埋もれた教育の歴史発掘

佐藤秀夫(日本大学文理学部教授)

 

 歴史の研究は一般に、従来隠れていた(「隠されていた」場合もある)史料や、今まで見過ごされてきたモノやコトの持つ意味の史料性などが新たに見出される、つまり史料に新しい視角が導入されることによって、めざましい進展を見るものである。その進展が同時に現在の事象について、確実な相対化と裏付けのある批判を作り出してくれる場合が少なくない。
 ここでは、日本近代の教育について、「知られていない」または「忘れられてしまった」事実の発掘の一端をご紹介して、現在の教育事象のありかたを再考するよすがを提供したいと思うのである。
 

教科書採択プロセスの重要さ

 学校の教科書については、教科書として発行されるまでのプロセスと、発行された教科書を学校で採用するプロセスとの二つの局面が存在し、これはそれぞれに別個の問題を含んでいる。
 従来教育の世界では、前者つまり発行のプロセスが主に注目されてきた。明治初期、1870年代でのどんな書籍を教科書に使っても良かった「自由採択制」、1880年代における文部省教科書統制の始まりとして採用した教書を文部省に届け出る「開申制」(1880年)、さらに採用すべき教科書についてあらかじめ文部省の認可を得る「認可制」(1883年)から、発行予定教科書の原稿を事前に審査する「検定制」(1886年)、そして教科書をすべて文部省編纂に限定する「国定制」(小学校については1904年から開始)、敗戦後の1949年からの検定制への復帰・・・というのが、近代日本における教科書制度の概要とされる。
 ところが上記の「認可制」までは、一般書もしくは教科書としてすでに編集刊行された書物を教科書として採択する制度への規制であって、教科書としての出版については何らの規制もなかった。原稿段階で教科書として適合性が公権力によって審査され、不適切と判断された場合には修正が求められ、教科書としての出版が許されないことがあるという、教科書出版への規制は「検定制」以降のことである。この検定制は、原稿の事前審査を内容としている点からみれば、検閲制そのものといってよい。したがって教科書統制の観点からは、出版規制のプロセスが特に注視さされて不思議ではない。しかし、教科書が学校の授業に使われるようになる手順、教員や子どもたちの手に渡る手続き、つまり採択のプロセスが実は出版のプロセスに直接・間接に関わって、教科書の質を大きく規制している点があることにも留意する必要がある。
 

採択を決める人々

 戦前の教科書制度のもとでは、1870年代の発足当初から、府県単位での「広域採択」がほぼ一貫して採用されていた。小学校の「教則」、カリキュラムが府県単位で編成されており、その教則において使用教科書が指定されていたからである。少なくとも検定制が発足するまでは、その採択手続きは必ずしも明確ではなかった。
 1886年最初の検定制が制定された翌年、文部省は「公私立小学校教科用図書裁定方法」により、教科書の変更や採択を審議するために府県知事が「小学校教科用図書審査委員会」を設置することとした。その委員は次の9人だった。

一 尋常師範学校長若クハ長補〔校長代行〕/ 一 学務課員一名/ 一 尋常師範学校教頭及ビ附属小学校上席訓導/ 一 小学校教員三名/ 一 該地方経済上ノ情況ニ通スル者二名

 小学校教員の代表が加えられていた。また、一教科に複数の教科書を裁定しても良いとした。これは府県審査が教科書採択範囲を意味するに過ぎず、実際の採択には各学校の判断が入りうる可能性を残していた点で注目に値する。
 第二次小学校令下の1891年に新たに「小学校図書審査等ニ関スル規則」が定められ、府県官吏一名や府県参事会員二名など府県行政関係者が加わるようになったが、同時に小学校教員は「三名乃至五名」と増員された(全員総数は9〜11人)。他方、新規教科書は一年生から使用し、それらが卒要するまでの四年間は変更禁止と定められた。1893年には審査委員の「府県官吏一名」が「府県高等官及学務担当官吏各一名」に変更されるとともに「尋常中学校長一命」も加えられ、総数が11〜13人と増えた。小学校教員は「三名乃至五名」と変わりない。
 

府県行政官に限定

 しかし帝国議会筋から教科書国費編纂が提案され始めた1900年の第三次小学校令では小学校図書審査委員の構成が次のように変更された。

一 府県書記官/ ニ 府県視学官/ 三 専任府県視学/ 四 師範学校長/ 五 師範学校教諭二名/ 六 府県中学校長一名/ 七 府県立高等女学校長一名/ ハ 郡視学二名

 総数は10人なのだが、教科書を使用する立場の小学校教員は一切排除されて、府県官吏・各種視学・中学校校長などによりすべて構成された。しかも会長には府県書記官が任命された(従来は互選)。行政行為としての性格が濃厚となったのである。
 審査では一教科に複数種類裁定が明記されなくなり一教科一種類の傾向が強められたうえ、いったん採用された教科書の四年間変更禁止に変わりはなかった。

教科書採択をめぐる贈収賄

 府県行政官10人が密室で採択を決め、しかも一府県一教科一種類方式が大勢を占め、採用されれば四年間不変更となると、教科書会社としては四年に一度の審査委員会で、自社教科書が採用されるか否かが、経営の死命を制することになる。そうなれば、企業の習性として金銭による結果の誘導、つまり贈賄が横行するし、官吏の常としてこれに収賄で応えることになる。教科書裁定をめぐる贈収賄の横行は、検定制の成立した1880年代末から1900年代前半にかけて、教育界における「公然の秘密」となった。文部省は、これに対して結果としての贈収賄行為への罰則強化を行い、1902年にはもし不正が裁判で確定したならば、その会社の発行全教科書の五年間採択禁止を定めた。しかし、不正行為を生み出す基盤である一府県一教科一種類、四年間不変更の制度自体は改正しなかったのである。

自由採択制案と職員会議法制化

 だが文部省が検定制下の採択制度の改正をまったく考えなかったわけではなかった。実は第三次小学校令直前の1898年、かつて民権派だった文総尾崎行雄は議会保守派が主張する教科書国費編纂論を否定して従来どおり民間編集刊行を原則とし、自由競争により質の向上を図るべきだとの観点から、採択をめぐる不正を糾すためには「各小学校ニ於イテ之〔使用教科書〕ヲ定メ」るとする小学校令改正案を閣議に提出した(提出時の文相は樺山質紀。
 これは府県統一採択を廃止し採択者を各小学校とすることにより贈収賄行為を無効とし、また実際に教科書を使用する教員たちに選択権を付与して教科書の質的向上を図る構想であり、当時「自由採択制」と呼ばれたものである。これに関連して、文部省令「小学校教科用図書採用規則」案を作成し、各小学校での教科書採択は、「教員ノ会議」での過半数の意見により決定することとした。「教員ノ会議」を学校の公的意思決定機関として、省令レベルではあるものの、法制化しようとしたのである。
 しかしこの改正案は閣議の承認が得られなかった。売上減少を懸念する大手教科書会社への配慮や教員会議法制化による教員の学校管理への参加を嫌う保守派の反対によるものであろう。こうして不正の基を糾す構想は否定され、先述のように結果への罰則のみが強化された。それは、教科書国定化への契機を作りだした1902年暮れの教科書疑獄摘発への導火線になった。
 もしもこの自由採択制が採用され、職員会議が法制化されれば、その後の日本の教育はより明るい方向へ転回したはずである。

歴史の教訓

 今日韓国・中国など近隣諸国から「歴史を偽る」として指弾されている教科書検定結果と批判されている教科書の採択如何をめぐって、この八月に予定されている採択に関連して一部から、現場職員の調査報告提出を否定し、少数の委員により教育委員会の責任において教科書の採択決定を行うよう提案している向きがある。
 上述の教科書採択詩を省みるならば、教科書に直接関わる現場教員を排除して、少数の人々により使用教科書を決定することは、採択課程を不透明にして新たな「不正」を創出する可能性を含んでおり、かつての教科書国定制化に通ずる危険性をはらんでいると、私は考えるのである。

佐藤秀夫氏プロフィール

国立教育研究所所員を経て、現在は日本大学文理学部教育学科教授。
専門は日本教育史。著書は「学校ことはじめ辞典」「学校教育うらおもて辞典」など多数。
横浜市在住。

後記
 今回、佐藤秀夫氏に原稿をお願いしたのは、氏が日本の教育現象を歴史的視点で見事に構築されているからです。
 例えば、日本では学校が4月から始まるのは高等師範学校と陸軍の人材獲得競争に関連があり、明治前半期までは9月学年始期が多かったこと、修学旅行はその初発が「行軍旅行」だったこと、遠足は連合運動会参加のためにその会場までの往復から生まれたこと、中高一貫教育はすでに大正期には実験済みだったことなど、佐藤氏は歴史的に学校のコトやモノの成り立ちを示してくれます。今回は教科書をめぐる問題を書いていただきましたが、いかがでしたか。
 それにしても次々と出される教育改革のモデルが、実は過去の失敗例であったということなどないように、われわれも歴史的認識を大事にしたいものです。(手島)