-
余裕を失った大人たち
未熟な若者は、ときに逸脱することがある。これが大人の常識だった。それがいつの間にか、若者も大人と同じようにお行儀良くしているのが当たり前と考えられるようになった。
若者だけのことではない、もっと下の世代への対応も大きく変化している。子どもが病気になったり、ケガをしたり、社会への不適応を起こしたりすると、親は「損をした」と思う。子育てを“引き算”で考えるのである。昔は、子どもが成長して何かできるようになると、それをそのまま喜んだ。ところが、今日では、どの子も生まれたときには100%で、子どもが何か問題を抱えると、マイナス20%、30%といった具合に引き算で数えるようになっている。大人は無自覚なままひどく欲張りになってしまっているのである。子どもとしては、たまったものではないだろう。
大人は子どもや若者を未熟な存在として余裕をもって見守ることができなくなっているのである。いや、昔は余裕があったと考えるのは間違いだろう。生活に忙殺されて、若い世代へ関心を向ける暇がなかっただけのことだろう。その結果、子どもや若者は放っておかれたのである。ただ、もしそうだとしても、昔の大人は、子どもや若者が未熟な存在であり、そのせいで彼らがときに逸脱することがあることを承知していた。このことを忘れてはならない。
-
大人の身勝手さ
大人の意識が変わった理由の一つは、日常生活において若者の相手をしたり、面倒をみたりする機会を失っているからである。いくら鈍感でも、日常普段に若者と接していれば、彼らの未熟さをある程度理解するようになるはずである。ところが、今日では、そのような機会は極めて少なくなっている。
その代わりに、若者の相手をしたり、面倒をみたりする役割は、もっぱら学校に任されている。このことは次のようなエピソードからも分かる。毎年のように高校中退者の問題がマスメディアで大きく取り上げられている。なるほど、中退者の増加は歓迎されるべきことではないとしても、高校進学率が97%を超える状況をみれば、ある程度の中退者が生まれるのは仕方のないことではないだろうか。統計的な事実のレベルでみれば、入学者の全員がそのまま高校生活を終える方が不自然なことである。それにもかかわらず、盛んに中退者問題が話題になるのは、大人が若者を学校任せにしていることのあらわれではないだろうか。
学校とは、地域社会や家族の支えによって成り立つものである。「先生の言うことは聞くものだ」という大人の教えによって、子どもは学校へ通い、学校は支えられてきた。ところが今日では、大人の無関心によって、学校はそのような支えを失っている。支えを失って四苦八苦する学校はもはや限界にきている、といっても言い過ぎではないだろう。
-
居場所の役割への期待
大人は、若者に対して極めて冷淡な態度をとるようになっている。その冷淡さは、昔の大人の場合とはちがって、ひどく屈折したものである。
例えば、若者がコンビニエンス・ストアの前や公園などにたむろすると、「何か悪さをしようとしているのではないか」と過剰に反応する。大人の過剰な反応によって、学校に連絡されたり、警察に通報されたりすることも珍しくない。
若者の成長のためには、大人の目を離れて自分たちだけで集まる仲間集団はなくてはならないものである。とりわけ10代半ばは疾風怒涛の時代であり、この時期には大人の手による直接的なはたらきかけには限界がある。彼らが自分たちで組織する仲間集団こそ、成長のために必要不可欠な役割を担っている。ところが、大人の屈折したお節介によって、そような条件が奪われることになっているのである。
その一方で、大人は、ショッキングな事件が起きると、その場しのぎの行政の対策に同調する。学校における持ち物検査などは、その代表だろう。信頼関係を前提とすると学校の性格からして、持ち物を警察のように取り締まることなどできない。当然、持ち物検査は形式的なものになる。その結果として、担当させられた教師は無力感を覚え、生徒は教師に対する不信感を増幅させることになる。
かつて地域社会には、空き地や駄菓子屋、高校生のたむろする飲食店などの居場所があった。子どもや若者は、そういうところで、学校とも家庭とも異なる自分たちだけの人間関係を経験し、成長のための糧としてきたのである。しかし、それらは急速に減少している。コンビニエンス・ストア、公園、ゲームセンター、そしてターミナル駅の広場などは、それに代わる彼らの居場所と考えることができるだろう。また、携帯電話やパソコン通信などの電子メディアも同様の役割を担っているとみることができる。しかし、どれだけの大人が、このような新しいタイプの居場所に理解を示しているだろうか。
地域社会の公共施設のロビーなども、中学生や高校生の居場所になっている。しかし、彼らがたむろして、喫煙の問題が生じたり、トラブルが起こったりすると、排除されてしまう。考えてみれば、公共施設にやって来るような若者は、かわいらしいものである。地域社会の暴力化を考えれば、彼らの存在は歓迎されるべきものである。それにもかかわらず、大人は、それでさえ許すことができないらしい。
-
地域社会における様々な試み
最近、数は少ないが、公共施設において、若者の利用をすすめるところが登場しているのは、地域社会の深刻な状況を考えれば、当然のことである。
例えば、これまで小学生の施設と考えられていた児童館のなかには、中学生や高校生の利用を積極的にすすめるところがある。また、公民館などのなかには、改築の機会に音楽スタジオを増設してロックバンドの練習ができるようにするところもある。ある公民館では、大勢の中高生がたむろしてトラブルを起こすようになったために、ロビーを一時期閉鎖したが、そのあいだに職員が役所主催のイベントへの参加を誘ったり、住民が地域の夏祭りの実行委員会への参加を呼びかけたりして、彼らとのあいだの人間関係づくりをすすめたという。十数人の中学生がたむろして煙草を吸ったり、騒いだりしたことをきっかけに、小中学校の教師、PTAの役員、地域の行政委員などが集まって、彼らを排除しないように確認したところもある。
一方、これまでとはちがったタイプの若者のための公共施設も誕生している。その代表的事例が、1997年9月に開館した「ゆう杉並」(杉並区児童青少年センター)である。この施設は、18歳以下の青少年を想定したもので、広いロビーをはじめとして、体育館、音楽スタジオ、調理室、パソコンゲームの部屋、ホールなどを備えている。施設構成とともに、とりわけ注目されるのは、計画の段階から「中高生委員会」を組織して若者の意見を反映させてきたことである。開館後は同様の組織が施設運営に関わっている。
いじめや不登校、引きこもり、少年事件をきっかけにして、若者の居場所となることを期待された公共施設への住民の関心は高くなっている。「ゆう杉並」の見学者が、開館9か月で200件に達したことからも、そのことは分かるだろう。わたしも行政委員などの立場で行政施策の検討や住民活動の相談に加わっているが、どの地域でも具体的な動きの一歩手前のところまですすんでいる。
-
職業教育への期待
若者の居場所の一つとして、職業教育の施設も視野に収めておく必要があるだろう。
ある料理専修学校では中卒者や高校中退者を積極的に受け入れて親身の指導をするとともに就職の面倒をみている。身近なところにこのような学校があれば、上級学校へ進学しなければならないという強迫観念も、幾分か解消されるのではないだろうか。
職業教育を通して若者の面倒をみる施設は、この種の学校だけのことではない。建設業などの技能職(職人)の世界では、後継者養成を意図して職業訓練校をはじめとする職業訓練施設を設けて、熱心に指導を行っている。また、障害者施設などの社会福祉施設では若者のボランティア活動やスタッフとして働くことに理解を示している。
このような職業分野の場合、必ずしも恵まれた雇用条件が備わっているとはいえない。その点で楽観的になるわけにはいかないだろう。しかし、幸いなことには(といってよいかどうか)、経済情勢の変化によって、これまで就職のお手本とされてきた大手企業や役所の勤め人も安閑としていられない状況が生まれている。
このような教育資源に対して教職員が関心を向けるようになることが期待されるのである。もちろんそれが期待されるのは、教職員だけでない。地域の大人が着目して、行政機関などを通して若者に情報提供をするなどの活動をすすめていく必要がある。
いずれにしても、このような学校教育を支える条件の整備によってはじめて、学校もその役割を担う
ことができるようになるのである。
(ひさだ くにあき 教育研究者、神奈川大学講師)