児童精神科医からみた教員のメンタルヘルス

横浜市大医学部附属病院小児精神神経科 竹内 直樹

 

教員のメンタルヘルスを考える前に

 世間がさわがしい。17歳少年の事件報道が相次いだ。数年前の神戸児童連続殺傷事件では、加害者が14歳の中学生であることに世間は衝撃を受けた。人々の動揺がさまざまな表現を求めた。好奇心によってインターネット上に写真が載り、家庭や職場で、人々が「悲惨さ」を語ることで、何も解決をしないままに雲散霧消していった。今回は偶発した個別の事件をレッテル貼りの時代らしく、センセーショナルに「17歳」でくくった。事件の度に、今の青少年に抱く親世代の危機感や不安が露わになる。
 世間には漠たる不安感があり、何かの事件をきっかけに容易に感情的に結集する。モノに溢れて育ったゲーム世代の「17歳」の気持ちの不可解さと時代特徴を結びつけて解説した専門家もいたが、一人一人の個別性を軽視し自説の「近頃の子ども」観を披瀝しただけである。その論の正否よりも、その性急さ自体が不安に陥った心の防衛である。子どもの問題は、当事者の子どもよりも大人が過敏に反応し過ぎている。しかしこの小文が読まれる頃は、この騒ぎも「他人の噂も」式に化すのであろう。落ち着いて考えることが大切だ。

困っているのは誰か

 一人の生徒の問題を考える時には、それが教員にとって困ることか、当事者である生徒が困るのか、親が困るのか、個別にはっきりさせたい。中退の問題、あるいは不登校の問題等、高校生の学校問題は、誰が最も苦しいのかが判らないことがある。担任も辛いが、中退する生徒も辛い。中退が悪であれば、当事者の生徒はそれを引きずりさらに悲しみは増す。しかし中退は見方を変えれば、新たな生き方の旅発ちでもある。生きている限りの生涯教育の出発点でもある。
 職場を離れても、生徒のことにとらわれているのは、心が疲れているサインである。子どもの疲れが、親を疲れさせ、また担任の気持ちをも巻き込む。生徒の心を性急に把握したい、問題を理解したいと固執するのも不安の裏返しである。相性や性別もあり、担任だけで背負いこまないほうがよい。自身の内なるあるべき「教師像」の要求水準を下げて、開き直ることを勧める。

当事者のニーズに寄り添う

教員や医師は、情報産業の一端を担う指導的側面もあるが、対面サービスと同じ役割も担う。当事者である生徒や患者のニーズに敏感に対応していきたい。不登校や高校中退の問題でも、たとえ高校で際だち顕在化したとしても、伏線の歴史的経緯がある。高校生のメンタルヘルスにおいても、入学前の小・中学校の情報は欠かせない。一人の個別例を丹念に追って「半自叙伝」の軌跡を把握して欲しい。そのような謙虚に関心を寄せる姿勢は、苦しい当事者への支援にもなる。分析や解決ができなくても、判ってもらえた他人の存在は大きい。ニーズに敏感であって欲しい。逆に専門的な勉強に邪魔されて机上の空論に陥ることは悲しい。眼前の生徒に寄り添いたい。

「学校」の境界を越えて

 高校は学校教員だけで守るのではなく、保護者はもちろん、卒業生や中退生の先輩にも参与する機会があって欲しい。学校に集う人が、相互に時に支え合う関係が学校のメンタルヘルスの基本である。学校は時間的にも空間的にも拡がりたいものだ。阪神大震災の折りは、避難先となった学校が如実にそれを果たした。
 逆に職員室だけでの対応や理解では、自己完結的に留まり苦しくなる。あるいは重荷のあまりに誰しもが孤立感と徒労感を募らせる。生徒の問題を学校内の問題に留めて解消しようと試みても難しい。生徒の学区域も広く小学校の場合とは異なるとはいえ、高校の教員も地域に開かれた存在であって欲しい。また困った生徒に対しての社会的支援のシステムとも連携することが必須と思う。生徒と多面的に関わり続けるシステムがあれば、生徒の試行錯誤も受容することができる。地域にはフリースペース、メンタルフレンド、ハートフルフレンド等のさまざまなボランティアも存在する。さまざまな社会的資源も活用して欲しい。
 学校内で問題になった生徒の地域での暮らしかたを知り、またその後をフォローしていくことは重要なことである。それが学ぶべき新たな「教育」の必要性や視点と出会う機会にもなる。そのようにして得た情報を集めて、眼前の一人の生徒を理解することは、多くの生徒の問題とどこかで関連することにもなる。当事者から学ぶことは常に基本である。

自己完結的に考えないで、問題をシステムの転換点と考える

 教室で荒れる児童を抱えた担任から、「教師の苦しさは誰にも判らない」と嘆かれたことがある。自己完結的に独りで抱えて煩悶する教員である。その子の親や兄弟、あるいは地域の苦労を共有する余裕すらない。当事者の担任が、そのように思い込むのは被害的な心性に陥った証である。また親が教員を非難する場合もある。親子の二者で「煮詰まった関係」で暮らせば、怒り、虐待に苛まれることもある。孤立をしたときにこそ支援が必要なのに、周囲とうまくやれなくなり悪循環に陥る。担任だから、親だからといった肩の力を抜くべきである。そして生徒に関わる双方が、問題発生の初期にこそ時間を十分にかけたい。釦の掛け違いが生じれば、その修復には倍以上の時間とエネルギーを要する。
 親と担任はある意味で似たもの同士でもある。その意味で非当事者である同僚、問題から少し離れた距離をもった人たちとの事例研究の場が職場にあれば、教員自身のメンタルヘルスが随分と楽になる。他人に語ることで、自身のこだわりがほぐれてくる。問題の生徒にも問題だけではなく、健康面があることに気づくし、養育困難にみえた家族にも、そうせざるをえない人間の業のようなものがあるのを知ることにもなる。このような当然のことが見えてくる。
 さらにいえば問題を抱えることは悪ではなく、「問題が無い」と言い切ることはそれ自体が不自然なことである。生徒の問題、あるいは教職員が生徒のことで悩んだときにこそ、システムを変えるべき萌芽が見出されたと考えれば、何ら恥ずべきものではない。

精神病への間違った思い

 教員の精神障害の発症率は高いものと思い込んでいたが、意外なことに逆であった。療養休暇あるいは休職者数の統計によれば、精神・神経関連の発生数が極めて少なく、0.5%前後である。教職員の年齢からみて好発しやすい気分障害に限っても、一般には3-5%という頻度であるが、それよりも遙かに低い。精神病の報告はさらに少ない。多くは「抑うつ状態」や「自律神経失調症」とあったが、これは精神病の呼称を隠していると思われる。精神障害による不調の教員を同僚にもつ嘆きも聞くが、そのような経験から精神障害者は慢性化、あるいは厄介者に位置づけられてしまうのか。一過性に経過し軽快する精神障害は多いが、そのような経験は同僚にも隠される。その結果、慢性化の患者のみが耳目を集め、精神障害は「治らない」という風評がくり返される。しかし重篤といわれる精神分裂性障害であっても、3分の2は社会復帰を遂げている現在の実態を知って欲しい。さらにいえば残りの慢性化して「治らない」人にこそ、排除ではなく社会的支援は必要とされる。愛することの反対は無視することと、ある宗教家は指摘したが、治らない生徒や同僚にこそ、関わりが必要とされる。社会との連携がなくなったとき、たった一通の儀礼的な年賀状にさえ安堵する患者もいる。精神病への偏見はさまざまで、講演会で医師の私も向精神薬を服薬することもあると言うと、場内に苦笑が生じたことがあった。
 また次のような経験をしたこともあった。精神的な問題を抱えた生徒を抱え、「親は精神科医療に理解がなくて困る。私こそ先生の世話になりたい」と嘆く教師がいた。生徒の問題に関しても堂々巡りをして把握しがたく、疲れ切った表情をみて真摯に精神科通院を勧めたところ、感情的になられたのに驚いた。自身でも病感もあるのに、医療にかかるほど「自分のどこが悪いのか」と詰問してきたのである。

漠然とした疲れ感

 狭義の意味での精神障害は少ないのに、過酷な職場という教員の嘆きの背景は何であろうか。ある統計によれば小学校教師の3分の1は職場を辞めたいと嘆く。それほどの不適応職場なのに大量退職者が出ない実態がある。教員のなかに漠然とした充実感の乏しさが漂っているように思える。学校が抱えている職員の特異な年齢層がある。中年層を中心にした職場において、生き甲斐と呼べるものの喪失、あるいはそれまでのやり方や経験が通用しない難しさが生じているのである。
 教職員とくくらずに、個別の名前をもった人間として嘆きを披瀝しあえばよい。高校でも、全日制普通高校と養護学校ではその職員の嘆きは違い、また年齢や体力、性別、両親の療育、ご自身の家族の問題など、さまざまなことが投影されているはずである。「漠たる」気分を具体的に述べ合う場所が必要である。ある意味で当事者同士の自助グループともいえる。
 教員に「疲れ感」を質問したときに気になることがあった。「学校が荒れている」関係者はもちろん、荒れていない学校でも、「未だ経験していないが、明日は我が身かもしれない」と漠然とした予期不安にかられているような気分がある。1980年代は校内暴力が全国を席巻したが、その頃を経験したベテランも、この実体のない予期不安にかられて嘆く。
 昔と比べて今を憂う。しかしどの時代にもプラスとマイナスがあるもので、絵に描いた理想の時代や家庭も学校もありえない。現場はどの時代であれ常に矛盾や問題と出会う。上手に手際よく切り抜ける術はもっていなくても、問題に関わること、その過程こそ全てである。完璧な生徒操作法などを求めること自体、不自然で歪んだ心性である。近頃流行の響きもある「心のケアー」や「心の教育」も正しいマニュアルというものはなく、それを求めていく過程にこそあるものと私は思う。

精神医療の受け方

 医療を選択するのは悩みを抱く当事者の権利であり、医者が病気と断定するものではない。病気か否かの二分論ではなく、医療支援が益か否かの視点がより重要であり、自分自身がより良く生きる支援(ウエルビィーング)の一つとしてメンタルヘルスがある。睡眠、食欲、そして自分の感情や疲れに素直になるのが広義の医療における健康への入り口である。だからこそ教員だから健康になるべきではなく、その体調の把握と互いの思いやりを示すことがメンタルヘルスに繋がる。
 「気は心ではない」ことも力説をしたい。気分障害の代表でもある「うつ状態」は周囲からの理解が得難い状態でもある。不眠を伴い、注意集中が困難になり、不安感で苛まれ、ときに職場を休みがちになり、午前中は意欲が低下する。自身もその周囲も「頑張れば」、「気分転換でも計って」と促すが、悪循環のようになる。そのうちに周囲は「サボり」とみなし始める。普段からサボりたがる人は気分障害には陥りにくいという皮肉もある。抑うつ状態になる人は、病前は真面目で自責的な性格の人に多く発症する。そのような人に気の持ちようと安易に思うことは当事者には辛い。精神医療も視野に入れながら、元気さや睡眠・食欲・身体愁訴など体調の調整に努めて頂きたい。

心の休養

 身体を休める、肝臓を労る、この術は知っている。しかし心を休ませるのは難しい。
 担任としてよりも、人間として抱く感情やホンネを隠蔽しないで、職場内でくつろげる居場所が保証されるようになって欲しい。自助グループや当事者の会には、その側面がある。逆に職場内の人間関係がきしむときは、生徒の問題はさらに教員の疲れを増す結果になる。
 「青い鳥」は自分の足下にこそいるのかもしれない。自身の生き甲斐や初任の夢をもう一度思い出すのも一助である。非常勤講師での経験だが、国内留学で出会う職場を離れて大学生に戻った中堅教員の晴れ晴れとした姿をみると、中年期における自分自身のリフレッシュが必要な実感を強く抱いた。ぜひ心を休ませることに真摯に取り組んでいただきたい。ご自愛下さい。

 

《あとがき》

 学校は新年度の慌ただしさから一応のおさまりを見せている頃だろうか。とはいっても、例年通りに様々な問題が噴出してきているのかもしれない。  更に、行政からの圧力が、「高校再編」問題やその他の諸問題でも強くなっている現状からは、否が応でもストレスは増していく。こうした中では、勤務することの辛さも日増しという状況だろうか。
 今回執筆していただいた横浜市立大学医学部の竹内直樹さんは、教育センターなどでの教職員対象の研修会で講演をされたり、私の職場の教職員研修会にも来ていただいたことがある。臨床経験が豊かな氏のお話は、分かりやすく、真摯なものであった。
 今回の内容も、私たち教職員にとっては、何か肩の荷が下りるような内容である。これを読んでのご意見やご感想を研究所にお寄せいただければと思う。
 なお、今号からこの冊子の名称を「ニュースレターNEZASUから、「研究所ニュースねざす」に変更した。タイトルと実態がそぐわないこと、安易なローマ字表記を避けたことが主な理由である。これまでの名称がある程度定着しているだけに、若干躊躇したが、諒とされたい。

(2000/6 編集担当 山梨 彰)