この事件のなかで学校長、教育委員会ともに学習指導要領を金科玉条のように扱って説明しているのがあらためて印象深い。指導要領の法的性質についてここで詳しく論じる余地はないが、少なくともその全体を動かしがたい基準として解釈することは、ことが教育内容や活動の基準である限り妥当でないことに注目したい。 たしかに指導要領について「法規としての性質」を有するとの判例(最高裁1990,1,18 第一小法廷判決)がないわけではないが、教育内容の制度的な側面も、内容的な面も全て一律に法規性を語ることは教育の性質上できないことをここで指摘しておきたい。
最後に、この事件に関連し、学校の自治の実体をなすことが望まれる生徒や父母の学校参加の問題である。参加の内容については今は問わないとしても、
あらためて生徒や父母が参加権を有すること─ そ
れは教育法原理的にはも早当然のことであること─
を指摘したい。それは、憲法の教育を受ける権利(26 条1項) 、親の教育権 (民法820 条) はじめ、子どもの権利条約の「意見表明権」(12 条) や「表現の自由」(13 条) 、結社・集会の自由(15 条) などがその根拠である。そこで、今日、権利条約も国内法と観念し、各学校において参加の原理を実体化し、慣習法化することが求められていると考えるぺき段階である。
(かんだ おさむ 山梨学院大法学部教授) |