学校の行事と自治
─所沢高校問題に寄せて─

神田 修

 

1学校を越えた「学校行事」問題

 埼玉県立所沢高等学校の入学式、卒業式をめぐる動きは、ひろく人々の関心を集め大いに注目された。同校ではこれまで行われてきた日の丸、君が代抜きの入学・卒業式が、昨年から新たに赴任した学校長によって、それを認めないという方針のもとで対立的となって起こった事件として報じられている。今年の入学式にあたつては、学校長が入学生の保護者あてに入学式に出席することが入学の必須条件であるかのような県教育委員会からの文書を出すに及んで、事件は学校(教職員、生徒父母)を越えた教育行政権がらみであることが明らかになった。
 この事件は、教育活動としての「学校行事」、とくに「儀式的学校行事」をめぐって大きく問題化した事例であるということができるが、同校ではこの行事を、父母を含む学校構成員全体が合意して実施してきたという経緯があるようである。その意味で、学校への生徒・父母参加を含む地域学校の自治が実現していたことが注目される。それだけに、この一連の動きについては、その実態をよく調ベて、客観的、多面的に考えてみる必要はあろう。ただ、実状が次第に広く明らかにされつつあるとはいえ、その詳細を知る者ではないので、小論では、上述のような学校の自治に注目する見地から若干の論点、問題点について少しく考察するに止めたい。

2保護者に送られた文書

 この問題の所在を象徴的に示したのは、前記の学校長から新入学生の保護者あてに送られた文書である。本年3月31日付の同文書の趣旨は次のごとくである。まず、第@「学校で行う儀式的行事は、学習指導要領では、特別活動の学校行事のーつとして明確に位置づけられており、入学式は、各学校が儀式的行事として実施すべきものであります。」とし、第A「高等学校への入学は、『校長がこれを許可する』と学校教育施行規則に定められておりますので、校長は、入学を許可する儀式である入学式において、入学許可候補者に対して入学の許可を行う必要があります。」とする。その上で、したがって第B同校の「生徒となるためには、入学式に出席し、校長の許可を受けなければなりません。」というものであった(子どもの人権と体罰研究会編『学校の自治を豊かに・所沢高校の事例を通して』『母と子』1998年7月臨時増刊号51ページ)
 この文書は、一見して明らかなように、第@と第Aの理由から入学を許可する儀式である入学式に出席し、校長の許可を受けなければ入学できないかのような文脈となっている。ただ、この文書で前代未聞と言ってもよいのは、このような条件を満たさなければ入学できなといったこと、入学選抜を終えて入学を目前にする子どもを「入学許可候補者」などと表現していることなどある。もっとも、学習指導要領が儀式的学校行事を規定していること、及び学校長が入学を許可するという法規定があることは、そのとおりで間違いはない。しかし、そうした規定じたいをどう捉え、解釈し、これをどのように運用するかは一義的に決まっているわけでは決してなく、学校の自治の見地からは、まさにそのあり方が問われているのである。そこで、第Bの結論が当然に導き出されるわけでもないことに留意しなければならない。 

3学校行事の意義と特徴

 「儀式的学校行事」もそのーつである教科外活動としての「学校行事」は、各「教科」が主としてその学習を通じて能力発達をめざすのに対し、子ども・生徒の人間的、社会的な成長や発達をはかることにその基本的な意義がある。現行の高校学習指導要領が、「学校行事」など「特別活動」の「目標」について次のように書いているゆえんであろう。すなわち、「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、集団の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的態度を育てるとともに、人間としてのあり方生き方について自覚を深め、自己を生かす能力を養う。」ことを目ざすとしている。
 教科外活動として、このような意義を持つ「学校行事」は、学校が計画し、実施する活動であるとしても、高等学校の場合は「全校若しくは学年又はそれらに準ずる集団を単位として」行うとされている(学習指導要領による)。このように「学校行事」は「学年やそれに準ずる集団」を含む集団的な活動であるところに本来の特色があり、また子ども・生徒がその集団に参加してはじめて成立する活動である点に意義がある。現に、学習指導要作成関係者も、小学校の場合においてさえ、学校行事は「学校の意図的、計画的教育活動」ではあるが、「子どもの自主的な参加、積極的な参加ができるよう指導されることがきわめてたいせつなことである。」と解説している(成田国英編『改訂小学校学習指導要領の展開(特別活動)』、明治図書、1991年133ページ)
 「儀式的学校行事」は、指導要領によればたしかに「学校生活が有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活への動機付けとなるような活動を行うこと」とされ、また、周知のように同じ儀式的行事でも「入学式や卒業式など」に限っては、「その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とある。しかし、その前提条件として求められているのは、次のようなことである。その一つは、特別活動の指導計画の作成にあたり、「学校の創意工夫を生かすとともに、学校の実態や生徒の発達段階及び特性等を考慮し、教師の適切な指導の下に、生徒による自主的、実践的な活動が助長されるようにすること」。もうーつは、とりわけ「学校行事」については「学校や地域及び生徒の実態に応じて」実施することとされている。
 このような規定のし方は、「学校行事」が一般に学校の創意工夫や生徒の自主的、実践的な取り組みを助長するのみでなく、父母(家庭)や住民(地域)との結びつきを欠かせない教育活動であるという特質を示している点であり、「教科」教育と大きく異なることが注目されるのである。この点に照らせば、後にふれるような教育法的な意義をあらためてあげるまでもなく、学習指導要領じたいが子ども・生徒参加ならず父母・住民とのかかわり・参加をすすめているということができるのである。

4学校の決定と校長・教育行政のあり方

 次は入学許可をめぐる問題であるが、これは法規では、たしかに学力検査などを資料として行われる「入学者の選抜に基づいて校長が許可する」とある (学校教育法施行規則59条)。しかし「入学者の選抜」は、全校的な校務として自治的に行われ決定されるのであり、その結果に基づいて「校長が許可する」という行為を対外的に示すことになる。このことを確認しているのが、学校教育法施行規則の規定に他ならない。この場合、入学者の「選抜」と入学を「許可」すべき子ども(志願者)であるかどうかは、それが全校的にあるいは委員会のような組織で
行うにしても──校長をその一員に含めて行われる
のであるが、学校の自治的な決定の核心である。
 そこで、校長がこうした決定と離れて別にひとり「許可」権を行使するなどということは、実態でもないだろうし、この核心にふれていて問題なのである。本件に即して言えば、もちろん、入学許可を入学式でどのように行うか、という方法を含めて学校の自治的な決定が重要なのである。なお、この見地からすれば、県教育委員会規則中にこれに関する規定があるかどうかによつて決定されることでもなく、もしも、入学許可の方法などについて立ち入った画一的な規定がなされたとすれば、むしろ、それが学校の自治に反する違法性を孕むというべきであろう。
 この問題に関連し、もうーつ問われなければならないのは、県教育委員会が前記のような文書を発している点である。文書がどのような性質のものか明らかではないが、学校(の決定)を越えて、「選抜」や「学校行事」に関して画一的な規制を加えることは、学習指導要領の趣旨にも反するが、何よりも教育行政権に禁じられている教育が「自主的に行われることをゆがめるような『不当な支配』(教育基本法10条1項、1976、5、21 最高裁大法廷判決)に通じるのではないか、と言えよう。また、このことは教育委員会の権限を制限する方向を打ち出し、「学校の自主性・自立性の確立」を提起している今日の分権化を目ざす方向にも反するのではないか

5学習指導要領の基準性、生徒・父母参加の問題など

 この事件のなかで学校長、教育委員会ともに学習指導要領を金科玉条のように扱って説明しているのがあらためて印象深い。指導要領の法的性質についてここで詳しく論じる余地はないが、少なくともその全体を動かしがたい基準として解釈することは、ことが教育内容や活動の基準である限り妥当でないことに注目したい。 たしかに指導要領について「法規としての性質」を有するとの判例(最高裁1990,1,18 第一小法廷判決)がないわけではないが、教育内容の制度的な側面も、内容的な面も全て一律に法規性を語ることは教育の性質上できないことをここで指摘しておきたい。 
 最後に、この事件に関連し、学校の自治の実体をなすことが望まれる生徒や父母の学校参加の問題である。参加の内容については今は問わないとしても、
あらためて生徒や父母が参加権を有すること─ そ
れは教育法原理的にはも早当然のことであること─
を指摘したい。それは、憲法の教育を受ける権利(26 条1項) 、親の教育権 (民法820 条) はじめ、子どもの権利条約の「意見表明権」(12 条) や「表現の自由」(13 条) 、結社・集会の自由(15 条) などがその根拠である。そこで、今日、権利条約も国内法と観念し、各学校において参加の原理を実体化し、慣習法化することが求められていると考えるぺき段階である。

 (かんだ おさむ 山梨学院大法学部教授)

 

将来構想検「中間まとめ」を読んで


永田 裕之
 

 長後高校ではすでに4年にわたって学校の改革に取リ組んでいる。(長後の取り組みについては『ねざす』のNo.18を参照)県の特色ある高校づくりのプラン作成の要請に基づいて始めた試みなので組合サイドからは冷たい目で見られているなと感じることもあるが、れっきとした学校改革の試みだと思っている。実際に改革を試みてみるとあらためてわかることも多い。そうした立場から「これからの県立高校のあり方について」の感想を述べたい。
 改革を進めるにあたつて一番障害になるのは「学校間格差」である。職業的な科目を入れようとすると「職業高校になったかと思われるのではないか」「これ以上低学力の生徒が入つてきたらどうするのか」という声が校内外から聞こえてくる。そしてこうした声は杞憂ではない。「外国籍生徒の受け入れ」「教育課程の単位制的運用」「アカデミックではない科目の設置」などすベては「学校間格差」のなかで考えると実現をためらうことになってしまう。
 私の子どもが3年間藤沢で高校受験の予備校のアルバイトをしていた。「みんな長後にだけは行きたくないといつてるよ。」と言う。理由は「大学に行けなくなっちやうから。」だと言う。(事実は必ずしもそうではないが)
 高校教員として30年近くを過ごしてきて、高校が大学進学実績で評価されるというのは、この社会のなかで保護者、教育委員会、教員、誰もの骨の髄までしみ込んでしまつた「常識」なのである。(必要ならばいくらでも例をあげます。)
 以上のような考え方に立って言えば、「高校の特色づくりによって、生徒が高校で何を学びたいのかという視点に立って学校選択をする事ができるようになることが期待でき」(「中間まとめ」P9)、そして、そのことによって高校の序列意識が変革されるなどという脳天気なことを言つているうちはダメである。おそらくこれを書いたのは高校教育課の誰かであろうが、自分の中の序列意識が(たとえば親として)変えられるものかどうか考えてみたらいい。
 今後の県立高校の構想を立てるというならば、この「学校間格差」をどうするのかということに荒削りでも見通しがほしい。アメリカ合州国のように学校内にコ−スや科目ごとにいわゆる格差を持ち込むことはできないとすれば、多かれ少なかれ「学校問格差」を残す形で人材の選抜、選別をして行くであろう。とするならば、今の学校問格差をどう変えていくのか、あるいはほぼ現状のまま行くのかというあたりのことを明確にしてほしいと思う 
 中間報告には部分的には賛成できることも多い。長後高校ですでに取り組んでいることもある。だが将来構想というからにはそれにふさわしい「学校間格差」についてのグランド・デザインがほしい。言いたいことは山ほどあるが、指示された紙幅が尽きた。

(ながた ひろゆき 県立長後高校教諭)

 

『ねざす21号』内容紹介

(1998年4月刊行)


特集「シンポジウム 高校生は今!」
昨年11月に行われた教育研究所主催のシンポジウムの記録
・高校生の変貌と高校教育改革(三橋正俊)
・成長と幸福の矛盾(中西新太郎)
連載 「ねざす談義」(12)
「資料でたどる神奈川勤評闘争(5)」
所員レポート「市民活動は「教育」を変えられるか!」
職場にねざす(8)「沖縄展3」
光陵高校文化祭教員有志企画

98教育研究所シンポジウム

□テーマ□
「神奈川の入試制度を問う」(仮称)

日時 1998年11月7日(土) 午後2時より

場所 Lプラザ 多目的ホ−ル(3F)
今回のシンポジウムは、「神奈川県教育文化研究所」との共催で行います。シンポジスト等については後日お知らせします。是非お出かけください。