シンポジウムに寄せて〜シンポジストから
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「県立高校改革推進計画」の不思議
県立田奈高校 本間正吾
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八月に公表された「県立高校改革推進計画」を、多くの新聞は、県立高校「削減」計画として報じた。県立高校の「削減」を正当化する理屈は、こうである。2006年をボトムとして、少子化(中学卒業生の減少)が進むはずである。少子化が進む中で、いまのままの公立高校数を維持すると、学校の規模は小さくなりすぎてしまう。そうなれば、個々の学校の教育条件は悪化するだろう。だから、学校数を減らさなければならない。こんな理屈である。
もともと、学校の規模と教育条件が、ストレートに結びつくものではないと思う。とはいえ、99年の中学卒業生77,424人が、2006年には、63,000人にまで減少するという具体的な数字を出されると、この理屈にも一応うなずかざるをえないだろう。だが、ここから先にすすむと、首を傾げざるをえなくなる。2006年の中学卒業生数は、99年に対し 81.4%である。とすると、公立高校の第一学年のクラス数は、99年には 1,268あったのだから、それに81.4% を乗じて出る1,032 が、2006年の常識的な数値になるはずである。ところが、計画の上で示された2006年のクラス数は 973である。これは99年に対し76.7% である。つまり、中学卒業生数の減少率よりも、公立高校のクラス数の削減率の方が、より大きく設定されているのである。この差の59クラスは、6クラス規模校、10校にほぼ相当する。とすると、今回発表された県立高校、14校の「削減」は、本当に必要なものだったのだろうか。どうして、ボトムの時期に、公立高校が入りにくくなるのか。理屈が分からない。不思議である。
また、今回発表された計画は、「削減」「統合」する学校名を明記するとともに、新しくつくられるはずの個々の学校について、基本方針を定めた計画も添えている。事情を知らない人が、この計画を見たならば、これは現場との協議を繰り返す中で、作成されたものだと思うだろう。どんな系列の選択科目をおくか、どんな特別教室をつくるか、どんな生徒指導、進路指導の体制をつくっていくか、現場の意見を聞かずに、計画をつくることなどできるはずがないと思うのが普通である。だが、この計画は、現場のまったく与かり知らないところでつくられたものである。子どもたちについて、もっとも的確で実態に即した知識をもっているのは、現場の教職員である。その意見を聞くことなしに、机上で計画をつくっても、良い結果が生まれるとは思えない。どうして、現場の声を聞かずに計画をつくろうとしたのか。これまた不思議である。
こんな不思議な計画が、神奈川の高校を大きく変えようとしている。どうしたら、この不思議の国から抜け出すことができるのか。シンポジウムにおける議論に期待したい。
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高校再編計画について
県立寛政高校 梅本霊邦
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別に驚きゃしませんが…
「百校計画」で新設された高校のいくつかを県当局は生徒の急減に対応して漸次廃止する計画らしい、おそらく寛政もそのプランのなかに含まれている。そんな噂が、そもそも私の職場ではここ数年まことしやかに囁かれてきた。職員会議の場など機会をとらえては校長が県当局の学校再編構想に言及し始めたころから、特に既存の学校の統廃合の可能性を示唆するようになった昨年あたりからは、寛政の存廃にかかわるいろいろな憶測や意見が教員の会話のなかで日常的に語られるようになっていた。朝日新聞がリークされた高校再編の前期計画を他の新聞を出し抜いてこの8月に特ダネのごとく報じたが、新聞の記事それ自体には特段驚くほどの内容はなかったと思う。 寛政と平安両校の統廃合を含む高校再編の前期計画について、私の職場ではこれまでのところ反応はおおむね冷静である。県当局の公式発表を待つまでもなく、両校の統廃合はある程度まではだれしも予想できたからなのだろうか。ただ、両校の統廃合と新校(総合学科)の立ち上げに向けた今後の実務作業に関しては、「いったいだれがやるの?」といった戸惑いが職場全体のムードとしてあるように私には思える。「冷静な反応」と言ったが、今回発表された再編計画に対しては「全体的に冷めている」と言ったほうが職場の状況を適切に表現しているかもしれない。統廃合計画を遂行する当事者意識は今のところ希薄に見える。そう言う私も今ひとつ気持ちが乗らないのだが、それは多分、私の年齢のせいだろう。高校再編よりも、実は自身の老後に向けて今後の生活のことがより気がかりなのだ。
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えっ、寛政がなくなる…
寛政がなくなったら、寛政が引き受けている生徒達はどこへ行くのかな。横浜東部学区での寛政の存在理由が解っていたら、県当局も寛政をつぶすことはないだろう。寛政をつぶせば、学力的にその直近にある別の学校が寛政がこれまで担ってきた役割を引き受けなけりゃならないし、それっていろいろ抵抗があるよ。中間層の学校にしてみれば「百校計画」のプロセスで確定した学区内での序列は、現状いろいろ不満があっても、とりあえず崩したくはない。あわよくばこの再編計画を機会にランクを1つでも2つでも上げようと考えるだろう。あえてランクを落とそうなど、まして底辺にまで落とそうとは絶対に思わないはずだ。県当局は存在理由のはっきりしている一番上(翠嵐)と一番下(寛政)はそのまま残して、たぶん中間層(鶴見〜平安)での統廃合を考えるんじゃないのかな。そのほうが話は簡単だ。「特色ある学校づくり」という命題もあることだし、中間層のほうが「特色」もつくりやすい。ことの善し悪しはともかく、高卒を求め中卒を受け入れないこの社会の状況が根本的に変わらないかぎりは、とにかく受皿としての高校はないと困る。高校再編に関して、実はそれが私個人の予測であった。
果たして公表された高校再編の前期計画は横浜東部学区で最下位にランクされる寛政・平安2校の組合せを発表したが、新聞記事のなかに「平安存続、寛政廃止」の字句を見たときは正直言って少々憮然たる思いだった。が、よくよく考えてみれば、・存続とは施設設備の存続、廃止とは施設設備の廃止にすぎず、・「平安存続、寛政廃止」とは実際、寛政を平安に移転させたうえでの総合学科導入であり、・平安がこれまで受け入れてきた生徒層はその直近上位にランクされる新羽、城郷に吸収する、と読めないこともないのだ。それこそ私の推論通りだ。だったら、はっきりそう言えばいいものを、と思ったが、県当局も関係各位の心情をそれなりに配慮したってことなのかもしれない。あまり勝手な深読みはするな、って?でも、実質きっとそうなるね。
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本当はどこへ行くのかな…
寛政・平安2校の統廃合計画については、<寛政は平安に吸収され実質なくなる>とする受けとめかた(寛政廃止論)がある一方で、<寛政と平安は単純に合併されるだけ>とする受けとめかた(寛平合併論)や<否、寛政もなければ平安もない、まったく新しい高校をつくるんだ>とする受けとめかた(新校設立論)など、その解釈はいろいろだ。寛政・平安2校の統廃合は、・生徒数の急減に対応して高校を減らし、・学校不適応や学習疎外など今日の深刻な教育課題に対処するために総合学科を新設するのが狙いであると単純に納得してしまえば、横浜東部学区にあって「全日制普通科」としての役割をもてあましてきた寛政・平安両校の統合によってこれら2つの目的が比較的容易に果たせると考えた県当局の判断は一応妥当だと思える。が、計画を策定した県当局が総合学科導入に期待するものが本当は何なのか、私にはまだはっきり見えてこない。
総合学科導入が、いわゆる「課題集中校」の抱えているさまざまな問題に真剣に取組もうとする県当局の決意なのかどうか、その辺のところは正直言って半信半疑だ。「課題集中校」の存在そのものをただ否定するだけの総合学科導入であればまったくのナンセンスだと私は思うが、今後、寛政・平安両校の統廃合を具体化していく過程で寛政・平安両校のいろいろな思惑が新校設立の基本方針にどのように絡んでくるのか、その辺も大いに気になるところである。学区の底辺から脱却し「課題集中校」との訣別を図るのか、学区の底辺に留まって「課題集中校」としての役割を今後も地道に担っていくのか、さて、どちらを選択するのか。いずれにせよ、寛政・平安統廃合計画のそこが一番の注目点だと思う。
と言いながら、頬を撫でる秋風にふっと溜息をついて、意向調書に転勤希望を認める私なのだ。ごめん!
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フレキシぶる高校
県立川崎南高校 高村史朗
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