各校種で 「総合的な学習の時間」 の実践が始まり、 それぞれ特色ある実践が行われている。 例えば、 高等学校では次のようなものがある。

  • 現代的な課題型 (富山県: 「国際理解」 など)
  • 地域の特色を生かした課題追究型 (鹿児島県: 「屋久島考」 など)
  • 進路関連型 (山形県: 「自己の在り方生き方と進路」 など)
  • 興味・関心に基づく講座選択型 (秋田県: 「人間と科学」 など)
  • 個人研究型 (広島県: 「個人研究」)

 しかし、 実践が深まれば深まるほど様々な課題が生まれる。 教科との関連はどうするか、 指導体制をどうするか、 小学校、 中学校、 高等学校の違いをどうつけるか、 「総合的な学習の時間」 で学びの系統はどうなるのか、 評価はどうするか、 等である。 これらの課題は、 「総合的な学習の時間」 が各学校で活動内容を創造する新しい試みであるがゆえに生ずる。
 様々な課題が生まれるとき、 常に心がけなければならないのは、 原点に戻って考えることである。 「総合的な学習の時間」 が設けられた趣旨とそのねらいは何であったのか、 ということに立ち戻って考えるのである。 この時間、 この授業は 「総合的な学習の時間」 となっているかどうかは、 趣旨を踏まえねらいを実現しようとしているかどうかである。


「総合的な学習の時間」に何を求めるか

県立岡津高校  久世 公孝

● もっと情報交換を!

  「どうつくるか 『総合的な学習の時間』」 に、 現場代表として、 シンポジストをつとめさせて頂くこととなりました。 が、 私に特別知識があるわけでも、 私の勤務校に素晴らしい実践があるわけでもありません。 情報交換のためのメーリングリスト、 神高教総合学習MLの熱心な投稿者であったため、 たまたま教育研究所の方の目にとまったというだけのことです。
  「熱心」 なのは、 演劇部の顧問をやっておりまして、 地区組織の横浜市高等学校演劇連盟で、 「総合的な学習の時間」 にワークショップの方法論を取り入れた表現教育を導入できないかという自主研修に参加しており、 その宣伝に利用させて頂いているからです。 また、 「目にとまった」 のは、 このところ、 私の他に投稿する方があまりいらっしゃらないために過ぎません。 そういう立場での現場代表です。
 新カリ始動が目前に迫っているのですから、 情報交換は重要です。 各県立高一名のMLの参加者がいるはずですので、 もっとMLを利用するべきではと思います。  

● 総合学習は学力低下の元か?

 勤務校では、 カリ編成委員を勤めております。 「総合的な学習の時間」 に関しては、 理念整理→シュミレーション授業→シュミレーション授業の分析→大枠の方向性設定を、 校内研修会を交えて、 01年度一年間かけて行いました。 委員会としては正攻法で検討を進めているつもりですが、 亀の歩みのごとく感じられるようで、 管理職をイライラさせています。
 一方、 委員以外の教職員にはあまり関心を持たれておらず、 学力低下の元凶のようにおっしゃる方もおられます。 学力低下批判は、 授業内容三割程度削減・学校五日制導入に対するもので、 見当違いと思いますが、 手間がかかって時間を圧迫することは確かです。
 時間の圧迫という点から言えば、 そもそも 「総合的な学習の時間」 を、 時間割内の一教科のように扱うことが間違いなのではないかと思えます。 理念整理の段階から気になっているのですが、 「(1)自ら課題を見付け、 自ら学び、 自ら考え、 主体的に判断し、 よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。 (2)学び方やものの考え方を身に付け、 問題の解決や探究活動に主体的、 創造的に取り組む態度を育て、 自己の在り方生き方を考えることができるようにすること。」 (新指導要領総則 「総合的な学習の時間」) とは、 方法であって達成目標でも最低基準でもない。 問われているのは、 授業の方法論、 ひいては、 学力とは何かということです。 授業の改革がなされれば、 「総合的な学習の時間」 などは必要ないとさえ思えます。
 とはいえ、 嫌でも入ってきますし、 家庭科のように 「教科学習の総合」 を担える教科は限られていますので、 授業方法論や学力観を変換する推進装置のような役割の領域とするべきではと考えています。

● 受験学力観からの脱却を!

 少子化もそのボトムに近づき、 トップ校を頂点とした受験競争による学校階層は、 その大部分が崩れてフラットとなるのではと思えます。 私学には、 「ゆとり教育」 批判に便乗して、 受験体制を売りにしているところもあります。 が、 私学の募集計画人数枠がその実績数を遙かに上回る設定をされており (つまり、 公立高は圧迫されており)、 公私全日制実績進学率が全国で下位となっているのが神奈川の現状です。 つまり、 私立高進学については人工的に受験競争が作り出されているわけですので、 公立がその真似をするのは、 あまり利口とは思えません。
 夏休み中に、 勤務校に県教委の改革担当の方が来られて、 「この学校には何の特色もない。」 と批判されたと聞きました。 カリ編成委員として赤面の至りですが、 しかし、 全日制普通科間に差別化が生じるほどの特色が生まれると考えることに無理があると思います。 無論、 現状維持でよろしいとは考えませんが、 改革に導入し得るアイテムは、 その比重のかけ方に違いがあるだけで、 普通科であれば大差はないのではと思えます。 敢えて差異を求めるならば、 地域性であって、 その把握をもととした授業方法、 そこから導き出される学力観であると考えます。 それが生徒の状況と一致すれば言うことなしです。 この意味では、 学区拡大、 ましてや、 撤廃などは行うべきではない。 これは、 公立高サバイバルのポイントでもあると思います。
 授業改革の具体的方法を示唆するものとして、 ワークショップについても記したかったのですが、 既に紙数をオーバーしました。 シンポジウムでは、 よろしくお願いいたします。


高校における「総合的な学習の時間」は赤信号なのか

大阪教育大学 長尾 彰夫

 「総合的な学習の時間」、 小学校は青信号、 中学校は黄信号、 高校は赤信号。 こうしたことがいわれてきたのだが、 あながち、 的外れのようにも思えない。 いやむしろ、 最近では、 いわゆる 「学力低下」 批判のなかで、 小・中・高、 いずれも緊急の赤信号、 といった感すらあるのだが。
 いずれにせよ、 高校における 「総合的な学習の時間」 は大いに先行き不透明である。 おまけに教育委員会は、 形だけでもなんとかカリキュラムに入れようとするから、 一層ワケのワカラヌことになってくる。 先日もある県で、 時間割上は、 環境教育となっている 「総合的な学習の時間」 が、 実際は掃除の時間に化けていたという、 笑い話のようなことも聞いたのである。
 高校の場合、 「総合的な学習の時間」 についてのイメージが持ちにくいのは、 なによりも、 高校の多様さに因があると考えている。 一口に高校といっても、 実際のところ高校は多種多様で千差万別である。 それをひとくくりにして、 高校における総合学習を論じようとするところに根本的なムリがある。
 しかも、 多くの場合、 「総合的な学習の時間」 あるいはそれを活用しての総合学習をどうするのかという、 そのことばかりに焦点があてられている。 「総合的な学習の時間」 の活用であれ、 総合学習の展開であれ、 それらは、 本来、 カリキュラムの全体構造にかかわっての話なのである。 それらの時間をどう配分する、 誰れが担当する、 といった形式上の論議ばかりが行なわれ、 肝心のところが、 抜けおちたままになっているのではないか。 そんな気がしてならないのである。
 「総合的な学習の時間」 の活用にせよ、 総合学習の展開にせよ、 それらが、 それぞれの学校における、 カリキュラム改革、 高校改革とどのように結びつき、 接点を持つのか、 それこそが問われるべきポイントだと考えている。
 もっといえば、 カリキュラム改革、 高校改革が先にあって、 そのなかに 「総合的な学習の時間」 や総合学習をどう位置づけるのかという発想がない限り、 たいしたことにはならないのである。 この発想と枠組みを持たない限り、 あれやこれやのプラン創り、 実践の交流といったことはほとんど意味をなさないのである。
 シンポジウムでは、 このことを踏まえての活発な意見交換、 実践交流ができればと大いに期待しているところである。

後記
 今年の教育研究所のシンポジウムも「ねざす」NO.28の特集も「総合的な学習の時間」である。少々しつこいようだが、この「総合的な学習の時間」をいかすも殺すも取り組みしだいという恐ろしさ(おもしろさ?)があるので、研究所総力で迫ったみた。特にマニュアルもないので思考錯誤するしかないようだが、教科の枠にとどまってばかりいられない。
 ドイツ教育研究会で聞いた話だが、キムナジウムの教師は2教科にわたって専門教科をもつという。まあ、そこまでいかなくても、専門性を高めるためにこそ専門外もいとわずにかかわるというスタンスがあってもいいのかな。(手島)