神奈川県高等学校教育会館

厳罰主義について



子どもの権利教育研究会


第1回研究会 テーマ 「生徒人権手帳」・「京都市立高校茶髪指導問題」 詳細をFDに収録


  
第2回研究会 テーマ 厳罰主義について 概要
参考文献 「少年犯罪と向きあう」 石井小夜子著(岩波新書)
  1. 子どもは変わったか
     弁護士として少年犯罪を担当しているが、人間として、子どもとしての本質は変わっていない。大きく変わったのは、大人の子どもへの視線だろう。大人の子どもへの視線は、一言で言えば過剰になった。その一方で、子どもに対しては寛容ではなくなった。
     子どもへの期待も過剰になり、子どもは弱い存在だからということで、子どもの意思や力を無視し、大人の教え込みが強くなった。そしてそれに従わない子どもには不寛容になった。こうした大人の姿勢から見たとき、わたしたちには、「子どもが変わった」と見えるのではないか。

  2. 少年法厳罰化の論理
    2011年11月、少年法改正案が深い議論もなく成立。

    改正内容の要約
    1. 「最近の少年犯罪の動向等(少年犯罪の凶悪化・低年齢化をさす。少なくとも統計上はその事実がないことを後に示す)にかんがみ、少年及びその保護者に対し、その責任について一層の自覚を促すため」、(1)刑事処分(刑罰)を可能とする年齢を14歳に引き下げる、(2)故意の犯罪によって人命を奪った16歳以上は原則逆送にする、(3)必要な場合には保護者に訓戒、指導等適切な措置をとることができる。
    2. 「少年審判における事実認定手続きの一層の適正化を図るため」、(1)検察官と付添人が関与した審理を導入する、(2)裁定合議制(3人の裁判官が担当する制度)を導入する。
    3. 被害者に対する配慮を実現するため、記録の閲覧や意見聴取等の制度を導入する。
    4. 再審制度の拡充等を図る。
      問題点:特に、一定の犯罪については原則刑事処分にするという、犯罪の外形的事実で処分を決める「原則逆送」は、「健全育成を期す(非行をなくし自立・自律への道を歩ませるにはどういう処分が適切か)」という少年法の理念からは外れる考え方である。
      (1)少年法改正の背景である少年犯罪の増加、凶悪化、低年齢化は本当か 
      1. 少年犯罪は増えたか・・・最近、戦後第4のピーク到来かと言われたが、1999年から下がりはじめている。
      2. 少年犯罪は凶悪化(殺人、強盗、強姦、放火)したか・・・殺人で検挙された少年は1961年に448人(ピーク)であるが、2000年は105人である。人口比でも3分の1以下である。
      3. 低年齢化したか・・・刑法全体でいえば、年少少年(14,15歳をいう)の検挙人員は、人口比で未だ他年齢層より高いが、1980年代に比べれば低くなっており、1990年代からは高校生が一番多い。凶悪犯罪全体に占める年少少年の割合も以前(80年代)に比べ低くなっている。


第3回研究会 テーマ イギリス「教育改革」の教訓 概要
安倍内閣「教育改革」は、1980年代後半のサッチャー「教育改革」をモデルにしている。
サッチャー「教育改革」とは、
  • 統一テストの成績で公立学校をランク付け(冷徹な市場原理)し、親に学校を選ばせる。
  • 競争原理に基づく強引な「上からの改革」は、現場に疲労、萎縮をもたらす。
  • 国家による学校査察制度
    「地方分権型」(地方教育局主体)→「中央集権型」へ
  • 「学力向上」を至上命題
    現場への国歌の強い介入を伴い、教師の反発が大きかった。
  • 成績の悪い学校を社会に公表する制度
  • 「ネイミング・アンド・シェイミング(名指しして辱める)」教育文化として厳しい批判を受ける。
結果
 競争と知識をテストの結果の数値で図る教育で、子どもの思考力や批判精神を育むことができるのか、という「学力の本質」を巡る議論が最近活発になっている。
<1988年教育改革法(サッチャー教育改革)の内容>
  1. 全国共通カリキュラムと統一学力テストの導入
  2. 統一学力テスト結果の公表と、親への学校選択権の付与。
  3. 学校の自治の保障
  4. 学校査察機関の設置
<ブレア政権の教育政策>
  • 教育を最重視、サッチャー教育改革を引き継ぐ
  • 学力向上政策は保守党政府より強化した。国家管理が強まった。
  • 詳細な授業方法の策定(政府によって授業の進め方が細かく規定)
  • 「成績到達目標設定」(国家目標に沿い、学年、クラス、生徒一人ずつの到達目標を設定)


第4回研究会 「教育再生を根本から考える」(諏訪哲治著)をめぐって 概要
 明治以来の「国民形成」重視型の文部省主導による教育が、多様な個性を尊重すべき脱工業化社会(後期近代化社会)にあわないとして、民間経済の活力にゆだねる「教育に自由化」が強烈に主張された。教育や学校を規制緩和して、国家の規制下から民間に移そうというものであった。
 臨教審は「教育の自由化」論者と旧文部省が痛み分けの形で、「個性の尊重」ないしは「個性重視の原則」を確認して終了した。その後ますます教育市場での私立学校の優位は進み、子どもたちの塾通いも日常化、「教育の自由化」は実質進行していった。  
 「教育の自由化論」は「消費社会」の進行に伴って文部省にボディブローのように徐々に効き始め、「個性重視」の原則は90年代の「ゆとり・生きる力」教育へとつながっていく。
 80年代にはいると、「・・・職員室に来なさい」と言っても「いかねえよ。行く必要ねえよ」と応じない生徒も出てきた。こういう「個性的な」生徒を教師は指導できなかったし、全く打つ手が見つからなかった。臨教審の「個性重視の原則」を生徒たちから力によって押しつけられたのである。
 1980年代中葉の「新しい子どもたち」は、勉強しようとしなかった。勉強するということは自己を革新するということであり、鍛えていくことでもある。子どもたちはありのままで社会を生きていけると思っていた。確かに、戦争や対立や抑圧や貧困のない社会では、子どもが、社会的自己を形成していくのは難しい。私たちも80年代にアメリカやイギリスと同じように、教育による近代的個人の形成という事業につまずき始めたのである。
 バブルの崩壊では、日本的システムの限界が取りざたさされ、日本的経営と同じように日本的な教育や学校が批判の対象になる。社会主義体制の崩壊は資本主義の優位を確認することになり、精神や思想の軽視につながった。



第5回研究会 「ゼロトレランスの根にある物」講師武田利邦氏  詳細をFDに収録


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