見捨てられ抑うつとしがみつき、荒れ

三吉 譲

 
  • ある相談

     今年の2月に高校(通信)の先生方と、生徒の直面する心の問題について話し合う機会がありました。そこで、時間を問わない自宅への電話にはどうしたらよいか、という相談がありました。私の自験例を話して、受信専用の携帯電話を持たれることを勧めました。
     しかし、そのようなプラグマチックな返事だけでよかったのだろうか。大切なことを話し忘れていなかったのか、とずっとひっかかっていました。この相談は根本的な問題を提起していると考えられるからです。

     

  • 「おんぶじじい」

     日本の民話で、道端に衰弱してうずくまっているお年寄りがいた。可哀想に思っておんぶしてあげたところ、背中にしがみついてきて、倒れるまで離さなかった、というのがあります。
     これはしがみつきといいます。助けようとする者にしがみついて、それが共倒れになろうともしがみつきをやめない状態です。あるいはそういう性癖を持った人物です。
     ただし、不用意に断ると本人は容易にうつ状態に入ります。イギリスのボウルビィは、WHOの依頼で調査を行い、孤児院の戦災児童を観察し、乳幼児期に母或いは母にかわる人物から切り離された乳幼児は、深刻な心身の発育障害を来すことを1951年に発表しました。(1)以来、従来はないと考えられていた子供のうつ病が実は多いことが見出されたのです。子供から思春期に多いうつ病は、身近な人物との関係が切れることで発症することが多い事がわかりました。長年月依存できる環境ではじめて成長できる人類は、依存環境に支障が生じると、様々な精神・身体疾患を来たし易くなるのです。
     子供より大人への過渡期である思春前期に、身近な人間関係の断絶が影響し易く、うつ病が発症し易くなります。子供から前思春期は、大人とも違い、腹痛・頭痛等の身体症状が前景となることが多いので注意しなければなりません。勿論大人と同じような内にこもるうつ病、不安が強く、まわりにしがみついたり荒れるうつ病もあります。 
     ここでは不安が強く、しがみつくタイプの人達のことを述べてみたいと思います。指示をすると、益々依存的となり、しがみつきを断ろうとすると自傷や自殺企図、精神不穏等になり、断ろうにも断れない悪循環に入って、アルコール依存症の家族がともすると陥り易いいわゆる共依存の状態になります。ついにかえるあてもないのに数百万円貸してしまったということもおきます。不幸にして事故になる人もいます。
     このように限度がない状態をしがみつきといい、そのような人物を「おんぶじじい」というのですが、人間だけにみられる現象ではないようです。
     動物では、鹿は狼がいないと増殖がとまらず、木芽を食べつくして生態系を破壊する所まで行き、植物では竹は限度をしらず増えつづけるといわれます。
     広い意味では、自然な関係性が壊されたあとでの、悪循環の自己破壊性の関係とはいえます。

     

  • 見捨てられ抑うつ(2)

     思春前期〜思春期は、本人にとって大切な人間が「去る」と感じ、或いは考えるだけで容易にうつ状態に入ります。たとえば私は精神科開業医ですが、あるうつ病の高校生を診察していて、よくなってきたので2週に1回の診察を1月に1回にしたところ、イヤな気持になってうつ病がぶり返してしまいました。別の高校生も長野県からはるばる母と共に診察にくるので、近医を紹介したら、自殺未遂を起こしてしまいました。こういったことがあって、私が思っていた以上に若者は見捨てられ抑うつが生じやすいと考えるようになりました。
     そしてこのような敏感さ、不安定さを青春の一時期だけでなくその後も長く引きずる人達がいるのです。

     

  • しがみつき

     不必要に遠慮したり、かと思うと無防備に相手も自分も破局するまでしがみついてきたり、近しい人間との距離のとりかたが下手なのも若者の特徴と思います。見捨てられ抑うつと同じく、その不器用さをその後も長く引きずって、結局何物にもかえがたい人間関係を壊してしまい、さびしい後半生を送る人もいるのです。そのことに耐えられず遂には自死する人もいます。  
     この状態の者に対して、我々はジレンマに立たされます。「ある相談」はこのことだと思います。ではどのようなかかわり合い方があるのか、それをみていきましょう。

     

  • 対応1〜指示型
       (パターナリズム、父権主義)(3)

     日本を始め、文化的後進圏に多い対応は指示型です。
     「知らしむべからず、依らしむべし」との江戸時代の封建領主がとった施政原則がありますが、この通りで、まず情報をしゃ断します。次に管理に都合のよい情報だけ与えて指示しつづけるのです。従わないと厳罰をかし、従うとちっぽけなほうびを与えて、洗脳しつづけます。それでもいうことを聞かないと収容所に収容したり、抹殺したり放逐する。全体主義国家、オウム等のカルトを始め、○○党などの民族主義・全体主義政党でとっています。見捨てられ抑うつとしがみつきを含め、全てに「洗脳」で対処するやり方です。依存⇔指示は、無限の悪循環に入り、遂には消耗品として扱われたりして破滅してしまいます。
     医療ではパターナリズム(父権主義)といわれ、患者は医師に「何も知る必要はない、まかせなさい。治しましょう」といわれ、おまかせすると、消毒液を注射されて死んだり、とりちがえられて手術されたりといった医療事故がひんぱんにおき、悪質な場合は、エイズ事件の阿部英前帝京大副学長にかかっていた血友病患者のように、死ぬとわかっている人体実験をされたりします。おまかせしていると結局このような破局に至ります。

     

  • 対応2〜自律(オートノミイ)(3)

     先進文化圏では、ベトナム戦争を大きな節目として、ゆっくりと主流になってきました。情報の制限を取り払い、各人が必要な情報を自ら得て、自ら判断し、自己責任で行動するやり方です。本人が主体で、それを援助するのが行政、教師、医師等の仕事になります。
     日本ではたとえば教育をみても、内申書の一方的決定とその隠ぺい、カルテの非公開が主流で、議論は始まったばかりです。周知のように日本では指示が中心です。教育という言葉自体も「上に立つ教師」が「教え、育てる」ということで、パターナリズムは健在です。医療では、最近ようやくインフォームド・コンセントがいわれはじめましたが、国際水準の治療が情報提供され、実施されるべきなのに格段に遅れています。
     ジレンマとしては、長く指示−被指示の関係にならされていると、国民にも指示される者という思いこみがあることです。それによって成り立ってきた社会であるが故に、「どうしたらいいですか教えて下さい」と指示を求めてきて、逆に何かあるとすぐに管理責任を追及してきます。私のところでも、安定した状態と考えて、6週間分の薬を出したところ、夫と口論の末、その夜自殺未遂で薬を大量に服用してしまい、「何で6週間分も薬を出した」と日頃めったに来ない夫が文句を言ってきたことがあります。勿論夫と妻が借金をめぐって煮つまっていたことをよく知らなかったのは事実ですが、幼児ではあるまいし、本人ないし家族が相談してこないのに動くことはできません。神様ではないので、本人が「大丈夫です、順調です」と言い、顔色等もよければ信用してしまいます。パターナリズムになれた人は、医者に全能幻想を持つ一方自己責任がわからなくなっているので、繰り返し全能幻想の誤りを指摘し、自己責任を明確にする必要があるという反省をしました。
     ここで、指示は、指示される側にとっては本質的に自己への攻撃であると考えておくことが大切と思います。
     指示−被指示の関係では、絶えず自己への攻撃を受けている受動的な自己にとどまり、様々な状況に対応できる柔軟な人間が育たず、マニュアルに書いていない状況の変化で容易に破綻することになります。現在の日本の行き詰まりは、バブルを見抜けなかったという末梢的な知の問題ではなく、体制や組織に忠実で自己を喪失し去勢された人間=イエス・マンが増殖し、官僚・企業・大学等にあふれ実権を握っていることが主因で、指示型の後進国システムの破綻と言えます。 
     医療をみても、欧米で何年も使われてきた標準的な医薬品が百種以上も日本では認可されず、有害無益の日本でしか使われない国産医療品が何千億もの医療費を浪費しつづけているという事態が続いていますが、産学官の実権は、イエスマンが握っており、現在も一昔前の古い水準の所が多いためさっぱりらちがあきません。(4)
     ここまで考えると、依存⇔指示の悪循環で破局に至っている状況の突破口がみえてくると思います。
     家族の相談でよく受けるものがあります。「子供が、どうしたらよいかと意見を聞いてくるので、こうしたらという。そうしたら、おまえの言う通りにしたからこうなった。どうしてくれるんだ。と荒れる。どのようにしたらいいんでしょう。」
     まず、本人は指示を受けたがるが、指示は嫌いという複雑さを理解しなくてはなりません。なぜ指示を受けたがるか、自信がなく、どうしたらよいかわからないから指示を求めてくるのです。なぜ嫌いか、指示は自己という主体に対する攻撃、脅威だからです。自己が不安定なものが自己へ攻撃を受けると腹を立てるのは当然のことです。
     指示を求めてくる本人のうわべ、本人のペースにのってはなりません。本人は不安で焦っているが故に指示を求めてきて、指示を受けて自己は更に脆弱となり、不安さ、焦りは更に高まってしまうのです。
     私は次のように答えています。 
     「つとめて指示はしないこと。本人の話をよく聞くことが、全てです。本人が自ら話す中で状況がみえてくるので、本人の気持ち・考えの整理を手伝う。そのような整理の中で本人が自分はこう思うとまとめたら支持する。」
     本人がまとめた内容が困ったこと(刑事事件につながったり人間関係を破壊する)の場合、こちらも困りながら、そのことが法に触れるという現実的展開や別の可能性をともに考えていく。基本は解答を出すのは本人で、まわりはそれが出るまで、「困った」と一緒に困っておくことです。良くしようとしないのがよいのです。(5)まわりが解答を出すのは、本人への攻撃、主体の剥奪になるので原則としてひかえねばなりません。
     それでも期日が迫りどうしても決定しなければならぬ時は、世間の見栄とか打算とか捨てた上で、本人のためだけを考えて「自分ならこうするけど」と必ず「自分なら」を付け加えて控えめに意見を言う。
     本人が解答を出せない事は沢山ありますが、とにかく解答が出るまで保留にし、待つ姿勢でいるとあとは時間が解答を出してくれます。本人にとっては相談にのってもらい、一緒に困っている人がいるだけで救いとなるのです。
     このやり方は時間がかかり、実現までには様々の紆余曲折があります。苦労は多いですが、人生の意外性という思いがけない喜びもあります。見捨てられ抑うつを示す人には、指示を控えて苦楽を共にし、時を、そして人生の意外性を信じるというやり方が一番よいと思います。攻撃性がこちらに向かった場合は、成長の節目と考えられ、それを受け入れる忍耐が必要です。(6)そういう悪戦苦闘をくり返しながら、自分自身がより大きく生きることが大切で、このやり方で長い時間をかけて、自分の良い所を伸ばして生きていける人間が自分を含めて育っていき、全体主義とは反対の多様な個人を大切にする生き方につながっていくでしょう。

     

  • 私のクリニックで

     開業して14年になりました。
     現実にどれだけできていて、どのようにしているでしょうか。病気の発病或いは再発時は急性期といいますが、病気の増悪をくいとめて治癒に向かわせるため適切な指示が必要です。ただし、急性期はある期間で終わり、回復期を経て社会復帰となります。多くの受診者を短期間でみるとなると、情報を出さないで、指示だけが一番楽と言うことになり、自覚しないと、指示だけでそのままいく事になり易いのです。かくて日本の医療保険下では医者は権威的・指示的となり易いのです。特に精神科医がそうです。自覚をしなければ、流されて、パターナリズム医者になっていくのです。この点は自覚と、それに奮い起こされた努力・工夫しかないと思っています。
     私も最近まで多忙きわまりない生活を送り、14年目にして診療時間を一時間短縮し、少し余裕を作りました。私が依存性防止と自律促進のため注意している点は、
     
    (1) 情報は、日本の医療は精神医学では、10〜30年遅れているので、英語文献をまず読む。翻訳されてからでは10年は遅れる。まず自分の認知を高める。
    (2) 知った情報は、待合室に出して、受診者・家族に自ら勉強してもらう。私のクリニックは様々な本・情報があります。
    (3) 指示は急性期にとどめ、それ以降は控えて、できるだけ自己責任で決定してもらう。
    (4) 投薬は急性期をすぎると必要最小限に個人個人にあわせて減らし、或いは止め、薬物依存=病院依存を減らしていく。処方薬名と能書きは自己管理してもらう。
    (5) 受診間隔は、本人と相談し希望を聞きながら、見捨てられ抑うつを起こさないように、週2回→週1回→2週1回→……→8週1回→12週1回→16週1回と徐々に伸ばします。1年〜3年に1回受診という方もいます。それはよい事です。次のピンチの時に早めに来られれば。
    (6) 職員を含め自宅の電話は教えない。当初は公開していましたがやめました。緊急時には相談室のケースワーカに受信用携帯電話を持ってもらい、必要に応じて、連絡により、本人の自宅に私が折りかえし電話をする。これは私の健康状態がからんでおり、昨年より施行しました。

     なお、今話題になっているカルテ開示ですが、ふみきると治療方法を含めて革命的にかわるだろうと思います。私のクリニックでは本人カルテと家族カルテを分けていますので、プライバシー保護はクリアされていますが、何せ多忙で、カルテの字が汚すぎて自分でもよく読めないことがあり、また説明する時間がとれません。
     将来午前診療のみにして大幅に診療時間を減らせば可能となると思います。日本では内観法というすぐれた治療法が戦前よりあり、本人主体で記録(カルテ)を作るやり方で、単なるカルテ公開よりははるかに進んでいます。私もやるとしたら認知療法等を取り入れ、交換カルテのような形をやってみたいと思っています。まだやれる内に踏み切りたいものです。

     

参考文献
(1) ボウルビィ『母子関係の理論』岩崎学術出版社(1976)
(2) マスターソン『青年境界例の治療』(1979)、
見捨てられ抑うつとしがみつきについての精神医学的考察。
(3) 熊倉伸宏『臨床心理学』(1994)、
パターナリズムとオートノミイについてのアメリカの状況等についての報告及び考察。
(4) 「効くのに日本で使えない薬100種以上」、『週刊朝日』1999.6.18
(5) 村田由夫『良くしようとするのはやめたほうがよい』寿青年連絡会議精算事業団、1992
(6) 「自分が頼り愛するものを攻撃しても相互の関係が生き残る強さと修復力をもっていることを
体験することがないならば…」鈴木龍『「永遠の少年」はどう生きるか』人文書院(1999)、203頁

 

(みよし ゆずる 神経科・内科 三吉クリニック)

 

退学していく子どもたち

小畠 由紀子

 この5月に一人の女子生徒が、6月には、一人の男子生徒が、学校を辞めていった。二人とも、入学して間もない1年生である。不登校が続く彼らを心配し、担任たちは、本人と話し合う一方で「小畠さんに今のいろいろな想いを聞いてもらっておいで」とカウンセリングルームを紹介した。昨年度もこのようにして、数人の生徒が来室している。
 さて、担任に伴われ来室したA君は、顔色も悪く、見るからにつらそうだった。彼は、クラスの友人関係に悩んでいた。初めての挫折であったようだ。「商工生」であることに誇りを持ち、入学当初は、人一倍張り切っていたA君。しかし、「最初から飛ばしていてどこか心配だった」と話す教科の先生もいた。クラス内の疎外感から逃げたい気持と、高校生活や学業への未練との間で、揺れ動いていた彼であったが、徐々に気持の整理をつけていった。「退学し、一日も早く出直したい。」これが彼の出した結論なのだ。
 一方、A子さんも、新しい環境になじめないまま、退学の気持を固めていた。担任も私も、もう少し時間が欲しいと焦った。説得するのではなく、彼らに、逃げずに自分を見つめてほしい、その時間が必要だと思ったのだが。「自分の性格を変えたい」というA子さんは、心理テストに大変乗り気であったが、結局、予約は全て、キャンセルとなってしまった。またしても、力及ばず、時間切れ……。
 その後の担任たちの落胆ぶりを、彼らはきっと知ることはないだろう。来室する生徒の中には、「辞めたい」を一度は口にしながら、それでも自分に向き合い、不登校を経験しながらも乗り越えていく、そんな生徒も何人もいる。「辞めたことに自信のもてるような生き方をしたい」というA君の言葉を、今は信じ、そうであって欲しいと願わずにはいられない。

 

(おばた ゆきこ 県立商工高校スクールカウンセラー)