神奈川県高等学校教育会館

教師の専門職性について


神奈川教育法研究会
 教師は専門職だと言われる。しかし、多くの保護者はそう思っていない。予備校の教師と比べ、さらには自分と比べ、教師の学力が特に高いかどうかは怪しいものだと思っている。そもそも大学の教育系学部は偏差値が高いわけではない。
 教師は専門職なのではなく、専門職であるべきだ、と考えられているのではないだろうか。専門職にふさわしい資質の養成のためにはどのような教職課程が必要なのか、専門職にふさわしい待遇は何か、専門職にふさわしい力をつけるためにはどうしたらいいか、等々。教師は予備校や塾まで入れれば「業務独占」でも「名称独占」でもない。
 そうした視線で見れば最近の教育、中でも教師をめぐる政策の内容は「現状では教師は専門職にふさわしい力はない」と言っているようなものである。
 会報79号の論文「教師の専門職性と労働条件・身分保障をめぐる諸問題」は最近の教師をめぐる政策が「教師の専門職性」をいかにゆがめてきたか、と言う観点から論述されている。職員会議の形骸化、主幹教諭や指導教諭の導入は多くの教師は余計なことは考えず、言われたことだけやっていれば良いというメッセージである。教員免許更新制や指導力不足教員の研修制度などは、教員としての指導力について教師を不安にさせる装置である。教師の多忙化は主に事務作業による多忙化が中心なので、一層自分の仕事に対する自信を失わせ、早期の離職に向かわせる。
 教員免許更新制がなくなっても、教師の資質向上策はやらないわけにはいかないだろう、やらなければ世間が許さない、と言った教育学者がいたが、教師の専門職性は世間が認めていない、と考えるべきだろう。
 会報78号、79号の松原論文「教師の専門職制に関する一考察」は教育学の不振こそが「教師の専門職性」を脆弱にしている、と分析している。有り体に言えば教育学が言うあれこれは科学性においても実践に役に立つという点においてもそれほど価値がない、と言うことである。 
たしかに「学力」という教育にとっては基本的な課題においてさえも百家争鳴である。そして教育学が何を言っても学力とは読み書きそろばんであるとか小学校の「主要教科」が基礎である、と言った言説は抜きがたく教師の間にもある。教育実践にとっても教育学は無力である。
 もし、教師の専門職性能のうら付けが教育学だとしたなら、専門職性を主張すること自体が無理であろう。残るのはフーコーのいう教師の権力性だけが張り子の虎のように残っているだけではないだろうか。
 だとするならば教師の専門職性は、何もないところから作り上げていくしかないのではないだろうか。その道は何か。次年度にはそれを考えたい。

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