読売新聞(2002.10.21)より
  
法律物語 上 教育基本法
GHQ圧力で「伝統」削除

ー封建的」と誤解 ◆教育勅語に代わるよりどころ ◆見直しタブー視ー
 「教育」の荒廃が叫ばれて久しい。凶悪な少年事件、いじめ、不登校、学級崩壊、若者のモラル欠落-。その処方せんとして、「心の教育」や家庭教育の重視、農作業や介護などを体験させる奉仕活動の推進など、教育改革の提言も数多い。
 一九四七年三月に制定された教育基本法は、九年間の義務教育など教育制度の骨格を定めている。教育の目指す理念として「個人の尊厳」の重視を掲げ、戦後教育の支柱となった。が、戦後五十年が経過し、教育を取り巻く環境は激変し、時代に適合しない面も出ている。
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 教育基本法は、前文に「日本国憲法の精神に則り」とある通り、その理念は憲法をベースにしたものだ。憲法と大きく異なるのは、日本側が自主的に制定を発案し、法案の基となった草案も日本側の手によるものだったことだ。
 第一次吉田内閣当時の四六年六月、田中耕太郎文相は衆院本会議で答弁した。
「学校教育の根本だけでも議会の協賛を経るのが民主的態度で、目下その立案の準備に若手している」商法の権威で、のちに最高裁長官を務めた田中文相は、戦後まもなく東大教授兼務のまま文部省学校教育局長に起用され、引き続き文相として戦後教育改革を担った。
 杉原誠四郎・武蔵野女子大教授(教育学)は指摘する。
 「田中氏は反戦思想の持ち主で、戦争末期には軍から要注意人物とにらまれていた。戦争を反省し、教育の普遍性を実現するという田中氏の思いが、教育基本法には込められている」
 だが、田中文相の意を受けて文部省が作成した草案に対し、連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)は、いくつかの重大な変更を要求した。「伝統を尊重し」の文言を削除することや、宗教教育の表現修正などだ。
 これが、国や地域とのかかわりが軽視され、健全な「公共意識」の形成が損なわれることにもつながつた。教育の荒廃を招いた一端と言われる教育基本法の問題点は、この時点で内包することになった。
 高橋史朗・明星大教授(教育学)は「CIEの当時の責任者に、なぜ『伝統』を削除したのか尋ねたことがある。すると、『通訳が、この言葉は封建的な世の中に逆戻りするという意味だと言ったので、削除しようと判断した』との返答だった。『伝統』と言うだけで封建的なものと誤解されてしまう時代背景があった」と見る。
 「教育勅語」との関係が不明確だったことも、その後の論争の火種となった。
 田中文相は、戦前の軍国主義教育は批判しながらも、教育勅語そのものは「個人、家族、社会及び国家の諸道徳の諸規範が相当網羅的に盛られている」と擁護した。立法作業にあたった関係者は一様に、教育基本法には 教育勅語を否定する意図がなかったことを強調している。
 しかし、四六年十月、学校行事の際に教育勅語を読まないとする文部省通達が出され、四八年六月には、GHQの指導の下で教育勅語の「排除」「失効確認」の国会決議が行われた。この結果、教育基本法は、「教育勅語に代わる存在」となる。
 槙枝元文元日本教職員組合(日教組)委員長は述懐する。
 「戦時下の教師は教え子に『国のために死ね』と教えてきた。戦争に負け、価値観が百八十度転換し、戦後は教育基本法が新しい心のよりどころになった。それこそ『拳拳服膚』(心中に銘記して常に忘れない意=教育勅語の表現)したものですよ」
※CIE要求による変更部分
【伝統に関する表現の削除】
「普遍的にして、しかも個性ゆたかな伝統を尊重して・しかも・創造的な、文化をめざす教育が普及徹底されなけれはならない」(1946年11月29日公表の法案要綱案)→「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」(教育基本法前文)
【宗教教育に関する表現の修正】「宗教的情操のかん養は、教育上これを重視しなければならない」(法案要綱案)→「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」(教育基本法9条)
{教育勅語
1890年(明治23年)に発布され、明治政府は全国の小学校校長に対し、入学式や卒業式などの儀式の際に生徒の目口で朗読するよう命じた。「父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ」(父母に孝を尽くし、兄弟に友情を尽くし、夫婦はよく和合し、朋友はお互いに信じ合い)といった道徳的な表現と共に、「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」(国家に危機が迫ればその勇気を公に奉じ)などと忠君愛国を求める表現があり、戦前・戦中の画一的な軍国主義教育と結びついた。
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 教育現場が教育星本法を崇めれば崇めるほど、その見直しはタブー視され、憲法と同様に「不磨の大典」扱いされ出す。
 鳩山内閣以降、「伝統」削除の問題などが指摘されるたびに、日教組などが「教育勅語の復活を画策するもの」と反対運動を展開した。教育基本法見直しが具体化するのは、二〇○○年十二月、小渕首相時代に発足した「教育改革国民会議」が法改正を提言してからだ。
 提言を受けて中央教育審議会(中教審)が十七日公表した中間報告案には、「伝統、文化の尊重、国や郷土を愛する心」という表現や、社会の形成に主体的にかかわる「公」の意識の重要性が盛り込まれた。
町村信孝・元文相は「戦後日本の社会は権利や主張に偏り、教育基本法も義務や責務に触れていない〇二十一世紀を迎え、新しい時代にふさわしい教育基本法を、自由な発想で全面的に書き直すのが自然だ」と語る。
法制定から半世紀余。「教育基本法見直し=教育勅語の復活」式の不毛な政治論争に終止符が打たれ、教育のありようを根本から議論する素地がようやく整った。(「法律物語」は原則として月曜日に掲載します)