この4月にスタートする「改正」雇用均等法においてセクハラガイドライン作りを含む抜本的な対応を迫られている企業にとっては、セクハラ問題は最大のジェンダー・ショックというべきものであったと思うが、同様のことが今教育の場でも起こっている。「混合名簿」問題や「男女共習家庭科」、特に「混合名簿」はこれまでの公教育の場で疑うことなく慣行化されてきた「男女別・ボーイファースト」の名簿の「常識」を根本的に問い直しを迫ったという意味において、教育の場にまさにジェンダー・ショックを起こしたというべきであろう。
とはいえ、戦後の教育の場では「男女平等」教育は、憲法および教育基本法の理念のもとにすでに一貫して取り組まれてきたはずだし、学校という場面こそ一般社会のどの場面よりも男女平等理念が行き渡っているはずという見方が根強くある。そうした中では男女別名簿の慣行にまで異を唱えるジェンダー・フリー教育の主張には、教育の場にいらぬ混乱を招くものという反発や、瑣末主義という批判が少なからずあることも予想される。しかしそれは「ジェンダー・フリー」という言葉が「男女平等」と同義でとらえられているからであって、実はジェンダー・フリー教育は、戦後の「男女平等教育」に絵深く内在する「男女特性論」として登場している。「男/女」というジェンダーによるグループ分けが性差別の原因となっているとする認識を前提にしているのだ。「男女別」という形で性別の区別を持ち込むことと、「ボーイ・ファースト」すなわち「男子優先」の慣行とが同時に批判的に問われている。そのような文脈で見るならば、混合名簿問題はジェンダー・フリー教育にとって決して瑣末な問題ではない。しかし教育現場では、かなかなそのような理解が浸透しにくい。何故「分けること」「区別」が「差別」の原因なのかという疑問や、もし男子湯銭に問題があるなら、女子優先にすればいいという反論もある。しかし女子優先ではなく「混合」なのである。なぜなのか。以下、現在進んでいる「ジェンダー・フリー教育」はそれを推進する国際的な背景があることと、戦後に日本の男女平等教育に本質的な課題を提起していることに触れたい。
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