多文化教育と高校教育改革

中島 智子(プール学院大学)

 

1.はじめに

 多文化(教育)という用語は、今日ではかなりポピュラーになってきている。「多文化共生」は最もよく見られる日本型バージョンだが、「多文化理解」などの表現にも出会うことがあって、これには頭に中に?が出てきてしまう。筆者が多文化教育に出会ったのは20年近くも前のことだが、この20年間の日本社会そしてとくに教育現場の多文化化(以前なら国際化といっていただろう)にともなって、少しずつ多文化教育の概念は浸透してきたようである。ただ、せっかく市民権を得ようというのに、中途半端な理解や誤解があっては、その力を有効に生かすことはできない。そこで、それを高校教育改革との関連で考えてみよう。
 

2.「多文化」、「異文化」、「国際」と「理解」

 最近見かけることがある「多文化理解」という用語が何を意味しているのかは定かではないが、こういう用語が出てきたのは、「異文化理解」や「国際理解」という既に定着している用語から発想されたのであろうということは推測できる。結論から言えば、「国際」とは国レベルの、「異文化」とは個人レベルの、「多文化」とは集団レベルの、関係や理解や葛藤が問題とされる。そして筆者個人の見解をいえば、「国際理解(教育)」や「異文化理解(教育)」は一定程度定着しているものと見なしても、「多文化理解(教育)」をそれに並ぶものまたは代替可能なものとして考えることには無理があると思う。ましてや、多文化教育は「多文化理解(教育)」で置き換えられるものではない。
 「国際理解教育」とは国と国の関係に注目するので、例えば日本とブラジルの関係をとりあげたり、日系ブラジル人の生徒が在籍する場合に、その生徒の出身国文化であるブラジル文化について日本人生徒が学ぶプログラムが考えられる。このとき、その生徒の文化がたとえ出身国の中でマイノリティであっても、マジョリティ文化で代替されてしまう危険があるし、そもそもある個人の存在を国レベルでとらえる荒っぽさを持っている。誰しも外国に行ったとき、自分が国を代表するように扱われたり振舞う羽目になったときに、とまどいや躊躇する気持ちを抱くだろう。
 「異文化」は、個人間のまたは個人内部に焦点が当てられる。自分海外の状況に身を置いたとき感じるのは、「異文化」という実感である。また、「異文化理解」といったときには、対象の文化が一国の文化かある集団の文化かはあまり意識されず、文化間の権力関係を意識することもない。さらにこのときの文化は、外国や異民族の文化を指すだけでなく、「いまどきの子どもは異文化な存在」とか「東京と大阪は異文化」というようにも使われる場合もある。
 「多文化」とは、一国内の社会に存在するマイノリティ集団の文化を意味するのが一般的である。そこには、先住民や多様な人種・民族集団とともに、障害者や女性、高齢者、社会経済的集団、同性愛者などが含まれ、いわば社会の主流(メインストリーム)から排除されやすい人々の集団を指す。もちろん、マジョリティ側の白人集団や男性集団も含まれるという考え方もありうるが、それらを批判的に見ないで対等の集団のように並べてしまうことは、問題であろう。というのは、多文化教育には集団の権力関係への視点を避けない立場があり、関係性の中で見る視点が重視されるからである。
 こう考えてくると、「多文化」に「理解」が安易につくものではないことが少々は納得されると思われる。「理解」はなんと美しい言葉。まるで対等であるかのように、すぐにでもそれが可能であるかのように、幻想を生む言葉である。しかも、「文化」を「理解」すればすべての問題が解決するかのような幻想は、どこから来るのだろうか。そもそも国際的な民族紛争も、国内の例えば在日外国人が抱える諸問題も、文化が異なるから生じているのか、双方に文化理解を進めたら解決するものなのか。本当の原因ではないものを口実にしているだけではないのだろうか。
 

3.多文化教育とは何か

 「多文化(教育)」が誤解されやすいのは、北米大陸やオーストラリア、ヨーロッパで生まれて普及してきたが、日本ではその基本や原理を知ることのできる翻訳書や研究が極めて少ないからである。筆者は今、アメリカの『多文化教育辞典(仮)』を仲間たちと翻訳しているところで、今年中には出版される予定である。この翻訳作業が手強いのは、見出し語の範囲がアフリカ系アメリカ人研究やバイリンガル教育などで収まらずに、障害学やフェミニズム、セクシュアリティの概念や用語、さらには他者性からヴォイス、社会正義までをカバーしているからである。そこには、文化の違いを理解し合えばよいとする楽天的な言説はない。その代わりに、平等と公正の違いが論議される。人種や偏見や文化や階級が批判的に定義される。
 以前に筆者の講演レジュメの中の「多文化教育」が、誤って「他文化教育」と漢字変換されていたことがあり、これをエピソードとしてよく言及するのだが、「多文化教育」を多くの文化を教えることだろうと思っている場合には、この違いはあまり意味がない。この多くの文化とは他文化のことだからである。文化を自文化と他文化に対照させて、他文化を理解する対象と見るこの視点には、文化と文化の背後に権力関係を見る視点も、自文化への批判的視点もない。学校という場は、一般に政治的に中立であり、文化的には日本的であるということが政治的でないということだと信ずるほど、我々はナイーブなのだろうか。
 すなわち多文化教育とは、異なる文化を持つ者同士が互いに理解し合って仲良く暮らすことをめざす教育ではない。異なるとはどういう状態をいうのか、などを批判的に問いながら、学校や社会が文化的にも構造的にも公正であることをめざす教育である。であるから、学校はそのための力を生徒につけるだけではなく、学校や教育システムそのものが批判と考察の対象とされるのである。「異文化」な生徒の文化だけが問題になるのではない。学校の持つ文化がまず問題となる。学校は、すべての生徒が自己の能力の最大限を発揮できるように、たゆまぬ改革と努力をくり返さなければならない。
 

4.多文化教育と高校教育改革

 以上のように、筆者の多文化教育の理解は、学校改革と結び付けて考える立場である。その点については筆者の編著『多文化教育―多様性のための教育学』に詳しいが、多文化教育と高校教育改革についても、この本の中でオーストラリアの例を示している。そこでは3校を事例として紹介しているが、それをもとに日本の現状から考えてみよう。
 新渡日の生徒にとって、小学校・中学校・高校と学校階梯を上がるにつれてそのハードルが高くなる。小学校には何とか登校していた者も、中学校になって教科担任となりその内容が難しくなるとドロップアウトするケースが見られる。そして高校となると、日本ではまず入学できるかどうかが大きな問題である。欧米などの国で、義務教育年齢が16歳までなどと年齢で決められ中等教育学校としていわば日本でいう中・高一貫である場合には、高校入学という問題はない。
 次にこのハードルをクリアできたとして、新渡日の生徒や家庭の言語文化背景が学校文化と異なる生徒が、その学習環境を自らの学力の伸長とこれからの進路への準備に向けて最大限に活用できるためには、どんな課題があるだろうか(たとえば知的障害の生徒などの受け入れについても似たような課題があるが、ここでは新渡日や二世の場合に限定して述べる)。
 オーストラリアの例では、まずESL(第二言語としての英語教育、日本では日本語教育ということになる)のクラスやプログラムは結構長く多様に設定されている。早く主流言語を覚えて一般クラスに入ることがいい、とだけ考えられているのでもない。基本的な読み書きだけができても、それで高度な教科学習についていき、将来に備えることが保証されるわけではないからだ。何度も言うが、学校教育の目的は一人一人の生徒に最大限の学力をつけることなので、みんなと同じクラスに座ることが個々の条件に応じて落ちこぼされることを意味するなら、それは教育の平等ではない。ただし、それがスティグマとならないように、取り出し授業より入り込み授業が重視され、学習すべき教科内容を重視した教材が工夫される。
 また、現在注目されている総合的学習のようなものは、言語学習と教科学習と進路学習を組み合わせたような形で行うことが、生徒たちの学力と意欲を高めるだろう。例えば、拙著で紹介している英語(日本では日本語)と社会科を統合させて、生徒の母語または外国語も活用したバイリンガル教育をも試みる例である。また、英語以外を母語とする生徒のための通訳・翻訳コースも紹介しているが、これは保護者や地域の病院などで通訳をしたり翻訳について学習するもので、生徒が持っている資質や能力を学習面で活用し、それが地域社会で生かされる方法を示すだけでなく、親子間のコミュニケーションギャップを埋める方法としても有効である。
 以上、例に挙げたのはわずかだが、このようなプログラムは、生徒に学力をつけるだけでなく、セルフ・エスティームを高め地域や保護者と結びつけることを可能とするが、そのためには、学校はカリキュラム全体を見渡した改革をもとめられる。また、教職員間の協働がさらに必要とされるし、新たな人材を広く求める必要も出てくる。大変なようだが、総合制高校や総合学習の方向を探る今日の動向とは整合性を持ちやすそうである。そういう意味では、今の日本の学校の状況は、多文化教育を取り入れるチャンスともいえる。多様な生徒に対応した教育を、そのように公正で柔軟なシステムのもとで提供できるのかが期待されている。

後記
「研究所ニュースねざす」の2000年度最終号をお届けする。今回は、大阪府堺市のプール学院大学の中島智子さんに、「多文化教育」に関する理論的なアプローチをしていただいた。ともすれば曖昧に使われる「国際理解教育」や「異文化理解教育」との違いを明確に整理してくださった。前号では、相模原での外国人の子どもたちの現状を北村さんに書いていただいた。今回と合わせて再読していただければ、私たちが、これからの高校象を考える際の貴重な視点や実態を理解することができると思う。
 中島さんが本文で言及されている『多文化教育』という本は、当県民図書室にも在庫がある。『多文化教育と在日朝鮮人教育TU』(全朝教ブックレット)などの大変読みやすい「多文化教育」理解を深めるための本も何冊かあるので、是非ご利用いただきたい。(山梨)