電話の向こうのアジア
1999年9月、東チモール・デリィーから電話が入った。緊張した声の背後に銃声が聞こえる。併合派の民兵たちの銃声だ。住民投票で独立の道を選択した東チモールの人々に、インドネシア国軍と併合派民兵が無差別殺戮を開始した。その銃口は国連の選挙監視団にまで向けられ始めている。外国人がつぎつぎとデリィーを去り、報道陣が撤退を始めた。国連の関係者も離れることになった。
電話は、緊張した日々の動きを絶え間なく日本に伝えてきた。チャーター便に乗らないとそのまま取り残されるのではないのかという不安、銃声の激しさがその不安を倍加させる。しかし、襲われている人々を残したまま去ることはできない、ぎりぎりまで残ってこの事態を世界に向けて発信しなければという使命感、そのジレンマが伝わってくる。恐怖の中で踏みとどまりながら、電話の向こうの若者は、最後の最後まで粘って、最終便で東チモールをあとにした。国際的監視の目が届かなくなった東チモールでは、焦土作戦を開始した民兵たちが、破壊の限りをつくした。殺され、家を焼かれた人々は、オーストラリアやインドネシア領西チモールへと避難し始めた。多国籍軍が投入されて、東チモールは新たな段階に入った。12月17日、540億円(3年間)の国際援助が決まった。
緊迫した情勢をリアルタイムに伝えたのは、携帯電話やインターネットである。襲撃の様子が瞬時に日本に、世界に伝えられた。危険を冒して回したビデオの映像が、数日後には日本でオンエアーされている。インドネシアの東に位置する小さな島の独立闘争が、世界の耳目を集め、独立を後押しする世論が改めてつくり出された。20数年に及ぶ住民の運動があったことはもちろんだが、こうした機器を駆使した新たな情報の流れも無視できない。英語やインドネシア語を駆使した日本のNGOの活動家たちによる情報は、BBCやCNNなどの報道と遜色がないどころか、時にはそれより詳しかった。政府の自衛隊機の派遣を批判するだけでなく、言い出す前に、市民が平和救援の素早い動きをつくりだした。これは、日本で緊迫した事態を同時進行で見守った人びとへ一日に何回いや何十回も情報を送り続けた活動家、20数年におよぶ東チモールとの連帯運動にかかわってきた人たちなどの思いが一つにまとまってからだ。自分たちの手でチモールの人々を救援するために「市民による平和救援プロジェクト」が立ち上がった。食料や医薬品を送るという具体的な活動が始まった。コソボやクルドの難民を支援してきたNGOがこれを支援する。日本の市民とアジアの人々との新しい連帯の形が作られていく。彼らは日本政府に対しても、インドネシア政府へのODA供与をストップするように働きかけもした。
東チモールの独立、それを支援する日本のNGO―――アジアではいま戦後に作り出された国民国家の枠を越えようとする動きが強まっている。
分離独立を求める人びと
分離独立を求める人びと、それを弾圧する政府──東チモールに限らず、フィリピン、スマトラのアチェ、イリヤン・ジャヤなどアジアの各地で人びとが戦いを続けている。
1998年8月、イリヤン・ジャヤの州都ジャヤ・プラを訪れた。顔見知りになっていたホテルの従業員が殺されていた。町の給水塔の上に、独立の旗を掲げた人たちを、夜明けにインドネシア国軍が襲撃し無差別銃撃をおこなったのである。遺体は海に捨てられた。死者の正確な数は今も分かっていない。半年後に現場を訪れた私たちに、人びとは声を潜めて状況を語った。給水塔はペンキでカモフラージュされていたが、弾痕のあとが生々しく残っていた。
恐竜の形をしたニューギニア島、この島がお腹のあたりで真っ二つに分断されているのはどう見ても不自然である。東をかつてはイギリス、オーストラリアが支配し、西をオランダが支配していた。今、東側はパプア・ニューギニアとして独立したが、西半分はインドネシアがオランダから「解放」した。初代大統領スカルノの「イリアン解放」の叫びは、1950、60年代のアジア・アフリカの輝かしい動きの中で記憶されている。このとき、イリアン「解放」に乗り込んだのが、二代目大統領であり、1997年に失脚したスハルトである。
ジャカルタの町の中には、「イリアン解放」の像が建っている。大地に足を踏ん張り、両手を空に向かって突き上げ、大声で叫んでいる
荒々しい若者の像は、オランダの最後の植民
地イリヤンを奪い取るというインドネシアの強い意志が込められている。
1945年8月17日、インドネシアは独立を宣言し、49年12月には完全にオランダから主権の委譲を受けたが、オランダは西パプア(イリアン)は手放そうとしなかった。イリアン「解放」は、インドネシアの完全独立という象徴的意味が込められていたのである。だが、これは必ずしも住民が望んでいた形でなかった。ニューギニア島の分断は、植民地支配の名残りである。代わってインドネシアとくにジャワ人が支配するようになったと住民はいう。
戦後、私たちは、オランダから独立したインドネシア国家の輝かしい姿を見てきた。だが、「ジャワ人の支配はいつ終わるのか」と尋ねられたことがある。もう20年近く前のことだ。まだインドネシアの独立が輝かしく語られている時だった。それだけに、この住民の問いかけがずっと棘のようにひっかかっていた。インドネシアの独立が、ジャワ島以外の人びとに何をもたらしているのか、植民地、日本軍の支配からの解放に喜んだ住民の思いは、いま次の段階に来ているように思われる。東チモールをはじめイリアンやアチェのこの間の激しい動きは、独立への熱い思いを伝えている。植民地からの独立をかちとり、国民国家の建設をめざしてきてインドネシア共和国はいま、混沌とした状態が続いている。インドネシアに限らない。アジアは、再び大きく揺れ動き始めている。
アジアへの賠償と安保
敗戦後、日本軍が撤退したアジアでは、独立の戦いが続いた。中国では国共内戦が、38度線で分割占領された朝鮮では統一への苦闘が続いていた。17度線で分断されたベトナムでは、フランス、アメリカとの戦いが1975年まで続いた。日本がかつて「大東亜共栄圏」と称して占領支配した地域は、1945年8月15日で戦争が終わったわけではない。日本軍が壊した植民地秩序を再構築しようと乗り込んできた旧宗主国との戦いに、人びとが血を流していた。そして、独立をかちとった後は、新たな国家建設に苦闘した。行政機構を確立し、植民地型の経済から抜け出すことは容易ではない。統治されてきた人びとが多くのマイナスの条件を抱えながらの出発である。
1952年4月28日に発効した「対日平和条約」(サンフランシスコ講和条約)で、日本は再び国際社会に復帰した。条約には領土や賠償条項がある。明治以降、いくたの戦争で領土を拡張してきた日本の版図は、日清戦争以前のそれへと縮小された。朝鮮も台湾も日本から独立した。戦勝国が敗戦国に賠償金を要求することは、これまでも日本がやってきたことである。当然、日本に賠償の支払いが要求される。だが、結果的には、日本は賠償と呼べるような賠償を支払っていない。アメリカの強い働きかけで、一部の例外を除いてイギリス、オーストラリア、オランダなどが賠償を放棄したのである。例外はアジアの四国(ビルマ、南ベトナム、フィリピン、インドネシア)である。のちにラオス、カンボジアなどにも、準賠償として経済協力を行っている。だが、交渉の過程で、賠償額が引き下げられただけでなく、役務と生産物の供与の形を取った支払い方法が決まった。すなわち、二国間で決まった賠償額の中で、日本は相手国から要求される機械を製造し、インフラ整備などを行う。このために必要な資材の輸入にあたっては、要求する国が外貨を支払う。装置の据え付けやメンテナンスに出向く日本人の費用も賠償額の中から支払われる。賠償金額が、相手国に渡されるのではなく、日本企業・日本人に支払われる。このため外貨での支払いはない。この方式は、貴重な外貨を使わずにすむ、これまでの技術力を活かし、生産力をつけることができる、日本の経済復興をうながすと、日本にとってはいいことづくめだった。そして、この賠償支払いが、平和条約締結後に日本企業がアジアに進出していく先導的な役割をになった。政府や役人は、安堵の胸をなでおろしたのである。
生産物と役務による賠償の支払いという方式は、このように貴重な外貨を使わない、技術力・生産力を復興させる、アジアへの進出の手がかりとなるなど、日本にとって「一石三鳥」にも「四鳥」にもなった。戦後日本の復興が、朝鮮戦争やベトナム戦争などによる特需にあったことはよくいわれるが、これに無賠償と賠償特需をつけ加える必要があるだろう。厳しく賠償をとりたてれば、日本の生産力は昭和の初期の水準にまで下がると言われていた。これをアメリカに思いとどまらせたのは、極東における冷戦の激化である。アジアの反共の要、アメリカは日本をそのように位置づけた。アメリカの「不沈空母」となった日本の各地に、米軍基地がおかれた。この「賠償」のあり方と「安保」は、コインの裏表の関係にあるといえるだろう。
ソビエットが崩壊し、冷戦構造がくずれるなかで、日本のアジアへの賠償のあり方が問い直され始めたのである。つぎつぎと起こるアジアからの賠償要求の声は、日本の戦後の問い直しを迫っている。そして、そのアジアでもまた、戦後秩序を問い直す住民の動きが活発になってきた。
21世紀、アジアでは国民国家の枠を超える人々の動きが加速されていくだろう。そして、日本は他民族の共生する社会へと変わらざるをえないだろう。
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