教育研究シンポジウム
高校生は今!

 高校教育の多様化が叫ばれる一方で、「コギャル」「援助交際」「薬物汚染」など高校生を取り巻く状況は次第にエスカレートしているように見えます。神戸の小学生殺害事件に象徴されるような「大人」の理解を超えた行動に走る彼らの心象風景はどのようなものなのでしょうか。
 教育研究所では、「学校化社会」と言われる中で深く進行している高校生の「学校離れ」、「教育の空洞化現象」に焦点を当てて、『教育白書97』で「高校生の学校に対する意識の変化を探る」と題した独自調査を試みました。その調査結果から見えてきたのは、学校生活、中でも授業に対する求心力が失われ、「退屈でかったるい」時間を何とか耐えてやり過ごしながら、友人との交流や学校外の生活に楽しみを求めている高校生の姿でした。
 そうした高校生・若者の「今」を問う、という内容で今回のシンポジウムを企画しました。現在、若者論・若者文化を中心にして活発な言論活動を展開されているシンポジスト二人と学校での生活を通して高校生とかかわっている現場教師二人がそれぞれの高校生観・若者観をぶつけ合います。その論議の中から、今後の学校づくりの方向性を探ることができればと考えています。
 

期 日 1997年11月15日(土)14:00〜16:45
会 場 Lプラザ(神奈川労働プラザ)
横浜市中区寿町1―4
JR根岸線 石川町北口下車(横浜寄り)徒歩3分
テーマ 高校生は今!
司 会 三橋正俊さん(研究所員)
シンポジスト 駒崎亮太さん(県立茅ヶ崎高校・定)
速水由紀子さん(ジャーナリスト)
福富理智さん(県立神田高校)
宮台真司さん(東京都立大学助教授)

 

「高校生は今」

速水由紀子
 

 神戸で起きた小学生殺人事件で「十四歳の危機」がにわかに注目されたが、今、子どもたちにとってもっともきつい時期は十四歳から十七歳までの三年間である。
 この時期、彼らは世界に自分の存在価値を刻み付けるために、大人の想像の及ばない、様々な行為に走る。
 学校の成績や偏差値が自尊感情を満たす子どもはごく一握りだ。だから男女共に、この時期は自分が認められる「居場所」を作ることが、最も重要となる。
 例えば女子なら仲間同士で容姿やファッション、ブランド品、友達の多さ、雑誌デビューといった「女」としての価値付けを競う方向へ。男子ならアニメやマンガなどオタク的メディアへの傾倒やクラブ通いなどである。
 こうした「居場所」は時として、援助交際や風俗の仕事、薬など、逸脱行為のきっかけをも提供する。
 なぜならこの時期の子どもたちは、大人たちが作り上げた「自分に無関係な」社会に対抗するため、まったく別の価値付け、人間関係を築こうとするからだ。
 精神科医の斎藤学氏も言うように、「子どもたちは、親や教師から教えられたことだけでは、決して大人になれない。ある意味での逸脱集団の中で、初めて生きるルールを学んでいく」のである。そして大人たちの示す社会観、人生観が欺瞞に満ち空虚に見えれば見えるほど、逸脱の程度は先鋭化していく。
 出世や一流大学、一流会社という「成功者のシナリオ」に実効性が失われた今の時代、親や教師の口先だけの「お前のため」という大義名分は、何の効力もなくなっている。
 大人たちでさえ、自分の人生に肯定館を抱くのが難しい世紀末の無力感漂う日本で、我々は彼らのためにできることはただひとつしかない。それは自分という「個」の特性を見極め、人生の価値を自分で選択し結果を引き受けて行く、自己決定能力の育成である。
(はやみゆきこ ジャーナリスト)

 

高度成長期以降の利己的日本は今

駒崎亮太
 

■「公徳心」欠如
 公園に行くと空き缶やポリ袋の散乱、たばこの吸殻のポイ捨て、草むらには犬のウンコ。同様に散らかった道を歩くと、横断歩道で車は止まらない、雨の日の水たまりで徐行しない、夜自動車と対向しても減光しない、駅のホームにはツバの吐き捨て、線路は吸殻だらけ。電車に乗れば、お年寄等ハンディのある人に席を譲る光景は少なく、苦肉のシルバーシートは若者が占領。どうして日本はこんなに情けないことになっていしまっているのでしょう。
 ある人々は公衆道徳、公徳心の欠如だ、道徳教育の必要を叫びます。確かに戦前はお年寄に席を譲りなさいという類の徳目は躾られていたようです。
■民主教育は否定的批判だけ?
 ところが、そういう形式から入る儒教道徳による善行だけではダメだ、心を伴っていなければいけない、大切なのは行為を支える「思いやる」心だ、と民主教育は言ってきました。しかし、現在それは成功しているでしょうか。「戦前」や「封建」や「日本」を復古として否定的に批判し、「道徳教育」に反対し、「現在」にも反対してきた教育現場は、それに代わる「憲法と民主主義」の倫理を結実し得たでしょうか。「滅私奉公」を否定した後、私にとって「あなた」「彼」「公」「国」とは何?どうだった?のでしょうか。
■高賀教育程度で、風潮・流行に勝てるか?
 それが妨害された、というべきでしょう。封建主義に代わる資本主義の倫理は、快楽と利潤を全面的に肯定するものとして反「滅私奉公」の風潮にのって、企業・消費者共に「利」のためには何をしてもよいという利己主義の風潮を蔓延させました。特に60年以降、日本(本土)の反映と平和、自分(と家庭)の幸福のため、アジア・地方・沖縄を抑圧、破壊してきたことは周知の通りです。個人生活は、ゆりかごから幼、小、青年期を中心に消費者として食い物(ターゲット)にされます。流行を創出し、流行に乗り損なうまいとの欲望を創出し、今目の前の欲望を満たすためには、売る方も買う方も「後は野となれ山となれ」の使い捨ての風潮にどっぷり使った挙句が、目の前のもりであり、六ヶ所村であるわけでしょう。
■別の人種?それとも裏腹?――自分はなぜ、しない(する)?
 60年代末に、若者を中心に、その風潮への抵抗運動があったけれど、つぶされてしまった、と思っていたら、最近のあの、ボランティア志向は何でしょう?今の生活の何が不満でそんなことをやりたいのか?別の人種?それとも?子どもにはどう反映する?
(こまざきりょた 茅ヶ崎高・定)

 

「いまどきの高校生」

福富理智
 

 夏休みに2度目のインドに行ってきた。
 インドに育前、卒業生たちとキャンプに行ったのだが、バーベキューのとき、日も暮れてくるというのに誰も焦らない。ただゆっくりと時間ばかりが流れていく。たぶん多くの現代人はインドの時間の流れの雄大さにひきつけられるのだろうが、この子たちは、日常が極めてインド的な時間の流れの中にあるので、インドに行く必要がないんだと思った。大学生がインドに行ったりするのは、決まったレールの上をちょっと脱線してみたいエリートのノスタルジーなのかも知れないとも思った。
 話はそれたが、「いまどきの高校生」のことなど、私にはさっぱりわからない。毎日接していても分からないことだらけなのに、その道の人がいろいろ分析しているのを見るとすごいなあと思う。上に書いたように、毎日が発見の連続だし、それでいて、私が接しているのはごく普通の高校生で、得に「いまどき」をつける必要がない気もする。
 先日の試験のとき、「クラスの5人ぐらいが筆記用具を持ってない、学校に何しにきてるのかしら」という話が出た。その子たちは少なくとも勉強しに来るのではない。だけど、学校は好きで毎日来る。友だちに会いに?それともここが安心できる居場所なのか。
 お兄さんの家庭内暴力で家に帰りたくないと泣く子がいた。家庭訪問に行くと、半分ぐらい開けられた玄関の向こうから、異臭がする。その家は長いこと電話が止められていた。
 もちろんそんな家ばかりではない。ただ「いまどきの高校生は、」などと、全ていっしょくたに論じることは私にはできない。しかし、少なくとも、学校にちゃんと行ってお勉強して、いい学校に行く人は偉いという価値観に傷付けられてきた姿は感じ取ることができる。無力な私にできることは、学校が少しでも居心地のいい場所になるよう、生徒たちと関わっていくことぐらいだろうか。
(ふくとみりち 神田高校教諭)

 

高校教育を揺さぶる地殻変動

三橋正俊
 

第16期中教審が、中高一貫教育や「飛び入学」の答申を1997年6月に文部大臣に行った。その答申に先立って公表された「審議のまとめ(その二)」を読んでいたら、高校への進学率が96.8%に達したことについて、「このように多くの子どもたちが高等学校で学びたいという意欲を持っていることは積極席に表かすべきである」とあった。私はこの認識を前提に高校教育改革を進めるのは、的外れであり、むしろ改悪にしかならないと思う。
 神高教の課題集中高プロジェクトチームがこの3月に発行した『学校づくり最前線』では、「勉強はしねぇ、でも、卒業はしてぇ」という高校生の実態を描き出すとともに、その生徒たちにどのような高校教育を用意したらよいのか、授業から生活指導、施設設備に及ぶ様々な学校現場の改革の取り組みについて紹介している。この編集に参加した経験から、私は「課題集中校からの教育改革」こそが今求められていると考える。
 しかし、この小冊子刊行後も、高校生の「学校離れ」の進行は予想をはるかに越えて進んでいる。教育研究所が行った「高校生の生活と意識」調査結果(『教育白書97』所収)は、そのことを目に見える形で示している。高校に来るのはかったるい、できればやめたい。しかし今の社会では高校ぐらい出ていないと通用しない。そこで友達がいるからと、気の向いたときに学校に来る。そして学校では、廊下やトイレでたむろしたり、授業中おしゃべりをしたり化粧をしたりという生活を続ける。あるいは、ほとんど登校せずに留年をしたり、友人とのトラブルがもとであっさり学校をやめいってしまう。
 高校生のこの地殻変動とも呼べるような「学校離れ」をおしとどめ、彼らが新たに高校生活を楽しいと感じ、将来に夢を抱けような制度や学校現場での改革の一端を、このシンポジウムでつかむことができればと願っている。
(みつはしまさとし 研究所員 中沢高校教諭)

 

社会が成熟すると「端的なもの」が露呈する

宮台真司
 

 私たちに近代社会は、「人間は平等だ」「誰もが同じように愛される権利を持つ」という具合に、こうした「端的なもの」を巧妙に覆い隠してきた。その尖兵として機能したのが「学校」で、子供に長らく「頑張れば報われる」「教室はみんな仲間だ」などと信じさせてきた。これからますます「輝かしい未来」に向かうと信じられていた近代の過渡期には、誰も疑念を抱かなかった。だが、近代が成熟するにつれて子供たちは、「頑張っても必ずしも報われない」「教室の中は他人ばかりだ」と気づきはじめる。私たちは、「人間は平等に扱われない」し、「誰もが同じように愛されるわけではない」という事実を覆い隠せなくなる。
 こうして私たちは、イデオロギーによって覆い隠していた「端的なもの」に向き合いはじめる。ところが、学校も家も、子供たちが気付きはじめた「端的なもの」を懸命に覆い隠そうとする。だから、学校も家も、「ウソ学校」「ウソ家庭」に見えてくる。だからみんな「ウソ学校」で「ウソ生徒」を、「ウソ家庭で」で「ウソ子供」を演じるしかなくなる。
(みやだいしんじ 東京都立大学助教授)